第8話 大久保長安事件

 重政が退出すると、入れ替わるようにおりくがやってきた。

 庭の手入れを終えたばかりなのだろう。強い土の匂いがするが、その素朴な土の香りがおりくの木蓮のような体臭によく合っていた。

「相変わらず重政様には頭が上がりませぬのね」

「埒もない。あやつとは俺では背中に負うものが違いすぎるわ」

 これまた拗ねたように定俊はぷい、と視線をおりくから背けた。

 重政はどこまでも生真面目な男だ。だから背負わずともよいものまで背負い、しなくてよい苦労をすることになる。そんな弟を定俊は心配すると同時に尊敬している。さすがは蒲生家六十万石の仕置き家老であった。

 ゆえに、重政の危惧が正当なものであることを定俊は理解している。理解していてなお、それがどうした、と思ってしまうのが定俊の埒もないところであった。

 所詮は一家をとりしきる器ではないのだ、と定俊は己を見定めていた。自分が重政のような家老や、氏郷のような主君の器でないことは身に染みてわかっていた。

 だからこそ、譲れぬものがある、曲げられないものがある。

 おりくの肩を抱き寄せ、定俊は首筋に顔を埋めた。しっとりと瑞々しい素肌が吸いつくようである。いくつになっても張りを失わぬおりくの肌に、つくづく女は魔物だと定俊は思う。

 そんな男の身勝手な妄念を、おりくは許し、自らも定俊の背中に手を回し深く深く抱擁した。

 それはまるで慈母のようでもあり、あるいは子供を守る鬼子母神のようでもあった。くのいちであるおりくにとって、定俊は何よりもまず命を懸けて守るべき主であるが、同時に誰より愛しい男であった。たのもしく、老獪であり、どこか子供らしさの抜けぬ、自慢の武士(おとこ)である。いくつになっても、男は可愛ゆし、と母が笑顔で語っていた小さなころの記憶をおりくは懐かしく思い出した。

「――――すまんな。おりく」

 短い言葉に定俊の万感の思いがこめられていた。

 戦のない世に武士(もののふ)など、なんの必要があろうか。出家遁世するなり、今こそ間垣屋の伝手で海外へと漕ぎだしてもよいではないか。あるはずのない戦を待つ人生を、いったいこれから何年送らなければならないのか。そんな抜け殻のような人生より武士の身分など捨て、おりくを妻にして自由気ままに余生を送るほうがよほど価値があるはずだ。そうではないか。

 何度も何度も自問した。理屈ではそれが正しいことはわかっている。わかっているのにどうしても定俊には武士(もののふ)である自分を捨てることができなかった。

「おりくは幸せでございますよ。女としても、忍びとしても」

 だから謝ることなど何もない、とおりくは当然の合図のように定俊の唇を吸った。

 おりくもまた、自身の忍びとしての矜持のために、定俊の妻に、という望みを犠牲にしている罪深い女であった。謝らなければならないのはむしろ自分のほうだと思う。

 しかし定俊がそんなことを望んでいないのはわかっている。ならば愛しいと思う素直な気持ちをぶつけあえばよい。それだけでよい。

 定俊の太い腕がおりくの小袖を引き倒す。鍛えられたしなやかさは失わずに指をのみこんでしまうがごとき柔らかさ。何度抱いても決して飽きることのない至福の感触である。

「おりく」

「定俊様」

 名前のほかには何一つ付けくわえる必要はなかった。二人がお互いをどれほど愛し大切に思っているか、誰より二人がよく承知していた。

 まだ庭園の松に止まった蝉がかまびすしく鳴いている。同時に澄んだ琴の音のようにおりくの甘い唄が流れ出したのはそれからすぐのことであった。




 大坂夏の陣をさかのぼること二年前の慶長十八年四月二十五日未明、幕府代官頭であった大久保長安が急死した。戦にこそ至らなかったものの、これが天下を揺るがした大久保長安事件の始まりであった。五月六日には長安が大規模な私曲(横領)を行っていたことが判明し、長安の息子七人は全員処刑される。その後屋敷から捜索のすえ押収された金銀の額は実に百万両(一千億円)以上に達したという。

