第25話 アダミの告白

 アダミはゆっくりと胸の前で十字を切った。たとえどんな酷薄な現実があろうとも、裏切りの記憶に良心を苛まれることがあろうとも、もう逃げない。自身の信仰から目を背けないと決めたのだ。

「藤右衛門殿ニ謝罪シテキマシタ。笑ワレテシマイマシタガ」

 絶対に許されないことをしたはずなのに、藤右衛門はどこまでも優しかった。これこそが主のお導きなのだと胸を張っていた。もし、これが本当に主のお導きであるのなら、私は――

「私ハ私ノ欲望ノタメニ皆サンニ嘘ヲツキマシタ。改メテオ詫ビイタシマス」

「はっはっはっ! 嘘を吐かずに生きていける男なぞこの世にはおらん! 気に病むようなことではないぞ!」

「信用ちゅうもんは、ほんまのことを言ったからええ、ちゅううもんやおまへんで?」

 本気とも冗談ともつかぬ顔で定俊と善兵衛は笑った。

「藤右衛門殿モソウ言イマシタ。ソノタメニ危ウク命ヲ落トストコロダッタノニ。失ッテ初メテ得ルモノガアルト」

 人は失うことなしに本当の意味で大切さを自覚することができない生き物だ。藤右衛門は戦う力を失ったことで信仰のために全てを捧げる覚悟ができた。

「我々ガ清貧ヲ己ニ課スノハ、何物モモタナイ自分トシテ神ト向キアウタメデシタ。ソンナコトモ私ハ忘レテイタノデス」

 人の心が裸になったとき、何か心に残るものがある。合理的でいかに雄弁に語ろうとも、その何かほどに心を打つことはない。信仰とは合理や非合理を超えた何かにたどり着けるかどうかこそが何より尊いのだ。アダミと藤右衛門は今こそその何かを体得した。


「――――百万両ハコノ日本ニハアリマセン。シカモ今モアルカドウカモ疑ワシイノデス」


 絞り出すようにアダミは言った。

 それはこのアダミが、藤右衛門や重吉を伴いこの猪苗代へやってきたことに対する全否定であった。

「ま、そりゃそうだろうさ」

「そうでんな」

「……知ッテラシタノデスカ?」

 まるで最初からわかっていたという風情の定俊と善兵衛の反応に、アダミは正しく面食らった。大久保長安の隠し財宝があるというのは決して嘘というばかりではない。ただ必ずしも真実ではないというだけだ。

「たった七万両でもそれを移動させるのは並大抵のことではない。まして百万両という大金をいったいどこに隠す? 隠し通せる? 要するに石見守(長安)からキリシタンが受け取った金なのだろう? 海外にあると考えるのが妥当ではないか?」

「…………ソノトオリデス」

 技術協力の見返りとして長安からイエズス会に支払われた百万両が、国内のどこかに隠匿されていると考えるほうが無理がある。確かに長安は金山奉行として全国の鉱山を好きにできる立場にあった。

 しかし百万両を隠すためにはそのための人員が必要であり、監督すべき部下が必要であった。もちろんそんな大きな形跡があれば伊賀組をはじめとした諜報機関が見逃すはずがない。

 いまだ百万両が見つからないとすれば、それはない、と考えるのが当然だと定俊は思う。商人として荷役に一家言ある善兵衛も同様だった。

「モトモトアノ資金ハ、イエズス会ノ貿易運用ニ使用サレテイマシタ」

 それも決して表には出せない裏金で、しかも東インド管区には秘密の、日本管区だけが知る資金であった。

 ここでイエズス会について少々語らなければならない。

 一四九四年六月七日ローマ教皇の主導でスペインとポルトガルの間で世界を分割する条約が締結される。これがトルデシリャス条約である。西経四十六度三十七分をもって東と西を両国で分割するという恐るべき条約であった。

