第24話 旧友

 藤右衛門は定俊の予想通り命を拾った。それでも二日ほどは意識も戻らず、やはり命を拾ったのは幸運によるところが大きかった。主計の適切な治療と何より内臓に致命的な損傷がなかったおかげである。

 予想以上に傷が重かったのは、最初に受けたふくらはぎへの斬り傷であった。主計の見立てでは、まず生涯足を引きずることになるであろうということである。むしろよく斬り落とされずに済んだということらしい。おそらく二度とかつての強さを取り戻すことは叶わないだろう。

 その事実を告げられた藤右衛門は、さっぱりとした、それでいて深い覚悟を決めた表情で受け入れた。戦えなくなったことで、かつて戦人であった記憶を断ち切り、すべてを信仰に捧げる覚悟が得られたのである。強者であった自分が明らかな弱者となったことで、より神との距離が近づいたように藤右衛門は感じていた。

 しかしそのように都合よく考えられない人間もいる。その筆頭がアダミであった。まるで藤右衛門の怪我がアダミの責任であるかのように苦しんでいる。

 あの日以来、アダミは寝る間を惜しんで藤右衛門の看病をしたかと思えば、鬼気迫る勢いでセミナリオで教鞭をとる。明らかに温和で聖人然としたアダミの姿ではなかった。定俊も藤右衛門も、アダミの胸中に何か穏やかならぬものがあることは承知していたが、あえて追及するつもりもなかった。


「もう一手! もう一手頼む!」

「田崎様、そう言ってもう五回目ですよ……」

「今度こそ! 今度こそ避けてみせるから! 頼む!」

 本人たちはいたって本気なようだが、定俊の目には子猫がじゃれているようにしか見えない。微笑ましい光景である。重吉と八郎がここまで意気投合するとは、さすがの定俊にも予想外の出来事だった。

 ことは数日前に遡る。

 角兵衛と八郎が小六の首をもって猪苗代城を訪れると、必死になって小六の行方を追っていた重吉は理不尽であるとは思いながらも憤慨した。同志である藤右衛門が生死の淵を彷徨っているなか、やりどころのない不安と後悔が重吉に勝負を挑ませたのである。

 高齢の角兵衛に挑むのはさすがに気が引けたのか、重吉は敢然と八郎に勝負を挑んだ。そして驚くべきことにあっさりと敗れた。

 思わず見ていた定俊の背筋が震えるほどの技の冴えであった。二刀を抜き相対する重吉に対し、八郎は得意の印字打ちで迎え撃ったのである。

 無造作に放たれた四つの礫は、重吉の目前で弧を描きながら交差し、ひとつは砕けて目つぶしとなり、残る三つは加速しつつ、また減速しつつ異なる軌道を描いて重吉に殺到する。さらに神足通を用いた八郎自身が地面を這うような姿勢から重吉の脛を狙っていた。

 この同時攻撃を重吉は捌ききることができなかったのだ。

 それがよほど悔しかったのか、以来何度も八郎に印字を打ってもらっている。

 重吉の腕はあの伊賀組の土遁から逃れたとおり、決して悪くはない。それどころか一流と呼んで差し支えないほどのものを持っている。その重吉を翻弄する八郎の腕は、もはや天才というしかなかった。

「――――ありがたいことで。八郎もあれで相当喜んでおりまする」

 そんな二人のじゃれあいを見物していたのは定俊だけではなかった。角兵衛もまた縁側に座って楽しそうに観戦している。

「そうなのか?」

「はい。あれは某以外の者とはほとんど関わりというものがありませんでな」

 角兵衛は好々爺然と笑った。しかしその笑みからは一切内心をうかがうことができない。自分が鵜飼藤助であることを知っても眉一つ動かさない定俊という男を角兵衛は測りかねていた。

「あの八郎という若者、角兵衛殿の身内ではないのか?」

「子供の時分に統領より預かりましてな。今では実の孫以上に思っておりますわい。某の立場上、外に出すこともできず、あれには寂しい思いをさせてしまいました」

「統領というと佐治殿の?」

「はい。何も聞かずに育ててくれ、と言われたときには往生いたしました」

 言外に角兵衛は八郎について自分が何も知らぬことを匂わせる。はたして定俊も、すぐに角兵衛の意図に気づいた。

「これはいらぬことを問うてしまったな」

 忍びにとって秘密は絶対である。情報を取り扱うことになれているからこそ、彼らの秘密は不可視の城壁に守られている。その強固さは武士のそれをはるかに上回っていた。

 同時に、八郎の血にはよほどのいわくがあるのであろうと定俊は推察する。角兵衛は別に隠しているのではなく、最初から佐治義忠から何も知らされていないということであるからだ。そもそも子供を角兵衛のような特殊な身の上の男に託すこと自体が尋常ではなかった。