駿府記に曰く、「遊女八十人余り引き連れ、傲慢奢侈なること甚だし」と贅沢を喧伝された大久保長安ならではの恐るべき蓄財ぶりであった。

 そのあまりの蓄財ぶりから、長安が密かに幕府転覆を企てていたという噂が、まことしやかに広がった。否、その後の幕府の処置をみるかぎり、それは決して噂などではなく事実であった。

 全財産を没収し、長安の息子を処刑して、さらに長安の後ろ盾であった幕閣の権力者、老中大久保忠隣を失脚させてもなお、幕府は全く安心することができなかった。なんといっても長安は家康の六男松平忠輝の付家老であり、忠輝は妻五十八(いろは)姫を通じて伊達政宗と強い結びつきがあった。そればかりか長安の次男は播磨宰相こと池田輝政の娘を妻としていたのである。そればかりか長安自身は武田の遺臣を名乗っており、水面下で同じく武田の遺臣である真田家にまでつながりを有していた。その影響力の大きさは、下手をすれば大坂の豊臣家に匹敵するかもしれなかったのである。

また長安といえば鉱山開発のスペシャリストとして日本随一の手腕をもっていたが、その手腕を支えていたのは南蛮の数学や精錬法であったといわれている。

 ――すなわち、南蛮に太いパイプがあった。

 後に日本独自の発展を遂げる和算であるが、それはイタリア人宣教師カルロス・スピノラが九州の有馬で西洋数学を教えたのが始まりである。このときのスピノラの弟子に和算の祖とされる毛利重能、百川治兵衛がおり、和算を大成させたことで有名な、関孝和は毛利重能の孫弟子にあたる。それどころか関孝和の師である高橋吉種自身が日本に帰化したポルトガル人宣教師であった可能性が高い。

 この当時、最新の土木工事や鉱山の坑道開発において、高度な数学能力は欠くことのできない能力だった。

 当然のことながら長安と南蛮――おそらくは宣教師との繋がりは、かなり濃厚なものであったと思われる。

 特にそれまで灰吹き法が主流であった鉱山の精錬法に、南蛮絞りとも呼ばれる水銀を使ったアマルガム法を導入したのは日本広しといえど長安ただ一人であった。彼がその知識をどこから得たのか。それは科学者であり医者であり哲学者でもあったキリスト教の宣教師からにほかならない。

 長安謀反の噂に幕府は戦慄した。スペインをはじめとした西洋の各国が植民地を広げようと虎視眈々と日本を狙っていることを、当然幕府も承知している。そうした海外からの脅威に加え、国内に七十万人以上は確実なキリシタンたちが協力した場合、徳川の天下など木っ端微塵に吹き飛びかねなかった。

 自然幕府の追及は苛烈となった。石川康長などは、哀れにも長安の息子に娘を嫁に出したというだけで、とばっちりのように改易されている。

 また、先に言った大久保忠隣の改易も怪しい。なぜなら彼は長安の死から翌年の慶長十九年一月十八日まで、一切処罰される気配もなかったにもかかわらず、京都におけるキリシタンの強制改宗に、従わぬ者の追放を行った翌日に改易を命じられているのである。その背後で何があったかは想像に難くない。いかにこのとき幕府が、京大坂のキリシタンの力と豊臣の力が結びつくのを恐れていたか、如実に示す例であろう。

 幸いに、というべきか。幕府が恐れたキリシタンの大規模蜂起は起こらず、豊臣家も大坂城とともに灰燼に帰した。それでもいくつかの謎が残った。

 はたして長安は本気でキリシタンと結び、松平忠輝や伊達政宗と共謀して天下を簒奪する意思があったのか。

 ――――そして、鉱山からの収入のうち、なんと六割もの割合を歩合として懐に収めていた(幕府にはわずかに四割しか納めなかったことになる)驕りもの長安の財産が、本当にわずか百万両程度で済むのだろうかという謎であった。

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