第26話 徒花
四谷仲町の伊賀組屋敷――その一角で四人の伊賀組頭たちが顔を揃えていた。
その表情は一様に思いつめたような苦悩に満ちたものであった、本来感情を表に出さない忍びとしては非常に稀なことである。その事実が何より現実の深刻さを物語っていた。
「――百万両の隠し財宝だと? 本気でそれを信じたというのか方丈斎! しかも敵に鵜飼藤助がいるだと? 世迷言もたいがいにしろ!」
年長の方丈斎に配慮する余裕もなくし、怒りを隠そうともせず怒鳴りつけたのは組頭の筆頭格である音羽六左衛門である。あまりの怒りに歳とともに垂れた頬肉がぶるぶると震えていた。本来の方丈斎なら、いや、伊賀忍びならありえぬ話であった。
「我らが石見守(長安)の財産を調べなかったとでも思うたか!」
そうなのである。伊賀は言うに及ばず、甲賀も柳生も各地の鉱山をめぐってまで大久保長安の隠し財産がないか調べて回った。その事実を方丈斎が知らぬはずがないのだ。
「先代(服部正重)殿はあると仰せられた」
「かつてあったものが今もあるとは限らぬ! そんな簡単なこともわからぬほど耄碌したか! 方丈斎!」
六左衛門は定俊とほぼ同じく、隠し財産はこの日本には存在しないと思っている。人と金の動きを追跡すればその想像は容易であるはずだった。そのことに気づかぬ方丈斎がどうかしているのだ。
「どこにあろうと知ったことか! 誰より先に見つけること、それなくして我ら伊賀組に未来などあるものか!」
仲間たちから詰問され、針の筵に座らされていた方丈斎は吼えるように叫んだ。海外だろうとどこだろうと、いかなる手段を用いても百万両を手に入れる。そんな途方もない夢に方丈斎は酔っていた。
幕閣には見捨てられ、柳生との抗争では劣勢を強いられて久しく、若者たちはつらい忍びの道を捨て新たな人生へ足を踏み入れる。そんな伊賀組が再び隆盛を取り戻すとすれば、それはこんな夢のような話にすがるしかない。
みじめで過酷な現実を覆すには、夢のようなあやふやなものに頼るしかないほど、伊賀組は落ちぶれていた。
「世迷言を……この伊賀組をつぶすつもりか!」
「……二代目の争議の折、忍びはなく役人として生きていくくらいなら戦って死ぬ、そう言ったのは貴様ではなかったか、六左衛門!」
鋭い方丈斎の言葉に、六左衛門は「うっ」と呻いて言葉をなくした。
初代服部半蔵の跡を継いだ服部正就のもとで、伊賀組はあたかも家人のように酷使されていた。服部家は職務上の上司ではあっても、決して伊賀組にとっての主君ではない。その扱いを不当であると公儀に訴え、ついには武装して笹寺に立てこもるという事件が発生した。武徳編年集成によれば服部家没落の遠因と記載される。六左衛門はその首謀者に近い男であった。もともと世渡りの旨い男であった六左衛門は巧みに責任を回避し処罰を免れてついに組頭にまで出世したのだ。
「…………忍びでない伊賀組に何の意味がある? 小役人として汲々として生きていくために我らはあの故地を捨てたのか?」
方丈斎の声は弱弱しくしわがれていた。
伊賀同心に与えられた知行は低く、生活をしていくのが精いっぱいという者は多い。それでも忍びとして影働きができればその不足を補うことができる。また、そうした余裕がなければ技を伝えることも技を磨くこともできなくなり、ついには伊賀流は途絶える。
いくらあがいてみても、所詮は忍びの長程度では世の中の流れに抗うことなど到底不可能であると方丈斎は思い知らされてきた。
戦国の時代ならいざ知らず、この太平の世では忍びの技はそれほど大きな金にはならない。暗殺や諜報の影仕事がいくらかあっても、その量は絶対的に不足していた。しかもその少ない量ですら柳生に奪われなかなか伊賀組には回ってこない。
避けようもなく伊賀組は――伊賀忍びは滅ぶ。名だけはかつて忍びであった者の末裔として残るだろう。在りし日の残滓を後世に引き継ぐことも可能かもしれない。しかし方丈斎たちがその生命をかけて守り抜いてきた伊賀流という忍びはことごとく死に絶えてこの世から消え去るのだ。
もう自分の力ではどうしようもない。そんな無力感が方丈斎の背中から溢れていた。隠し財産のような夢に頼るしか、もはや伊賀忍びの生きる道はなかった。
「今さら方丈斎を責めても仕方あるまい」
それまで黙って聞いていた町井大善が口を開いた。
「今必要なのはこの始末をどうつけるか、ということであろう」
もう一人、中林帯刀が言葉を重ねる。筆頭格とはいえ基本的には同じ組頭同士である。六左衛門は不満そうにではあるが矛を収めた。
「どうするもこうするも、隠し通す以外に法があるか!」
まかりまちがって伊賀組が百万両を横領しようとしたことが知られては、伊賀組そのものの存続の危機である。闇から闇へ全精力を傾けて隠蔽するしかないと六左衛門は確信している。
しかし大善の言葉は六左衛門の意表を衝くものであった。
「ふん、戦わずして滅びるくらいなら、最初から二代目に逆らわず小役人に甘んじておればよかったのだ」
伊賀忍びは小役人にあらず。闇の戦人なり。
大善は方丈斎のように百万両が伊賀組を救ってくれるなど素直には信じていない。だが鵜飼藤助の名は大善にとって特別な意味があった。伊賀と甲賀、忍びと忍びが鎬を削っていたあのころ、大善は神技ともいえる鵜飼藤助の技の冴えを目撃した記憶があった。
――――あの伝説の忍びと戦いたい。戦って死にたい。方丈斎とはまた違う意味で、老いた忍びの闘志に火がついてしまったのだ。下手に将来に希望を抱いていない分こちらのほうが性質が悪いかもしれなかった。
「まさか正面から戦うつもりなのか? そうなればもう隠蔽などできぬぞ? 甲賀にも柳生にもすぐに知られる!」
六左衛門は惑乱したといってよい。まさかこの馬鹿げた事態に積極的に関わろうとする人間が方丈斎以外にいるとは思わなかったのだ。そんなことをすれば十中九まで伊賀組はつぶれる。貧しい土地を離れ、少ないながらも安定した禄を得る生活が破綻する。せっかく組頭にまで出世した甲斐もない。
太平の世に忍びが生きていく余地はないのだ、と六左衛門はこの十年余の間に嫌というほど思い知らされてきた。かつては忍びとしての生き方を貫くために上司、服部正就に公然と逆らったが、その気概はもう六左衛門にはなかった。
だが方丈斎と大善はそれを認められないのだ。まだ忍びには戦う力と場所が残されていると信じたいのだ。世の流れのわからぬ愚か者め、と六左衛門は思う。
「……甲賀はまあ、よい。鵜飼藤助が生き延びていたとなれば、そこに甲賀の手が加わらなかったはずがない。問題は柳生だが――」
帯刀は眉を顰めて困ったように方丈斎を睨んだ。
「あの蒲生家に出入りをしている堺商人、確か間垣屋といったか。おそらく柳生家にも出入りしていたはずだ」
「なんだとっ?」
これには六左衛門ばかりか方丈斎と大善も驚きの声をあげた。まさか蒲生家と柳生家にそんな接点があるとは考えていなかったのである。
もっともこの時点で彼らは定俊と善兵衛が莫逆の友であることを知らないし、定俊が善兵衛に工作を頼んだことも知らない。いずれにしろもはや傍観することだけは許されなかった。進むにしろ退くにしろ、決断することを彼らは迫られていた。
「――――忍びが生きる時代は終わるであろう。貴様もそう考えているな? 六左衛門」
声からまるで刃物が飛び出てくるような鋭さで、帯刀は六左衛門に問いかけた。その場しのぎの返答は許さないとその瞳が告げていた。