 だがあの持って生まれた才能は隠しようもない。忍びではなく戦人として育ててみたかったと定俊をして思わせるほど、八郎の天稟は素晴らしかった。

「御爺様に手ずからお教えをいただくとは、幸運な子ですわね」

「さて、こんな世捨て人に見込まれたのが八郎にとって幸運であったかどうか」

 おりくの言葉をお世辞と受け取ったのか、あるいは何か思うところがあるのか、角兵衛の返答はそっけない。

 角兵衛は実の孫のように可愛い八郎にとって、自分と修行の日々を送ったことは決して幸福なことではないと確信していた。それでもなお、八郎が自分の技を受け継いでくれることに後ろめたい喜びを感じてもいる。忍びらしからぬ甘さであるが、元来忍びというのは身内には甘いものなのであった。

「――――ところで八郎という名は御爺様が?」

「某が統領に聞いたところでは、名付けだけは母親がしたと」

「そうですか」

 茫洋とした視線を彷徨わせているおりくに角兵衛は尋ねた。

「それが何か?」

「いえ……よい名だな、と。昔の定俊様を思い出しましたので」

「はははっ! 懐かしいことをいう。もう俺を源八郎と呼ぶ者は一人もいなくなってしまったがな」

 愉快そうに定俊は哄笑した。

 そういえば定俊の通称は左内がことに有名であるが、まだ蒲生家の一部将にすぎなかったころはよく源八郎と呼ばれたものだ。敬愛する蒲生氏郷も、「源八郎はおるか?」と死の床につくまで定俊をそう呼び続けていた。親友である横山喜内などは「源八」と人前で読んで憚らなかった。

 そう思えば重吉と八郎のやり取りも、どこかかつての自分と横山喜内や坂源兵衛(蒲生郷舎)の仲を思い出させるから不思議であった。

「本当によい腕をしております……御爺様といい、心強いことですわ」

 次に伊賀組が来襲すれば、その戦力は前回の比ではない。おりくや達介だけではさすがに手に余る。一騎当千の戦力を得たことは正しく僥倖というべきであった。

 決してその言葉に嘘偽りがないのは確かであったが、長年連れ添った定俊は、おりくの様子に漠然とした違和感を覚えた。しかし問うたところで答えてはもらえぬ頑固な女であることもまた、重々承知していた。

「あっ! しまった!」

「田崎様、お約束です。もう終わりですよ」

「うぬぬ……やむをえん。明日また挑むといたそう」

 どうやら話している間に勝負はまた八郎の勝利に終わったようだ。額の汗を拭い角兵衛のもとに八郎が戻ったとき、すでにおりくの姿はそこになかった。



 元和七年八月二十六日

 そろそろ風の乾きに秋の気配を感じる時候である。夕刻になれば蜩の声が切ない楽を奏で、磐梯山を下りてくる風にはすでに冬の冷たさが潜んでいた。

 しかしまだまだ強い日差しに温められた熱気は、むっとするような蒸し暑さを残していている。弁天庵の茶室で定俊に正対する小太りの老人は、せかせかと汗を拭きながらうまそうに茶を飲みほした。すでに六十の半ばに達した間垣屋善兵衛その人であった。

「結構なお手前でんな。この暑さには参りましてんけど」

「はっはっはっ! 相変わらず息災でうれしいぞ善兵衛」

「ま、わてはそれだけが取柄ですねん」

 柔和で愛嬌のある印象は今も変わっていない。しかし人生もそろそろ終わりを間近に控え、福々しい丸顔には深い皺が刻まれ歳月の長さを物語っている。

 こうして定俊と善兵衛が顔を合わせるのは、実に七年ぶりのこととなる。お互いに歳を重ね簡単に行き来できる間柄ではなくなっていた。

「よくいうわ」

 堺の街から往年の隆盛ぶりが衰えて久しいが、まだまだ日本の経済を支える大きな屋台骨であることに変わりはない。間垣屋の身代はかつての納屋衆には及ばずとも、十分に大店(おおたな)と呼ばれるにふさわしかった。

 善兵衛が堺における指導者層に入っていないのは、身代の問題ではなく善兵衛が気性的に公儀の統制を嫌悪していることに尽きる。あの関ヶ原の戦い以降、太閤秀吉のもとで活発な海外進出を果たしてきた堺商人に対する管理と規制は年々厳しさを増していた。

 間垣屋が扱う主力商品のひとつであった生糸も、茶屋四郎次郎を中心に糸割符仲間が組織され価格決定権を独占してしまったため。善兵衛のような独立系の商人は大きくその影響を受けていた。

