第9話 訪問者
元和七年四月のことである。この年の春は遅く、三月に季節外れの大雪が降ったこともあって、ようやく桜が咲き始めたというのに、まだところどころに白い雪の残滓が残されていた。
「なんとも美しゅうおすな」
武士らしき老人が磐梯山を見上げると、その雄大さと、裾野にかけて広がる雪と桜の微妙に違う白の美しさに感嘆の声を上げた。
男の名を山藤右衛門という。洗礼名はジョアン、当年とって五十三歳である。元は摂津武士でキリシタン大名として名高い高山右近に仕えていた。主君の影響で入信したが、天正十五年、秀吉のバテレン追放令を受けて高山家が改易となると、藤右衛門は武士であることを捨て九州筑後へと渡り、柳川で修道士を務めるようになる。
慶長十七年の幕府禁教令に伴い、頑として信仰を捨てなかった藤右衛門は仲間たちとともにマカオへと追放された。このとき旧主高山右近も追放されているが、こちらはマカオではなくフィリピンのマニアへと向かい、現地で大歓迎を受けるもまもなく異郷にて客死している。
高山右近とは違い、異国マカオの地でも健やかに生活することのできた藤右衛門であるが、望郷の念と布教の情熱はその後も冷めることがなかった。
そしてついに元和四年七月、宣教師ジョアン・マテウス・アダミとともに藤右衛門は日本への帰国を決行する。もとより追放の身である。当然のことながら密入国であった。見つかれば死罪は免れぬ大罪である。
密かにマカオから倭寇の船に乗りつけた二人は、ひとまず天草へ上陸しそこで布教を開始したが、九州でのキリシタン弾圧が厳しくなると、かつての仲間の力を借りて博多から北前船に移乗する。そしてようやく新潟港へと到着したのは年も明けた元和七年であった。
海外へ追放されたキリシタンは実は全体からすればほんのごく一部であり、まだまだ国内に張り巡らされたキリシタンのネットワークは健在であった。彼らの助けを借りて、二人は幕府の監視の目をかいくぐり、途上、同志に小西旧臣の田崎重吉を加えて、ついに会津への潜入を果たしたのである。
新潟港から阿賀野川を川船で遡ると、津川へと至る。まだこの時代は河川交通が主要な移動手段のひとつであった。ここから陸路塩ノ倉峠を越えるというのが会津へ至る一般的な道程である。
藤右衛門とアダミが津川から山越えをして三日ほど、会津坂下の只見川付近へ達したのはちょうど四月の十二日のことである。
「岡定俊様が治める猪苗代城まで、まだあと二日ほどかかりまする。お気を緩めなさるな」
商人らしい姿はしているが、隙の無い目配りと体さばきが明らかに商人を逸脱している男、田崎重吉はまるで咎めるように藤右衛門を睨みつけた。
田崎重吉は小西行長の旧臣で、洗礼名をマルコという。関ヶ原の戦いで小西行長が処刑されたのちは藤右衛門同様、柳川で修道士を務めた。後の島原の乱では天草十七人衆のなかに名を連ね、獅子奮迅の活躍をみせた武将だが、この時点ではまだ戦経験も未熟な三十七歳の浪人であった。
身分があらわになれば死刑、という密入国者の立場を考えれば重吉の懸念もゆえなしとはいえない。定俊がキリシタンを擁護しているとはいえ、主君蒲生忠郷は、表向きには棄教したことになっているからだ。黒田官兵衛にせよ、津軽信枚にせよ、大名がキリシタンであることを公言していられる時代ではもはやなくなっていた。
「……蒲生忠郷様ハ、レオ(蒲生氏郷)ノ孫デ、信仰モ厚イノデハナイノデスカ?」
「内心はどうあれ、母は大御所の娘です。期待しすぎれば裏切られましょう」
六尺を超える長身のアダミは、イタリア、マツァーラの生まれで誰が見ても濃い西洋人風の風貌を深い編み笠で隠している。そのアダミが腰を折り、片言で重吉に問う様子はどこか滑稽で、張り詰めた空気が解きほぐされていくかのようである。こうした柔らかな雰囲気も含めて、アダミは宣教師として得難い男であった。
「――奥州猪苗代に楽園あり。その風聞に偽りなければよいが」
重吉もアダミに対して厳しい言葉を吐くのはためらわれたのか、願うように蒼天を見上げて陽光に目を細めた。