「戦のない世に忍びの生き場があるものか!」
六左衛門は叫んだ。本音では認めたくない。認めたくないがゆえに誰一人言葉に出さなかった答えであった。
柳生は良い。活人剣という発明は太平の世に剣術の生き場というものを創造した。戦のない世に武士の気風を残すために、今後ますます剣術は隆盛を極めるであろう。しかし忍びの技はそうはいかなかった。
忍びとはまさに闇の戦人、奇襲騙し討ちが当たり前、その技も相手の不意を衝くことに特化されている。間違っても人が好んで修めるものではない。
手裏剣、鈎手、煙玉、撒菱、寸鉄、仕込み鉄扇、鎖鎌、そんな光の当たらぬ武器を修めていったい誰に誇るというのか。
戦うために、生き抜くために、必要に迫られたからこそ忍びの技は代々伊賀の地に受け継がれてきた。だがもう未来に受け継がれるべき理由が、六左衛門には見いだせなかった。
まだ方丈斎や大善に比べ六左衛門が若いという視点の違いもあろう。六左衛門にとって、人生とは先が長くこれからも生きていかねばならない道であった。概ねこの六左衛門に考えが今の伊賀忍びの若手の考えでもある。
「聞き捨てならぬ。伊賀忍びに滅べというのか?」
「実際、滅びかけておるだろうが」
色めき立つ方丈斎に冷たく帯刀は言い放った。若者は去り、幕閣の支持も失い、さらに致命的な弱みまで露呈しようとしている。伊賀忍びの滅亡は遠い先の未来ではなく、つい手が届く先に存在していた。
「――――ゆえに夢を見たいものは夢ととともに死ね。百万両が夢でなければ浮かぶ瀬もあるであろう」
「それは――――」
帯刀の言葉の意味を測りかねた六左衛門が問おうとするのを遮るように、大善が立ち上がる。その顔は喜びに満ちていた。
「よくぞ申してくれた帯刀! 戦を捨てられぬ伊賀忍びの精鋭の最後の晴れ舞台、とくと魅せてくれようぞ!」
ようやく六左衛門は合点した。
頭の古い大善や方丈斎には、猪苗代の地で死んでもらおう、と帯刀は言っているのだった。そして伊賀組は今後忍びであることを捨てる。ただの幕府の小役人として生きていくことを条件に、柳生に見逃してもらうのだ。大善や方丈斎はいわばそのための生贄であった。
「…………よかろう。どうせ死ぬる身にどれほどのことができるか見ているがよい」
方丈斎の骸骨のように落ちくぼんだ瞳にも、往時の光が戻ろうとしていた。その瞳から先ほどまでの狂気が消えている。
優れた忍びにとって、戦いの場に狂気が入り込む余地はない。どこまでも冷静で冷酷で現実主義に徹することが優れた忍びの条件である。最後の戦いを目前にして、ついに方丈斎も狂気から現実へと立ち返ったのだった。
もともと伊賀組の将来をどうにかするような政治力も構想力もない、優れた忍びの技を持つだけの男である。ゆえにこそ方丈斎には狂気に身をゆだねなくてはならなかった。
今となってはもはや伊賀組の未来などどうでもよかった。
持てる秘術の限りを尽くしてあの鵜飼藤助と、蒲生氏郷のもとで伊賀征伐に加わった岡定俊と戦えるのだ。強敵と戦って死に場所を得られるという幸運を、むしろ方丈斎は感謝したといってよい。
その気持ちがわかるだけに帯刀の心中は複雑であった。
六左衛門とは違い、帯刀の心にはまだ方丈斎や大善のように戦いを求める欲求がある。しかし忍びとしては滅びても伊賀の血脈だけは後世に維持していかなければならない。そのためには戦わずに柳生と折衝する人間が必要であった。
「我ながら損な役回りよ」
ふん、と鼻を鳴らして帯刀は呟いた。その呟きは誰に聞かれることもなく、すでに話題は猪苗代へと送りこむ手練れの選抜へと移っていた。
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