 この条約によってポルトガル王国はアジアにおける植民地支配と貿易の独占権を教会に認められ、同時にアジアにキリスト教を布教するという義務が生じた。

 その布教の推進役として選ばれたのがイエズス会である。

 イエズス会はイグナチオ・デ・ロヨラを発起人としてフランシスコ・ザビエルら名門子弟六名の同志と設立された。非常に信仰の厚い組織であり、発起人であるロヨラは「自分の目には黒に見えても、教会が白というのならそれを信じる」とローマ教皇パウルス三世の前で誓ったという。

 当時はルターやエラスムスにより始まった宗教改革の真っ最中であり、プロテスタントの拡大に対してカトリックは決断を迫られていた。すなわち、プロテスタントと戦い彼らを改宗させるか、それとも新たな信者を開拓するか、である。後者を選択し先兵としてアジアに乗り出したのがまさにイエズス会であった。

 ロヨラが体系化したイエズス会の思想は、ある種とても過激なものである。イエズス会の修道士はまず「霊操」と呼ばれる独自のイメージ修行により、強固な宗教的団結心を持つにいたる。洗脳的と言ってもいい。体操が身体を健康にするように、霊操とは魂を準備し整える方法であるとされる。その修行はすでに霊操を実践した指導者にほぼ一対一で導かれるものであった。

 修行はまずイエス・キリストが福音を伝道している情景の想像から始まる。

 

 人間味あふれる一人の王を眼前に想像する。この人は主なる神から直接に王に選ばれた ので、他のすべてのキリスト教諸侯とすべての信者はこの王を尊敬し従うのである。


 次に「永遠の王であるイエス・キリスト」が全世界の人々に呼びかけているところを想像する。

 「私は、全世界とすべての敵を征服し『わが父』の栄光に入ろうと思う。 これが私の揺るがぬ意志である。それであるから、私に従おうと思うものは、私と共に働かなければならない。 私と労苦を共にするものは、私と栄光をも共にするであろう」

                          岩波文庫 門脇佳吉訳 霊操  

 そして霊操者は二つの旗、すなわち神と悪魔ルシフェルの旗を黙想する。最後に聖書に書かれたキリストの生涯を眼前にありありと思い描くことで、復活したキリストがともに歩み、自分を強く導いてくれていることを体感する。そして神がどれほどの愛を世界に注ぎ、正義、善、慈悲といってあらゆる良きものが、神から世界に注がれていることを悟るようになるのである。その過程はどちらかといえば日本の禅による悟りに近い。


 あまり知られていないが、ザビエルやアダミも当然この霊操による修行を受けており、形骸化、慣習化したカトリックと違い、異端にすらなりかねないほど過酷な修行を積んだイエズス会は、なんの掛値もなく当時最強の戦闘的宗教集団であった。

 同時にそれは、神への感謝と、それによって世界が全て肯定的な存在に変容することを至上命題とする集団の世界進出であったわけである。

 そうした先鋭的な集団が、目的のために手段を択ばなくなるのは、歴史上数えきれないほど繰り返されてきたことだった。

 その結果、イエズス会はアダミのような聡明な知識と奉仕の心で布教に専念する者たちと、布教拡大のためにポルトガル王国や現地の日本人領主との間で、権謀術数をめぐらす者に二極化していったのである。無論それは立場と行動に違いはあっても、双方とも強固な信仰心に基づいていた。

 民衆に奉仕するにも資金というものは必要になる。炊き出しや診療、土木工事などと通じて布教の助けとしていた宣教師たちは、あえてそうした上層部の闇の面には目をつぶってきた。気づかぬふりをしてきたのである。またポルトガル商人と手を結ぶイエズス会上層部も、組織を拡大するためには東洋の異教徒を騙し奴隷として売ることは神の御心に反しないと信じた。

 何より彼らが絶対の忠誠を誓うローマ教皇アレキサンドル六世自身が、贈与大勅書において奴隷を容認したともとれる言質を与えていた。

 しかし一五八〇年彼らの後ろ盾であったポルトガル王国がフェリペ二世のスペイン王国に吸収合併されてしまうと、スペイン王国のフランシスコ会が急成長し、逆にイエズス会は予算の獲得に苦慮するようになる。百万両を上位組織の東インド管区ではなく、日本管区で秘匿しているのはこのためだ。

 だがこの時点では、日本国内に確固とした根を張っていたイエズス会には組織力に一日の長があった。大久保長安との交流もそうしたイエズス会が築いた人脈のひとつであろう。

 ところがイエズス会をさらなる圧力が襲う。天敵ともいえる新教(プロテスタント)ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが徳川家康の知己を得て日本国内の貿易シェアを奪い始めたのだ。

 東アジア、東南アジナにおける各国の力学はオランダ、イギリスという新教国の進出により大きく変容した。また、日本との貿易内容もかつてのような旨味がなくなりつつあった。

 日本との貿易でもっとも利幅の大きい商品は、硝石と生糸と奴隷である。日本人奴隷は特に西欧で人気の高額商品であったようで、徳富蘇峰の『近世日本國民史』によれば実に五十万人の日本人奴隷がキリシタン大名によって輸出されたという。(徳富蘇峰はこれをフランス人パジェスが記した「日本耶蘇教史」から引用している)

 しかし関白秀吉の禁教令以降、奴隷の輸出は中央政府から厳しい目で監視されるようになり、関ケ原の戦い以降激減した硝石需要がそれに追い打ちをかけた。太平の世になれば火薬や鉄砲はそれほど必要なものではなくなってしまったからである。

 さらに止めを刺すように、一六〇四年から糸割符仲間制度が始まると、あれほど巨万の富を生み出した生糸取引まで旨味のあるものではなくなってしまった。

 かつて一世を風靡した硝石一樽で奴隷五十人と交換し、奴隷を売り払って再び硝石を買うという錬金術の方程式はいまや全く当てはまらなぬことになっている。

 イエズス会の裏金として大久保長安から支払われた百万両という資金は、一時は好景気に支えられ倍の二百万両近くにまで増加したものの、じりじりと残高を減らすようになった。

 幕府に弾圧された宣教師や信徒の、生活費や逃走用の資金が激増したこともそれに拍車をかけた。

 最後に資金を管理していたカルロス・スピノラが把握した時点では五十万両を割っていたという。カルロスが捕らわれた今となっては、総額がどうなっているのかアダミには見当もつかない。

 少なくとも適切な運用ができる人材を失った以上、資金はさらに目減りしていることが予想された。

 現在資金の大部分は寧波(ニンポー)に停泊するイエズス会所属の艦船に重石(バラスト)として秘匿されていて、合言葉(キーワード)と資格者の紋章を持つ者だけがその資金の使用を認められている。下手に船が難破するようなことがあれば、それだけで資金が枯渇することすらありえた。

 もはやこの隠し資金の運用を知る者は、イエズス会日本管区のなかでも非常に少なくなろうとしていた。

「私ハ知ッテイマシタ。モウ百万両ガナイコトモ。ソシテポルトガル王国ガ裏デ奴隷貿易ヲ行ッテイルコトモ。自分ノ信仰ヲ守ルタメニ、ソレラカラ目ヲ背ケ、イツノ間ニカ自分ノ野心ノタメニ仲間ニマデ嘘ヲツイテイマシタ」

 アダミは神とカトリック教会のためならばどこまでも非情になれるイエズス会宣教師であるが、同時に同胞として懐に入れた人間に対しては心を鬼にできない人間でもあった。

 守るべき民と見捨ててきた民、殉教を誉れと思う心と仲間を失いたくないという心、藤右衛門の生命の危機をきっかけにアダミは長く目を背けてきた己の心と向かいあった。

 ――――この偽りは己の信仰を濁らせる。

 おそらくこのまま弾圧が進めば遠からず自分も殉教する日が来るだろう。キリシタンの王国が夢幻であると自覚した以上、それ以外の未来をアダミは想像できない。であればこそ、嘘を全て吐き出しておきたかった。この後悔を抱えたまま神の御元へ行くわけにはいかなかった。

