第31話 挑発
元和七年九月二十八日
その日は朝から西風が強かった。夕刻にはひどい勢いで夕立が降り、定俊は日課の釣りが果たせずいささかお冠であった。夜になって雨はあがり月が顔を出しても、なお風は強いままで蕭々とした風の音が、笛の音(ね)のようなか細い楽を鳴らしていた。
「――――来たか」
角兵衛が片目を開けて、床からむくり、と起き上がる。聞きなれた笛の音を感知したためであった。
甲賀忍びが好んで使用する警戒用の笛は、特殊な訓練をした者にしか聞こえない。音というよりは波が脳の外郭を揺さぶるような感覚を覚えて、角兵衛は真っ黒な塊と化した夜の山へとまなざしを上げた。
これは宣戦布告であった。あの程度の仕掛けに引っかかるような伊賀組ではない。少なくとも先日猪苗代で散った伊賀組より手練れであれば、一目で見抜いてしかるべきだ。それでも仕掛け笛が鳴っているということは、あえて鳴らしているのに違いなかった。
「御爺…………」
「ああ、呼んでおる」
これみよがしに、我々はここにいるぞ、と呼んでいる。放置しておくという選択肢はない。奇襲を旨とする忍びは、存在が暴かれた時点でその戦力が半減するものだ。このまま放置して居場所を見失うほうが危険性は高かった。だが――
「ここは俺が――――」
「それがあやつらの狙いであろう」
当然そんなことは伊賀組も百も承知であるはずである。それでもあえて挑発してくるのにはそれなりの理由があるはずだった。物事には常に表裏があり、ここ奥州では地の利のない伊賀組でも、地域を限定すれば待ち伏せの罠を張ることもできる。特に伊賀組はそうした山岳での不正規戦を得意としていた。
「信長であれば数に任せて四方八方から攻め寄せるところであろうが……下忍もおらぬ有様ではな」
伊賀と同様、甲賀でも下忍に対する扱いは過酷である。下忍を囮として相手の出方を見るのは常套手段といえた。しかし今の角兵衛には一人の下忍もいない。
ならば罠と知りつつ噛みやぶるか。
「――――いかんな」
二者択一を迫られたとき、角兵衛はいつも直感を信じて生きてきた。今のところその直感は外れたことがなかった。だからこそこの年齢まで角兵衛は凄惨な忍びの世界を生き延びてくることができたのだ。
生きて帰ることのできる気がしない。どうやらよほどの手練れが派遣されてきたらしかった。さすがの角兵衛も、このとき方丈斎を含む伊賀組の組頭が、自ら部下を率いてやってきたとは思ってもみない。
ただ、尋常ならざる気迫と覚悟だけは、こうして距離を隔てた部屋のなかまで不可視の圧力となって届いていた。
これは死を覚悟しなくてはならない相手だ。そう思った瞬間、角兵衛の唇は無意識ににんまりと吊り上がっていた。
「本音が出てるぞ、御爺」
「おう、いかんいかん。あんまりうれしくてつい本音がでてしまったわい」
およそ角兵衛はある時点から自分より強いかもしれない忍びと戦ったことがなかった。あの先代頭領佐治義忠ですら、技量において角兵衛には及ばなかった。本当の意味で角兵衛が敗北を覚悟するほどの忍びと戦える。そう思うとどうしても笑みが浮かぶのを止めることができないのだった。
「まともにやりあえば危うい。小当たりして退くからそのつもりでおれ」
「これでようやく腕試しができるな」
八郎も愁眉を開いた思いで笑った。
日野の山奥を出て、満足する敵とも出会えずにいた。その鬱憤がついに晴らすことができそうなのである。友人もいない。娯楽も知らない。ただ角兵衛と腕を磨くことが全てであった八郎にとって、実に腕試しこそが生きてきた証であった。これまでの人生が、労苦が決して無駄でなかったことを実感したい。
それ以外の人生、生き方を八郎は知らないのだ。
もとより死ぬことが怖いなどとは思っていなかった。死を恐れるには、八郎はあまりに人生の多様性を知らな過ぎた。恋人を、家族を、立身出世を、色事や芸事の悦楽をなにひとつ八郎は知らない。師である角兵衛と忍びの術だけが八郎の人生の全てに等しかった。その人生の価値を推し量る術がそこにある。我知らず、八郎は角兵衛以上に満面に歓びの笑みを浮かべていた。
そして次の瞬間、二人の姿はとん、という軽い音を残して寝床から掻き消えていた。
ほぼ同じころ、おりくもまた警戒の笛音に気づいている。
ほんのわずかにおりくが身じろいだだけで、床で肌を合わせていた定俊はすぐに目を覚ました。
「来たか?」
「警戒の忍び笛が鳴っています。おそらくは挨拶のようなものでしょう」
おりくは角兵衛ほど挑発的な意味では受け取らなかった。最初から戦力の少ないおりくは、挑発に乗って相手の土俵で戦うなど考えてもみない。いくら挑発されようがなんとも思わなかった。
「だが傾奇者はその挨拶にも命を懸ける」
亡き氏郷は謹厳実直を絵にかいたような男であったが、関ヶ原の戦いの折、上杉家で同僚となった前田利益やなど傾奇者の知り合いも数多くいた。定俊自身は傾奇者というよりは数寄者であったが、両者の気質は割合近いものがある。
他者からは戯れにみえるような些細なことに、平気で命を懸けられるという気質である。
敵に挨拶するためだけに、あえて銃の射程距離に身をさらし、悠々と口上を述べる勇士もいた。もちろん運がなければその戯れのためにあっさり死ぬこともある。しかし傾奇者はそうした死すら楽しむのだ。
「定俊様がお望みならばいつなりと」
定俊が戦いたがっているのが、すぐにおりくにはわかった。
本来ならばこちらの縄張りで有利に戦いたいところではある。
しかしおりくにとって大切なのは定俊だけであり、その定俊が望むのならば安全のひとつやふたつ、いつでも差し出す覚悟であった。
愛おしそうに定俊はおりくの頬を撫でた。以心伝心、定俊の心は誰よりもおりくが知っている。そのことに甘えてしまっていることへの謝罪であった。
「すまぬな。老いても戦人の流れる血と性分までは変えられぬ」
「そんなこと、最初からわかっておりますとも」
嫣然とおりくは微笑む。そこに死の危険に対する恐れはまるで見受けられなかった。
定俊の性分をわかっているから惚れたのか、惚れたから全てを許せるのかはわからない。そんな女の懐の深さに、男は終生かなわぬのだろう、と定俊は密かに頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます