第27話 月光
すでに陽光は磐梯山の稜線に落ち、紫色の夕焼けに淡い月の光が漏れだした時分である。まだ暑さの残るしっとりとした空気に、切り裂くような気合の声が轟いた。
「はっ!」
一呼吸で打ち出される印字の数およそ二十、しかもどれひとつとして同じ軌道を取るものがない。石の形と握り、そして絶妙な力の加減によって八郎はそれらを全て標的の木の葉に命中させる。
驚くべきは、それが二十の木の葉に命中しているのではなく、たった一枚の木の葉に対して、地面に落ちるまでの間にわずかな時間差をおいて二十の礫が殺到するのだ。
文字通り木っ端みじんにされた木の葉が風に吹き散らされるまで、ほんの一瞬の出来事であった。
「――――見事ですね」
「こ、これはおりくさま……!」
普段の修行に精を出していたため、おりくの接近に気づかなかったというのは言い訳であろう。おりくの隠形が八郎の警戒力を上回ったのだ。まだまだうぬぼれるには早すぎると八郎は内心で冷や汗を流した。
「すでに印字打ちでは御爺殿を超えたとは聞いておりましたが……」
鵜飼藤助の名は甲賀においては絶大なものがある。もちろんよい噂ばかりではないが、その技量に関しては伝説の領域なのは間違いない。その藤助――角兵衛が手塩にかけた愛弟子、どれほどのものかと思っていたが、正しくおりくの予想を超えるものであった。
――――だからこそ、虚しい。
「あと二十年早く生まれていれば、きっと果心居士もかくやという活躍もできたのでしょうが……」
すでに八郎が腕を振るうべき場所はこの日本(ひのものと)にはないのだ。
要人の暗殺や、盗賊稼業に精を出すことも可能であるかもしれないが、それはもう忍びとはいえぬ別のものである。忍びが忍びであることを許されぬ、そんな時代にこれほどの才が現れたことが哀れでもあり、天啓のようにも思えた。
なぜなら八郎は技量は卓越していても、いまだ心は忍びとは言えないからであった。
「ねえ、八郎、貴方は忍びとはなんだと思いますか?」
「…………さあ……? 御爺はもう人に仕えるのは懲り懲りだ、としか」
「まあ、あの人ならそうでしょうね」
角兵衛が身命を賭して仕えた主人、長束正家はすでにこの世にいない。自由を貴ぶ伊賀と違い、甲賀には一度仕えた主君に最後まで殉じる者が多かった。特に角兵衛にとって、正家は仕えるに値した天下の鬼才であった。経理能力に関するかぎり、近代以前で彼に匹敵する人間は誰もいない。
北条征伐においては、豊臣政権で五本の指に入る能吏である石田三成や大谷吉継の補佐を「不要」と一蹴しほとんど独力で兵站を差配しきった男である。まだ天下が統一されていないころ、関ケ原や大坂の陣以上の困難な仕事を正家は見事に成し遂げたのだった。それほどの男に仕えた角兵衛が新たな主君を求めるはずもない。それはすなわち、八郎に忍びのなんたるかを教えてもいないということであった。
「覚えておきなさい。忍びとは仕える主君のために忍ぶ者です」
「はあ……」
明らかにわかっていなそうな気の抜けた返事である。角兵衛も忍びの技以外は存外甘く育てたようだ、とおりくは微笑した。
「わかりませんか?」
「申し訳ないことにございます」
八郎は率直に認めておりくに頭を下げた。その率直さは人としては好ましいものだが、忍びとしてはいささか問題であるようにおりくは思えた。
「忍びとは文字通り心に刃を持つ者。すなわち心を武器として戦う者です。だから奇襲騙し討ちは当たり前。正々堂々などもってのほか。忍びのもっとも大切な要諦は、優れた剣技や貴方のような天性の才の印字打ちではありません。人の心の隙に潜み人の心の隙を利用して敵を殺すことこそ忍びの要なのです。ほら、このように」
「えっ?」
八郎が意識した瞬間には、すでに首におりくの仕込み扇が金属の冷たさが押し当てられている。おりくに殺意があればこの時点で八郎は死んでいたはずであった。
「私の術は貴方に大きく劣るでしょう。それでも時と場所を選べば私が貴方を倒すことはそれほど難しいことではありません」
ただでさえおりくも八郎も、甲賀という組織から見ればはみだしものにすぎない。何かのきっかけで仲間に裏切られるというのは警戒してしかるべきなのだ。否、目的のためには大切な仲間ですら躊躇なく犠牲にするのが忍びという生物であった。おりくは八郎にそう言っているのだった。だからこそ
「忍びは陽の当たる場所を歩くことはできないと心得なさい。それだけが心に刃を持ち続けられる唯一の手段です」
心を武器に戦場を駆ける忍びが、戦場からもっとも縁遠い場所にある家庭に安住することは許されない。おりくが定俊の妻となることを承知しない理由はそれであった。
おりくの頑なさはともかく、忍びが我が子を物心がつかぬうちに手放し、赤の他人に修行を任せるのはよく見られる光景であった。肉親では情が修行の邪魔をするからである。
「まあ、俺はこの世にいていないようなもんですから」
今まで角兵衛と二人で山中に隠れ住んできた。友もいない、親もいない。あの庵で死んだとしたら誰にも気づかれぬままに身体は土へと還るだろう。そういう意味で、八郎は無意識的に忍び的な生活を歩んできたのかもしれなかった。
「――――そう、でも腕前は素晴らしいけれど私は貴方が忍びには向いていないような気がする。どうしてそう思うのかはわからないけれど」
自分でも何を言っているのかわからなくて、おりくは自嘲気味に微笑った。
「そうでしょうか?」