「私ノ野心ガ、嘘ガ、貴方タチマデ巻キコンデシマッタ。コノ命奪ワレヨウトモ決シテ恨ミニハ思イマセン」

 ありもしない百万両という夢が、重吉を惹きつけ、遂には伊賀組までこの猪苗代に呼び寄せてしまった。その重大さがわからぬほどアダミは愚かではなかった。

 信者たちに説教しているアダミにはわかる。この地がいかに自由でのびのびと信仰を維持しているか。この日本ではそれがどれほど貴重であるかということを。その自由を破壊しようとしているのは、ほかならぬアダミ自身なのだ。

 追放された澳門(マカオ)で、現地での布教に甘んじていればこうして猪苗代というキリシタンの楽園を危機に陥れることもなかった。

 定俊に殺されてもいい。定俊ではなく藤右衛門でも重吉でも構わない。誰かにこの罪を裁いて欲しかった。しかし定俊の反応はアダミの予想を完全に裏切るものだった。

「兄弟の間に遠慮は無用。何より、たとえ嘘でも危険でも、何を犠牲にしてもこの日本(ひのもと)にて布教したいというその意気を恥じることなし」

 アダミを労わるように定俊は微笑した。磐梯山に咲く小さな蝦夷竜胆を愛でるような清々しい目だった。

「我ら戦人は己の欲のために人を殺す。宣教師殿(パードレ)に比べれば罪深すぎて怒る気にもならぬ」

「わてもそうですわな。金は戦よりようけ人を殺しますわ。海賊のまねごとも何度やらかしたかわからへん」

「……シカシ私ハ神ニ仕エル身デス」

「宣教師(パードレ)であろうと、戦人であろうと、商人であろうと、何人も避けられぬことがある。――――人はいつか必ず死ぬということだ」

 くつくつと定俊は肩を揺らして笑った。

「決して逃れられぬからこそ満足な死を迎えたいと思う。戦人とは死が身近にありすぎていつしか死を楽しむことを覚えた愚か者どものことよ」

 太平の世の人間とは死生観が違う。戦のたびに藁のように人が死ぬ。時には病気や飢えでも当たり前に人は死ぬのだ。だからこそ意義ある死を迎えたい。名誉ある、華のある、愛のある死をどのように迎えるか、それを考えるのが戦人にとっての何よりの楽しみだった。定俊にとって死すべき場所は二つあった。ひとつは主君氏郷が死んだ際に殉死することであり、もうひとつは伊達政宗の首を冥途の土産に討ち死にすることだった。もはや戦人としての死に場所も失い、畳の上で死ぬとはなんたる空虚な贅沢か、と思っていたが思いがけず三つ目の死に場所が転がり込んできた。

「死を思うからこそ己の本性がわかる。命を賭しても、仲間を欺いても、誰かを犠牲にすることがあってもどうしても諦められない秘められた己の意志がな。宣教師殿(パードレ)はそのすべてを背負ってもこの日本で神の教えを広めたかったのだ。誰がそれを咎める資格があろう」

 定俊の言葉にアダミは泣き崩れた。アダミを許すことができるのは神だけだが、定俊の言葉はアダミがずっと一人で抱えてきた闇を優しく認知してくれた。それだけで涙をこらえることのできない喜びがあった。

「――――だがこの太平の世では死の価値が失われつつある。誰もが同じ明日がいつまでも続いていくと信じ、死を忘れて生を生きるのだ。戦人にとっては寂しい限りだが、それもこの世の真実であろう」

 死に場所を探す戦人は絶え、どこまでも生き汚く、生こそに意味を求めるものが残る。それを定俊は間違っているとは思わなかった。ただ、そんな生き方を自分はできないというだけのことであった。

「むしろ宣教師殿(パードレ)には感謝しかない。よくぞこの猪苗代に来てくれた。この岡定俊に最後の晴れ舞台を与えて下すった」

 思えばあの伊賀組たちも、この太平の世には行き場のない連中だ。このあたりでお互いに身の置き所のない者同士、派手にやりあうのも一興というもの。

「――――さて、そんなわけで善兵衛、ひとつ貴様に頼みたいことがある」

 そう言う定俊の表情は、子供が楽しいおもちゃを見つけたかのように輝いていた。

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