第36話 最後の贈り物
見弥山から磐梯山までは鬱蒼たる雑木林が続いている。セミナリオ建築のため切り開かれた場所を除けば、東側にある式内社磐椅(いわはし)神社の周辺が神域となっているほかは、ほとんど手つかずの大自然が広がっていた。
秋を感じさせる強い風が磐梯山から吹きおろし、緑の木々と定俊自慢の陣羽織をばたばたと翻らせる。大坂の陣への参陣を果たせなかった定俊にとって、ほぼ関ケ原以来となる万全の戦支度であった。
鮮烈に人目を引く陣羽織は、あの松川の戦いの折に伊達政宗によって背中を切り裂かれた猩々緋の陣羽織である。定俊は背中の切り裂かれた傷を金糸で十字に刺繍することで戦いの記念としていた。
戦が無くなってからはほとんどの時間を蔵のなかで過ごした陣羽織が、心なしか自慢げに胸を反らしているかのようであった。
「今日は佳き日よな」
「はい、戸木城を思い出します」
定俊とおりくが出会った戸木城攻め、あの日もこんな空の高い日だった。
これから戦いに行くということを忘れたように定俊とおりくは視線を交し合う。殺伐とした戦いのなかであって潤いを忘れない。数寄者でもある定俊の面目躍如というところであろうか。
――――ひときわ強く風が吹いた。
その風のなかに、忍びだけが聴くことのできる明かな音色が混じっていた。
「どうやら二手に分かれたようですな」
しばらくその音に聴き入っていた角兵衛が、音の方向からそう判断した。
「どちらを選ぶ?」
あえて二手に分かれたのには理由があろう。おそらくは伊賀組の誘い――その誘いが向けられた相手が角兵衛であろうと定俊は察したのである。
「ほっほっほっ! こんな老体に左様な価値があるとも思えませぬが……」
価値はともかく因縁はある。かつて長束正家に仕えた頃、鵜飼藤助であった時代に豊臣家の対抗勢力であった伊賀組を何人殺したことか。
伝説の忍びなどと持ち上げられてはいるが、ただ無我夢中で敵を殺戮していただけのことである。当時忍びの戦力で豊臣方は著しく劣勢であり、なりふり構っている余裕など微塵もなかった。闇に忍びことができず、表に名が売れてしまった時点で、藤助は忍びとして失格だと考えていた。
だが表で売れてしまったその名が、伊賀組の老忍びにとってはことのほか大事であるらしい。
忍びが箔を願うなど世も末だと思うが、せめて最後くらいは華々しく煌びやかなものでありたいという気持ちは角兵衛も同じであった。
「どうも左手の男が誘っているようですな」
角兵衛の耳には、明らかに左手から聴こえる笛の音のほうが数が少なく音も大きいように思えた。
おそらくは二人、多くても三人には届かぬではないか。角兵衛と八郎を誘っているとしか角兵衛には思えなかった。
「おそらくは伊賀組の組頭でありましょう。恨まれる身に覚えなら山ほどもございまする」
伏見城攻めの潜入工作で名高い鵜飼藤助だが、実はその後の美濃竹ノ鼻城や岐阜城攻めにおいても暗躍しており、伊賀組忍びと壮絶な暗闘を繰り広げていた。
特に岐阜城をめぐる攻防では方丈斎のよく知る伊賀組の忍びたちが数多く斃れた。天正伊賀の乱を除けば、個人でもっとも多くの伊賀組を殺したのはおそらく鵜飼藤助をおいて他にないであろう。
しかしどんなに伊賀組の命を奪おうと、戦に勝ったのは徳川方である。竹ノ鼻城も岐阜城も、徳川方が勝利し、結局豊臣方は一敗地にまみれた。角兵衛は勝利に貢献できなかったのである。だからこそ角兵衛は己の功績など無に等しいと考えている。
ところが多数の同胞を殺された伊賀組の考えは違う。角兵衛を、鵜飼藤助を倒さなくてはあの世へ伊賀組こそ最強という華を持ち帰ることができない。
なんとしても鵜飼藤助の首を取らねばならぬ、という伊賀組の決意はすさまじいばかりの気炎に満ちていた。
果心居士も風魔小太郎もなき太平の今、ただ藤助だけが最強の名に添えるに相応しい華であった。
「ならば左は角兵衛に任せた」
「ありがたき幸せ」
定俊は強敵が手ぐすねを引いているであろう左手を無造作に角兵衛に委ねた。
先日の火傷も状態は決して思わしくない。今の角兵衛が戦えば、十中八までは角兵衛が負けると定俊は見ている。
だがそれは戦わぬ理由にはなりえぬものであった。人には死ぬと決めた場所と戦うべき相手がいる。それを奪う権利が定俊にあるはずがなかった。
「八郎、御爺を頼みましたよ」
おりくの言葉に八郎は力強く頷いた。もとより角兵衛は師であり、父にも等しい相手である。ただなぜかおりくに頼られたことがうれしくも誇らしかった。それが何故なのかは八郎にも理解することのできぬ心の動きであった。
たちまち角兵衛と八郎の姿が山に溶けるようにして掻き消える。角兵衛にいたっては本当にこれが重傷の老人かと思えるほどの神速通の冴えであった。
「我らも征くか」
定俊の着こんだ角栄螺の甲と鳩胸鴟口の具足が、ギシリと鈍い金属音を響かせた。
「はい」
そう短く答えたおりくの姿は空気のように霞んでいた。
そこにいるはずなのに究極に近い気配の消し方によって、その存在を感知させない隠形のなせる技であった。おりくという人間を知る定俊や達介はともかく、重吉はすでにおりくの姿を相当の注意力を払わなくては認識できなくなっていた。
角兵衛や八郎とは対照的に、ゆっくりとまるで能の舞台にあがるように、定俊たちは歩き始めた。
定俊たちの動向を二手に分かれ山腹から眺めていた方丈斎と大善は期せずして嗤った。
こちらの思惑を知りながら、小細工ひとつせずに堂々と正面から向かってくる敵が小気味よくもあり、同時にその堂々たる暴挙が腹立たしくもある。仮にも不正規戦闘の練達である伊賀組を相手に、真っ向勝負を挑まれるなど彼らの長い人生にもかつて経験のなかったことであった。
「甘くみられたものよ」
そういいながらも方丈斎は蕩けるような笑みを浮かべている。
あの鵜飼藤助と直々に戦えるという喜びの前には、ほとんどすべてのことは枝葉末節であった。この喜びと興奮をいつから自分は忘れてしまったのかと思う。
方丈斎がただ戦って任務を果たしていればよかった幸運な時間はとうに過ぎ去っていた。服部半蔵を失った伊賀組が、忍びとして生きていくためにこそ方丈斎は戦わなくてはならなかった。それがどれほど性に合わぬ虚しいものであったとしてもである。
だが方丈斎は柳生宗矩のような、新たな概念を創造するほどの天才的な組織者ではなく、ただ優秀なだけの忍びだった。
忍びである自分が忍びの仕事に徹することができない。そのもどかしさから方丈斎の精神は徐々に壊れていったのだ。
しかし今やそんな憂いも怒りも全てが消え去っていた。敵ではあるが鵜飼藤助には感謝しかない、と方丈斎は思っていた。
(ゆえに、安心して我が手にかかるがよい鵜飼藤助よ。最上の礼をもって貴様を討ち取ってやる!)
敗れたと知った鵜飼藤助は最後にどんな顔を浮かべるだろう。戦って勝つだけではもはや足りない。これは方丈斎の、伊賀組の忍び最後のわがままであった。だからこそ相手の顔がよく見える日中に決闘の刻限を決めたのである。
道なき道を風のように走りながら、角兵衛は気づかわしそうに角兵衛を見つめる八郎に言った。
「おりく様にはすまぬことではあるが、手出し無用に頼む」
八郎の腕を十分に認め、そして自分を思う気持ちを十二分に知りながら、角兵衛は真摯に頼みこんだ。
「……嫌だよ」
物心ついて以来、初めて八郎は角兵衛に逆らった。
もちろん日常の戯言では幾度も逆らったことがある。しかし角兵衛が本気で八郎の意思を圧して頼みこんできたことを、断るのは八郎にとっても初めてのことであった。
「よいか八郎、これからどう進もうとも俺は死ぬ。死ぬならば満足して死にたいのだ。わかってくれ」
角兵衛の見るところ、火傷が完全に完治することはあるまい。今は死の間際の執念が蝋燭が燃え尽きる最後のように身体を動かしているにすぎなかった。もし仮に治るようなことがあっても、もはやそれは忍び鵜飼藤助とは異なるただの残骸にすぎぬであろう。
ゆえに角兵衛はここで命を捨てるつもりでいる。哀れな老醜を誰の目にも曝すことなく消えたいと願っている。
しかし必ずや勝って帰るという断固たる意思をもたぬ忍びが、戦いに勝って帰ることはないものだ。死の魅力に取りつかれた忍びは死ぬ。優秀な忍びは死を恐れることはないが、死にたいと願う忍びは例外なく死ぬのである。これは忍びという生き方の非情さのゆえであろう。
だが八郎はまだ若く、死に魅入られる気持ちが理解できなかった。わからないなりに、角兵衛が死にゆくことをもう止めることができないのだということを心底で理解した。
「御爺はずるい。御爺まで俺を置いていくのか?」
八郎にとって角兵衛こそは世界の全てである。物心つく前に預けられ、世間とは隔絶した山奥で修行の日々に明け暮れた。父であり母であり友でもある。角兵衛だけが八郎にとっても家族であり帰るべき場所であった。
「今やお前は外を知った。自分の足で歩いてどこまでも行けるのだ。気づいておるのだろう?」
角兵衛の問いに八郎は答えなかった。答えれば角兵衛の言葉を認めることになる。
自分が変わりつつあることに八郎は気づいている。
それは重吉のように気軽に手合わせをする友人のような関係かもしれないし、定俊が見せる武士としての重厚な武の気配であるかもしれぬ。あるいは心のどこかでおりくに対して抱く思慕のようなほのかな思いかも。
何より外の世界で、自分が考えていたよりも優秀な忍びであるということを八郎は体感した。
これ以上角兵衛のもとにいても、それは足かせにしかならないのだと角兵衛は言っているのである。
「嫌だよ。行かないでおくれよ」
「子の願いには関係なく、親というものはいなくなるものだ。お前もいずれ親になればわかる日が来よう」
角兵衛には八郎の稀代の才能を知りながらも、世に解き放つ自由がなかった。今でもその自由を与えられたわけではない。ただ角兵衛の死のみが八郎を解放するのであった。死だけが師として、父として八郎に渡せる最後の贈り物であった。
「――――よいか、くれぐれも手出し無用!」
角兵衛の深いしわに隠れた瞳は、鵜飼藤助を待ちわびていた方丈斎の姿を捉えていた。
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