 商売の技を競うのではなく、公儀とも癒着によって既得権が保護され御用商人ばかりが優遇される。織田信長が破壊した既得権益の自由化のなかをのしあがってきた善兵衛にとって、それはありうべからざる堕落に思えた。

 しかし時代の流れから一介の商人である善兵衛が逃れる術はない。そのため善兵衛はこの数年というもの間垣屋の支店を置いたアユタヤへ資金と人材を移し始めていた。事実善兵衛がアユタヤから帰国したのはつい数か月前のことなのである。

 六十半ばにしてこの行動力にはさすがの定俊も呆れ笑いしかでてこなかった。自分より年上であるはずの善兵衛に対する定俊なりの敬意の言葉であった。

「もうこの日本はあきまへんな。堺の人気(じんき)も悪うなったもんでっせ。外海も知らん商人が商いなんぞできますかいな」

 定俊は善兵衛の嘆きがよくわかった。同種の嘆きは、定俊もまた共有するところであるからだ。戦を知らぬ武士、海を知らぬ商人、正しく世の中は変わったのだ。

 慶長十四年、幕府は五百石以上の大船の所有と建造を禁止する大船禁止令を発する。これにより蜂須賀家や池田家など水軍を維持していた大名の大安宅船は、ほぼ幕府に没収されることとなった。

 唯一の例外は幕府が許可した朱印船である。ここでも幕府との癒着による独占の構造が幅を利かせていた。 

 海外貿易において、船体の大きさはそのまま輸送量や居住性、安全性に直結する重要事である。この船体の規格制限が日本の海外進出を物理的に決定づけたといっても過言ではなかった。

 そのため自ら海外へと出向く堺商人は激減している。年々堺における海外貿易の取引量は減少の一途をたどっていた。なかには早くも海外市場を捨てる若い商人が出始めている。利権に入りこめない若者は海外貿易にそれほどの魅力を感じられないのだった。善兵衛にはそれが腹立たしくてならなかった。

「さて、わてをわざわざ岩代までよばはったんはどういうわけでっしゃろか?」

 何も善兵衛はこんな北国まで旧交を温めに来たわけではなかった。老骨に鞭うって猪苗代を訪れたのは、定俊たっての頼みであったからだ。互いの年齢を考えれば、その頼みが尋常のものないことはわかっていた。

「すまんがお前に預けていた俺の金を返してもらおうと思ってな」

「ほんまでっか??」

 思わず善兵衛は素っ頓狂な声をあげて立ち上がっていた。預けていた金を引き上げるということは、金儲けを止めることに等しい。定俊の莫大な富の大半は間垣屋を通した交易にあるのだから。善兵衛の知る定俊は間違ってもそんなことを考える男ではなかった。

「死ぬ前には形見分けが必要だろう?」

「…………定俊はん、死なはるんでっか」

 善兵衛はまだ衝撃冷めやらず、胡乱な目で定俊を上から下まで眺めまわした。血色はよく肌艶は老いてなお若者のように輝いている。とても病魔に侵されたような体には見えない。狐に化かされているかのように善兵衛は首をひねった。

「いかほどになる?」

 そんな善兵衛にはお構いなしに定俊は尋ねる。

「ざっと七万両ほどになりまっしゃろか……」

 打てば響くように善兵衛は答える。この程度で返答に詰まるようでは本物の堺商人ではない。

 さすがに百万両には遠く及ばないが、蒲生家の一家臣が持つ資金としては破格も破格な金額であった。おそらくは大藩である伊達家でもこれほどの金額を自由に動かすことは難しいだろう。

「いつまでに戻せる?」

「急な話でんな。ま、三月というところでっしゃろ」

 そこまで反射的に答えて、ようやく善兵衛は定俊が死ぬつもりであることに気づいた。病でないとするならば、重政のように政争に巻きこまれた可能性が高い。あるいは定俊がキリシタンであることが影響しているのかもしれなかった。自らもキリシタンである善兵衛は、堺においても公儀からの監視が強まっていることを自覚していた。

「…………理由を話してくらはりますか?」

「まあ、いろいろと込み入った事情があってな……そんなわけでそろそろ腹を割って話してくださいますか? アダミ殿」

 定俊の視線が向けられた先――茶室のにじり口の扉がかたり、と鳴った。

 その言葉に促されるようにして、大柄のアダミは窮屈そうににじり口をくぐって茶室のなかへ腰を下ろす。その表情は憑き物が落ちたようにどこか晴れ晴れとしていながら、何か強い決意が表に現れていた。

「御覚悟は決まったようですな」

「――ドウカキイテクダサイ。私ノ罪ノ懺悔ヲ――――」

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