「もう忍びが生きていく時代は終わりです。今はまだわからないかもしれないけれど、自分が何がしたいか、何ができるか、忍びでない生き方を考えてみるのも悪くはないわ。まだ若いのですもの」
そういって嫣然と笑うと、現れたときと同じように空気に溶けるようにしておりくは去った。
見事な隠形である。傍目には消えたように感じたかもしれないが、先ほどとは違い八郎の視線はおりくの滑るような美しい足さばきを捉えていた。
それは八郎がおりくの術を見破ったからではない。おりく生得の体臭であろう芙蓉のような香りから視線が離れようとしなかった。ただそれだけのことであった。
それから善兵衛と帯刀が、全く別の伝手から柳生の黙認を取りつけようと暗躍しているころ、猪苗代城を訪れる一人の男がいた。細身に怜悧な瞳がいかにも気難しそうである。姿形は全く似ていないが、纏っている雰囲気が亡き重政を彷彿とさせる男であった。
武ではなく政でお家の重責を肩に背負っている男の空気である。この空気が戦人には珍しく定俊は好きであった。
「これは珍しい。猪苗代へ来られるのはいつ以来のことか?」
「さて、いつも通り過ぎるばかりにて挨拶もせず越後守にはご無礼を」
男の名を町野幸和という。白河小峰城の城主にしてかつては重政の懐刀であった男である。現在では重政の後釜として藩政に辣腕を振るう蒲生家の執政であった。
のちに蒲生郷喜、郷舎兄弟との権力闘争に敗れ、蒲生家を追放されたのちは徳川家光に仕えた。亡き岡重政の嫡男岡吉右衛門の義父でもあり、吉右衛門と娘おたあ、との間に産まれた孫お振りの方はいかなるめぐり合わせか将軍家光のお手付きとなり、家光の第一子である千代姫を産み落とした。その血筋は徳川三千の入内により皇室にまで受け継がれ、現代へと続いている。
「いやいや、町野殿の多忙さはよく存じ上げておる。して、その多忙な町野殿がこの老体に何用かな?」
「生前より重政殿に頼まれていた一件がございまして」
重政の名を聞いて定俊の眉がぴくりと動いた。
「ほう、この兄には頼み事など何一つ残さなかった薄情な弟が、町野殿に頼みとは」
心底意外そうに定俊は腕を組み、興味深そうに町野に視線で先を促した。あの融通の利かない頑固な弟が、何を言い残したのか本気で気になっていた。
「――蒲生家にとって災いとならば、越後守のお命を奉れと申しつかっております」
一切悪びれもせず堂々と言い放った町野に、定俊は驚くというより呆れた。なるほどお家のために命を捨てた重政が言いそうな遺言であった。胸を逸らしてぴしり、と自分にくぎを刺す往時の重政を思い出して、定俊は懐かしそうにくつくつと笑った。
「――――やはり」
「やはり、とは?」
「越後守は怒るより笑うであろうと重政殿が申しておりました」
「お見通しか」
生まれたときからの付き合いである。重政がどのように判断し、どのような思いで町野に託したか定俊には手に取るようにわかった。それが決して脅しではないのだということも。
重政も町野も蒲生家のためならばいつでも命を捨てることのできる男である。武においては定俊の足元にも及ばぬ町野だが、定俊を殺すことはそれほど難しいことではない。
蒲生家の執政である町野がここで命を落とせば、理由がどうあろうと定俊も無事にはすまない。結果的に蒲生家から定俊を除くことができるであろう。
「死んでいただけますか?」
まるでちょっと物を取ってきてもらえますか? というようにあっさりと町野は言った。
「無論、死ぬとも。今、その死を楽しんでいるところだ」
「その楽しみのためにお家に災いが及ぶとしても?」
「災いが及ばぬようにするには死に方というものがあるのさ」
ここで定俊が腹を切ったところで、伊賀組はアダミを見逃さないであろうし、定俊という枷がなくなればキリシタンがどう動くかもわからない。落としどころを見つけるために、一度は伊賀組と戦う必要があったし、定俊もまた死ぬ必要があった。
定俊の真意を探るように町野はしばらく微動だにせずに定俊の顔を見つめ続けていた。およそ小半時もそうしていただろうか。
「――――結構、後始末が必要ならなんなりと申しつけください」
「痛み入る」
ふと定俊は気になることがあって、立ち上がろうとした町野に尋ねた。
「この有様も重政は予想していたのか?」
「いいえ」
我慢できなかった様子で、町野は噴き出すように笑った。普段謹厳実直であるだけに、定俊も一度も見たことのない衒いのない笑いであった。
「兄上は本当に自信がないと、指で膝を叩く癖がある。真意を問いたくば小半時兄上の様子を眺めてみよ、と」
「う、うぬ…………」
一度も自覚したことのない己の癖に、妙な気恥しさを覚えて定俊は唸った。あの世の重政がしてやったりと舌を出しているような気すらした。
「しかしながら」
ほんの一瞬で笑顔を引っ込め、また元の感情を隠した表情に戻ると、叩きつけるように町野は言った。
「越後守亡きあと、この猪苗代を公儀の目から庇い続けることは不可能となりましょう。必要なら我が手を汚すことも厭いませぬ」
それはキリシタンの楽園の終焉を意味した。キリシタンは弾圧され、追放か殉教か、あるいは改宗かと選ばされることになる。しかしそれは、定俊にとって最初からわかりきった話であった。
「存分にいたされるがよろしかろう」
そこで再び町野はわずかに口の端を緩ませる。
「と、申されるであろう、と重政殿も申しておりました」
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