第35話 遺言
翌日の朝、定俊は林主計を呼んだ。
「すまんが形見分けを任せようと思ってな」
飄々と身を乗り出してそんなことをいう定俊に、主計は苦笑して眉を顰めた。
「こんな楽しそうに形見分けをする方を見たことがありませんな」
「こればかりは生きているうちの特権というものよ」
悪びれもせず定俊は笑う。そのあまりに邪気のない笑顔に、毒気を抜かれて主計は拗ねたように頭を掻いた。
「こうと決めたら私のいうことになど耳を貸さない方ですからな。殿は」
「これも性分だ。許せ」
「いささか寂しゅうなりますな。この猪苗代も」
寂しくなるどころではない。定俊という重しがなくなれば、たちまちこの猪苗代にはキリシタン弾圧の嵐が吹くだろう。
主計自身もまた、後年キリシタンであるがゆえに公金横領の冤罪をかけられ、一年もの拷問の末に殉教するに至る運命にある。定俊の死後も猪苗代に残り、キリシタンの信仰や逃亡に支援を与え続けたため隠し財宝との関わりを疑われたのであった。
定俊の庇護を失った猪苗代で、キリシタンのために働き続けることが何を意味するのか主計はわかっている。定俊もわかっていた。
それでもお互いに己の生き方を貫くことに一言半句の文句も言わない。主計ほどの経理能力があれば、再仕官など容易いとわかっていても、猪苗代を逃げて生きろ、とは定俊は言わなかった。否、言える資格もなかった。
生きることよりも、死ぬことが美しく尊いのが武士(もののふ)という生き物であるからだ。
「忠郷様には黄金三万両と相州正宗の太刀、御子息忠知様には三千両と備前長船景光の打刀に相州貞宗の脇差を送るがよい。借金については全て帳消しと回状を回せ」
「よろしいので?」
「その程度の散財はしてみせんと、な」
――キリシタン百万両の隠し財宝という噂は、蓋を開けてみれば定俊の個人資産にすぎなかった。あまりに莫大な資産なので勘違いした不心得者が出た。それが今回定俊が用意した落としどころである。
その落としどころの信ぴょう性を高めるためにも、景気よく散財してみせなければならなかった。
間垣屋に預けていた投資金七万両に加え、猪苗代城の御金蔵に保管された三万両、そして領内外に貸し付けた金を合わせれば十五万両ほどにはなろう。百万両にはほど遠いが、それでも目を剥くような大金である。間違ってもみちのくの田舎陪臣が所有してよい金額ではない。
主君である蒲生忠郷ですら、いや、奥州の諸大名を全て見渡しても、これほどの資金を自由に処分できる男は定俊をおいて他にない。単に予算があることと、自由に処分できることは天と地ほども違うのだ。だからこそ政宗も血道をあげてキリシタンの隠し財宝を奪おうと画策したのである。
「渡りはやはり津軽様に?」
「筑前守(黒田長政)殿にも伝手はあるが……先ごろ身体を壊され余命いくばくもないと聞く。やはり信枚殿を頼るほかあるまいな」
キリシタン大名は全国にあれど、そのほとんどはすでに改宗しておりむしろ積極的に弾圧する側に回っている。伊達政宗などはその代表だ。津軽信枚と黒田長政は、そのなかでも数少ないキリシタンの親派なのであった。
これから始まる猪苗代での弾圧を逃れ、庇護を求めるとすれば、この両家以外にはないと定俊は考えている。
ところが折悪く、黒田長政は病を得て床に臥せっており、元和九年八月四日、家光の将軍就任に伴い上洛の途上で病状が悪化し客死することになる。
それに九州はやはり幕府の目が厳しい。黒田家にも幕府の監視が入っているとみるべきだった。となれば奥州の果てという辺境にある津軽こそは、キリシタンが逃れるのにもっとも相応しい地に思えた。
のちに猪苗代を離れた信者が津軽へと北上する途上、何人かが南部藩の戸来村へ土着したというが、それはまた別の話である。
「場合によっては津軽からさらに松前殿を頼るということも考えねばなりますまい」
幕府の目を逃れるためには、海を渡り蝦夷の地を目指すことも視野にいれなければならない、と主計は言う。本草学に詳しい主計は、松前藩の商人に親しい友人がいた。
「ふむ、そういえばあの蝦夷にもキリシタンの同志はおったな」
かつて九戸政実が南部で反乱を起こした際、定俊は氏郷とともに出陣し、蝦夷(アイヌ)人の戦士と戦った経験がある。その際、松前にも少数だがキリシタンがいることを聞いたのだ。
「しばらく忙しくなりそうですな」
忙しいどころではなく、この先主計はほとんど休む暇もなく岡家の財産の処分やキリシタン同胞の保護に忙殺されるだろう。
それはいつか主計が処刑される日までなくなることはない苦行のようなものである。
だが主計はそれを泰然と受け止め嫌だともいわず、定俊もまたそれをすまない、と詫びることもなかった。
「楽しゅうございました」
「うむ」
思えば楽しい日々であった。定俊の巨額の蓄財に主計が果たした役割は大きい。そのおこぼれで趣味の本草学に多額の資金を投入したのもよい思い出である。キリシタンとして、守銭奴として、二人は同じ銭の裏表のような存在だった。ただ、主計の本性は武士(もののふ)ではない。それが二人の最後の分かれ目であった。
「――――今年は女郎花が見事ですな」
おりくと定俊が丹精した庭園には、ちょうど旬の女郎花や撫子が艶やかに咲き誇っていた。
「俺は頼風のような甲斐性なしではないぞ?」
能の女郎花になぞらえたと受け取った定俊は口をへの字にして言った。
主計は寂しそうに笑って視線を庭園に向けたまま答える。
「全ては主の思し召しでございます」
もはやこれ以上問うことは女々しい。二人は小半時ほども無言で庭園の花を見つめ続けていた。
「――――さて」
主計と別れた定俊は足どりも軽やかに弁天庵へと向かった。
もちろん長年続けてきたあの儀式を最後に堪能するためである。今回ばかりは派手に後先を考えずに浸りきろうと決めていた。
書斎の襖を開け、所狭しとぶちまけられた溢れんばかりの小判の山を前に、定俊はおもむろに裃を脱ぎ捨てる。
そして新品の越中ふんどしまで脱いでしまって全裸になると、眩い黄金の輝きを抱きしめるかのように定俊は身を躍らせた。
ガシャン、と大きな音がしてうず高く積み上げられた小判の山が定俊の身体にぶつかりしゃらしゃらと崩れて落ちた。
いつもの儀式であれば一枚づつ小判を床に並べる程度だが、今日は座敷を一種の庭園に見立てて小判を置いている。小判の山は島であり、小判の床は海であった。
その海めがけて、定俊は胸を反らせるようにして飛びこんだのである。
「おひょひょひょひょ!」
艶めかしい小判の音と、生暖かさすら感じる小判の感触に、定俊は奇声をあげた。
地金の感触、耳に心地よい金属音、どこか冷たくも動悸を加速させるような錆びた香りに定俊は酔う。
はたしていつからこんな銭を愛でるようになったのか。
間垣屋の扱う銭が、国人領主であった父の何十倍、何百倍という規模であったせいだろうか。土地というものに縛られた国人領主の矮小さを思い知らされた瞬間ではあった。
だが、それだけではない、と定俊は思う。
(――――銭は差別せぬ)
貧乏人が使おうと金持ちが使おうと一両は一両その価値は変わらない、そして一介の丁稚から豪商になりあがることができるのもまた銭の道であった。逆に没落も早く、三代繁栄が続くのは稀と言われている。少なくとも生まれによる差別が武家や公家より遥かに小さいことは確かであろう。
世に下克上と呼ばれるが、実は本当の意味で下層から成りあがったのは、信長が登用したごく一部がほとんどである。あの精強をもってなる武田家ですら、いかに優秀であっても出世の限界は侍大将までであった。秀吉とその子飼いは例外中の例外なのであって、実は武士の社会は九割九分まで保守的なものなのである。
親から譲渡される物、子に譲り渡す物、総じて下らぬと定俊は考えている。己自身が己の力で手に入れるからこそこの世に生まれた意味があるのではないか。
そうした意味で、銭というのは武士という立場に縛られていた定俊にとって、己個人を試すことのできるもっとも確実な物差しであった。
逃れようにも逃れられないどうしようもないほど武の者であるからこそ、銭の道こそは定俊にとって欠くことのできない遣り甲斐のある遊戯であり、癒しであった。才覚と努力がこれほど明確に形となって現れるものを定俊は知らない。
(思えば銭の道は自由であった。何を商うも、誰と商うも自由、成功するも自由、失敗するも自由、何よりそれが楽しかった)
その楽しさ、大切さがいささか困った性癖となって現れてしまったのは御愛嬌を思ってもらうほかあるまい。
「ひょほほほほほほほ!」
蕩けた顔で小判と戯れながら、定俊は天を仰いで嘯いた。
「なんの百万両! この岡源八郎、商人の道を志せば一千万両と戯れて見せたものを!」
自分が商人になれなかったことはわかっている。わかっているからこその放言、わかっているからこその夢想であった。
大海へ倭寇とともに漕ぎ出し、南蛮人を相手に時には戦い、時には丁々発止の交渉を繰り広げる。唐天竺を股にかけ、遠くローマ教皇の耳に届くほどの大商人として海原を疾駆する途方もない夢を定俊は瞼に思い描く。それは実現することはなかったが、確かに定俊のもう一つの夢だった。
――――その日陽光が落ちるまで、思う存分定俊は小判と戯れ続けた。
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