キリシタンが幕府の直轄地から追放された結果、もっとも多くのキリシタンを受け入れたのは意外にも東北地方である。本来信徒の多かった九州は、幕府の直轄地が多いうえ幕府に警戒されている外様大名が多く、現在ではキリシタンは厄介者とみなされていた。
かつてのキリシタン大名たちの庇護を失い苛烈な弾圧にさらされたキリシタンが、関ケ原牢人と重税に喘ぐ民衆と結びついたのが島原の乱だ。その中には多くの小西行長旧臣の一人に田崎重吉の名もあるのだが、それはまた別の話である。
もともと藤右衛門やアダミが頼ろうと考えていたのは、実は定俊とは別な人物であった。その人物こそ奥州の独眼竜、伊達政宗である。
ところが一年ほど前の元和六年、八月二十四日に欧州へ派遣していた家臣支倉常長が帰還すると、にわかに政宗は全領内に禁教令を発した。『貞山公治家記録』によれば八月二十六日、すなわち常長が帰還してわずか二日後のことである。
三ケ条からなる禁令によって仙台藩では多数の弾圧による殉教者が出ており、後藤寿庵を筆頭に奥州最大のキリシタンを擁していた仙台藩は、いまや藤右衛門たちにとって甚だ危険な場所となっていたのであった。
伊達家以外にも津軽や南部、秋田にまで数多くのキリシタンが暮らしていたが、もっとも評判が高く海外にまでその名を知られていたのが、蒲生氏郷の治めていた会津であり、その配下で定俊が治めている猪苗代である。
特に猪苗代城内に建てられたセミナリオは、イエズス会の初等教育機関であり、日本でも設置された場所は数えるほどで、その全てがすでに閉鎖に追い込まれていた。猪苗代のセミナリオは、当時日本に現存する唯一のセミナリオなのであった。
「アノ者ガ伊達殿ニ余計ナコトヲ吹キコマナケレバコンナコトニハ……」
遣欧使節に同行した宣教師ルイス・ソテロが、政宗に日本征服の野心を吹き込んだというのは、イエズス会では広く知られた噂である。彼がそんな政治的な行動を取らなければ、当初の予定通り伊達政宗の支援を得ることができたのではないか? アダミはそう考えると温厚な表情に苦いものをにじませた。
もっともそこにはスペインが主導するフランシスコ会と、ポルトガルが主導するイエズス会の対立という偏見が混じっていたことも否定できない。温厚で誠実をもってなるアダミでも、そうした偏見と無縁ではいられないのである。
定俊はキリシタンとして全国的な知名度を持つ男ではあるが、いかんせん石高は一万石程度の陪臣にすぎない。仙台六十二万石の大名である伊達家とでは家格も戦力も天と地ほども違う。
はたして定俊が、アダミの案じる秘中の秘を託せるに値する人物であるのか。願わくば信仰を共にする兄弟に光を与えてくれる人物であってほしい。
我知らずアダミは瞳を閉じ、大地に跪いて十字を切るのであった。
田植えを控えて泥にまみれ、代掻きに余念がない壮年の男は、額の汗を拭うと二本松街道を大寺から猪苗代へと向かう三人の商人へと視線を走らせた。
その視線は茫洋と捉えどころがなく、腰に手をやって天を仰ぐ姿は、日々のつらい農作業にほっと一息ついているようにしか見えぬ佇まいである。だが感情を一切現さぬ鋭い瞳がそのすべてを裏切っていた。
「なじょすっぺぇ(どうしよう)…………」
鍬を肩に乗せると、困ったように男は天を仰ぐ。答えなど最初から決まっていた。その結果、妻を怒らせることになるのは仕方がないと割り切るほかあるまい。
あの気の強い妻が、代掻きもそこそこに夫が田を離れたと聞けば、いかほど雷を落とすかを想像して、男はげんなりと肩を落とす。
「おっかより頭のほうがおっがねえべ(妻より頭のほうが怖い)。まったぐ、ごせやけんなあ(本当に腹が立つなあ)」
春の大雪で田植え作業は遅れ気味であるというのに、偶然目にしてしまった厄介ごとに男は理不尽な怒りを抱いた。だからといって変装した南蛮人や、見るからに手練れの武士を見て放置するという選択肢は男にはない。なぜなら男はもとは甲賀忍びであり、いざというときのために庶民の中に紛れ込んだ草なのだから。
男からの報せがおりくのもとへ届いたのは、藤右衛門たちが猪苗代城下へ到着するより一刻半は早かった。おりくが掌握している忍びはこの猪苗代になんと七人近くもおり、それぞれが独自の符牒を用いて互いに協力し合っている。その取次ぎを担っているのがおりくの師でもある老忍び、達介であった。
「お嬢」
達介はいつもおりくをそう呼ぶ。佐治家連枝のおりくは、達介にとって大事な弟子であると同時に、守るべき先々代頭領の孫でもあった。あるいは子のない達介にとっても、おりくは本当の孫のように思えるのかもしれぬ。
その呼び方にいささかの気恥ずかしさを覚えつつも、おりくもまた忍びの腕を磨いた師である達介には頭が上がらずにいた。
「どうやら珍しいお客が来たぞ」
「敵ではないのですね?」
これが公儀隠密であれば達介はお客とは呼ばない。かといってただの客でもないのだろう、とおりくは推察した。
「さあなあ、殿を害する気がないから敵でないとは限るまい」
えてして敵意を持たぬ善意の人間こそ、人を破滅させるということを達介は何度も見た。天正伊賀の乱で、魔王信長と戦った伊賀者たちも、共に信長と戦おうとすり寄ってきたものだ。そのせいで協力した何人かの仲間が戦死した。
「……南蛮人がおる。松窪で宿をとったようだな。摂津訛りの男もいるらしいが、大方また追放されたキリシタンであろうよ」
このところ仙台からの追放者を含め、猪苗代を目指して逃れてくるキリシタンは多い。しかしながら南蛮人が訪れるのはこれが初めてのことであった。
さすがに南蛮人は人目を引きすぎる。かといって定俊は同胞たるキリシタンを拒むことを望むまい。だからせめて、あまりに厄介すぎる者は、独断で闇から闇へと葬るというのがおりくの断固たる決意である。あの戸木城で定俊に助けられた日から、定俊を守ることは、おりくにとって何よりも優先すべきことであり続けた。
そんなおりくの心中を見透かしたように、達介は続けた。
「始末するつもりなら忍びだけでは不足であろう。南蛮人はともかく、残る二人はかなりの手練れと見える。搦め手を使うには今からでは間に合わぬぞ」
「それほどの腕ですか。これ以上幕府の目が猪苗代に向くのは避けたいのですが……」
これまでのところ幕府が蒲生家を取り潰しの目標とする気配はない。むしろ伊達家のほうがよほど危うくいつ取り潰しになってもおかしくなかった。ついで前田家や秋田佐竹家なども予断を許さないというところだ。
だからといって安閑としていられないことはわかっていた。伊達家が反キリシタンに転じた以上、遅かれ早かれ蒲生家でもキリシタンに対する対応は厳しくならざるをえないだろう。
それがせめて定俊の死後のことであるように、というのがおりくの切なる願いであった。
「相も変わらず初々しいことだのう」
「からかうのはお止しください。お師さま」
そう言っておりくは気まずそうに目線を下に落とした。くのいちとしてはありえないほどに純情で一途なところは何十年も経った今も変わっていない。くのいちとしては失格だが、定俊の女房としてはこのうえない気性であろう、と達介は目を細めた。
「いまだ幕府の目は伊達に向いておる。すぐさまどうこういうことはなかろうよ」
達介の想像は完全に事実であった。
前年帰国した使節団、いわゆる慶長遣欧使節が政宗の野心によって動かされていたのではないか、という疑惑が幕府内で強い懸念を呼んでいた。性急な政宗のキリシタン弾圧は、まさにこの疑いを晴らし、潔白を主張する窮余の一策であった可能性が高い。
それでもなお、完全には天下を諦めきれないところが、政宗の梟雄たる所以であろうか。
「もはや時間もありません。不本意ではありますが、殿にお任せいたしましょう」
口惜しそうにおりくは決断した。
おりくの配下は七人でも、実際に戦闘力を有しているのは老人の達介を含めてもたった二人しかいない。戦国を生き抜いた手練れの武者二人を相手にするには、入念な準備が必要である。その時間がとれぬ以上、このまま情報収集に徹するより法がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます