第11話 百万両
一瞬空気が凍ったのは、アダミも藤右衛門も、もちろん重吉もここで言い出すつもりは全くなかったからであろう。どこにも希望を見いだせない状況に思わず口をついて出てしまった。まさにそんな雰囲気であった。
「くひっ」
なんとも形容のしがたい発音が定俊の唇から漏れた。
「天下取りには少なすぎるな。豊臣家が健在であったころなら――いや、それも無理か」
そもそも大坂の陣で豊臣家が所有していた資産は三百万両以上といわれている。百万両は大金ではあるが、あの豊臣家にすら及ばない。とはいえ幕府の年間予算が八十万両程度であることを考えれば、空恐ろしい大金であることも確かであった。
それにしても、百万両という金額を聞いてなお、冷静に算盤をはじく定俊もやはり並みの者ではない。内心はどれだけ興奮していたとしても。
いともあっさりと定俊に否定されて、アダミも藤右衛門も、毒気を抜かれたように瞬きを繰り返した。
マカオから日本へ密入国してより数年、二人は隠し財宝をどう使えば同胞を救うことができるか、それだけを案じてきたのである。うすうす感じていたことではあるが、隠し財宝だけではもうどうすることもできないところまで弾圧は進んでいた。
天下が徳川に治まってしまった今、キリシタンに残された道は逃亡か潜伏以外にはない。第六天魔王と恐れられた織田信長が、キリスト教の布教の自由を保障していたあのころに時代が戻ることはないのだ。
あえて目を背けていたことをあっさりと定俊に指摘されてしまい、アダミと藤右衛門はそれを受け入れぬまでもつい納得した。してしまった。
しかし重吉は二人ほど簡単に納得することはできなかった。
「この日本(ひのもと)にキリシタンは七十万以上はおり、まだまだ幕府に不満を持つ大名は数多い。お手伝い普請にて手元不如意な者とておりましょう!」
定俊は哀れそうに重吉をみて首を振った。
「九州の諸大名はおろか、伊達家までがすでに弾圧に舵を切った。かつて一向宗がそれなりに戦えたのは、まだ天下が定まっていなかったからだ。断言するが、一家たりとも同心する大名はおらぬであろうよ」
「ではこのまま、いつか訪れる破滅に怯えて暮らせと?」
「その問いの答えを出すのは俺ではない。誰もが己自身に問わなくてはならないのだ。俺はただ、亡き昌林院様のご遺命を果たし、この命あるかぎり同胞を守るのみ」
もっとも、ただ守るだけということが途方もなく難しくなったようだ。その事実が定俊にはうれしくもあり、楽しくもある。
まるで子供がおもちゃを見つけたかのように、定俊は笑み崩れて言った。
「…………それにしても百万両か。なるほど、喉から手が出るほど幕府も大名も欲しかろうな」
先日の予感はこれのことであったか。
今までそれほどの情報を隠し通してきたのは見事なことだが、定俊の戦人としての勘が告げている。秘密を守れていたのはただこの瞬間までのこと。平和な時間はもはや過ぎ去ったのだ、と。
仙台藩六十二万石の伊達家には、知る人ぞ知る忍びの組織がある。
忍びといえば上杉家の軒猿、北条家の風魔、幕府の伊賀組、甲賀組などが有名だが、伊達家にもそうした忍び集団がおり、名を黒脛巾組という。彼らはみな黒革の脛当てを身につけており、当主伊達政宗に直答することを許されていた。出羽三山や蔵王権現を信仰する修験者の集団を母体とするといわれ、その情報収集力は東北随一であると謳われている。
この黒脛巾組は安倍対馬守安定を頂点とし、七つの組に分かれていた。そのなかで白石から南方面を担当しているのが組頭の横山隼人である。白石からわずか五里ほど南には、伊達氏の父祖の地である梁川があり、秀吉に国替えを命じられる以前、長く親しんできた伝来の旧領があった。
この旧領は本来徳川の関ヶ原の勝利とともに、報償として伊達家に与えられるはずであった。世にいう『百万石のお墨付き』である。
ところが和賀、稗貫で余計な一揆の煽動を行ったために、この百万石のお墨付きは反故にされてしまう。結局関ヶ原の戦いにおける伊達家の加増はわずか二万石に留まった。以来、政宗はこの手に入れそこなった旧領の回復に並々ならぬ意欲を燃やしてきた。
ゆえにこそ、黒脛巾組は江戸表と伊達旧領、すなわち岩代の仙道にもっとも人材を集中していたのである。
安倍対馬守のもとへ横山から急報がもたらされたのは、元和七年四月十七日も深夜のことであった。
「会津から猪苗代へ南蛮人が入ったよしにございます」
すでに就寝中であったにもかかわらず、音もなく寝所へ侵入した横山に、安倍対馬は微塵の動揺も見せずに布団から身を起こすと静かに問いかけた。
「宣教師か?」
安倍対馬の問いに、横山は顔を伏せたまま抑揚のない声でただ訥々と答える。
「おそらくは――ジョアン・マテウス・アダミとその一党かと」
「たしか、柳川で司祭の長を務めた男であったか」
遠く離れた九州の宣教師の名を、安倍対馬が知っていたのには理由がある。
それは政宗が、とある謎を追いかけることを安倍対馬に命じていたからだ。すなわち、大久保長安の隠し財法の謎である。
実は政宗が大久保長安の財力と松平忠輝という御輿を利用して、天下取りの隙を窺っていたという幕府の疑念は完全に事実であった。
派手好きにみえて用心深い政宗は、さらにそこへキリシタン、あるいは南蛮人の支援を加えて計画を万全にする心つもりであった。ところが南蛮へ使節を派遣しようとした矢先に長安が前触れもなく急逝し、御輿として期待した松平忠輝も元和二年に改易されてしまう。
最後の希望である遣欧使節も、帰ってきてみれば何一つ目的を達成できぬままであった。失望している暇もなく、政宗は幕府の疑念を払しょくするため、領内のキリシタンを弾圧しなければならない羽目になった。
しかしそこまで失敗しても、懲りるということを知らぬのが政宗という男である。
蘆名滅亡、葛西大崎の一揆煽動、そして関ケ原での和賀稗貫の一揆煽動と、そのたびに窮地に陥り、痛い目に会いながらもいまだ政宗は天下への野望を捨ててはいない。
政宗の天下取りの野望の証拠に、バチカンの機密文書館に保管されている一六一五年十二月二十七日付のローマ教皇パウルス五世の小勅書には次のような記述が残されている。
『日本の王に対する剣と帽子の叙任について 王(政宗)はキリスト教徒ではないので少しの協議もできない。しかしキリスト教徒の王になれば、通常キリスト教徒の王に与えられるあらゆる満足がすぐに与えられるでしょう』
当時政宗はキリスト教の洗礼を受けていなかった。幕府の禁教令後、受洗するのは自殺行為だったからだ。問題なのはこの次である。
『司教の任命、および騎士団の創設については、キリスト教徒になった時、また教会を寄贈したならば、彼の功績を考慮して、これについて協議される』
つまり政宗はフランス国王のように、あるいはスペイン国王のようにカトリックの王として国内の司教を統制し、日本に騎士団を創設しようとしていたのである。スペイン国王が指揮下に治めるサンチャゴ騎士団やカラトラバ騎士団のように、日本国内のキリシタン武士をローマ教皇の後ろ盾で強固な信仰のもとに騎士団としてまとめ上げることができれば、幕府に対抗することも可能かもしれなかった。
さらに同じカトリック教国であるスペイン、ポルトガル、フランスの支援を受けることすら政宗は想定していたのである。
宣教師ルイス・ソテロはそのように弁舌巧みに政宗を誘導し、この日本にキリシタンの王国を築きあげるにはそれしか方法がないと信じた。
ところが自ら受洗していないという政宗の用心深さが、逆に野心を見透かされる結果に終わり、使節は再三の嘆願もむなしく手ぶらで帰国することになる。
もしもの話であるが、松平忠輝がローマ教皇の支援の下に七十万以上とよばれるキリシタンを率い、その兵站を大久保長安が支えることができれば、政宗の天下取りの野望は決して勝算のないものではなかった。
そのすべての要素が失われた今、政宗が天下を窺う機会は完全に失われたように思われる。
おそらくは誰もがそう考えていただろう。ただ一人政宗本人を除いては。
「…………殿に報告せねばなるまいな」
感情を殺した能面のような横山隼人と違い、安倍対馬はわかりやすい渋面をつくる。
忍びの長でありながら、安倍対馬は組織の長として表の世界との接点を維持する必要があるため、そうした感情表現が素直であった。いや、素直にみえるよう心掛けていた。
この情報がまた政宗の野心に火をつけてしまうことは確実である。ただでさえ幕府から警戒の目を向けられているこの時期に、それはあまりに危険な火あそびになるはずであった、
しかしその危険を論ずる資格は安倍対馬にはない。その判断をするのは政宗であり、安倍対馬はその判断材料を集めるのが役割であった。
だからといって伊達家の存続なしに安倍家も黒脛巾組もまたないのである。伊達家なくば武田家を失った甲斐忍びのように、北条家を失った風魔党のように、主を失った忍びは生きる場所を失い、落ちぶれて山賊にでもなるしかなかった。
その酷薄な現実が安倍対馬を懊悩させていた。
「せめて景綱様が生きておればなあ…………」
政宗の側近として天下にその名を知られた片倉小十郎景綱は、元和元年に病死している。政宗の叔父にあたる亘理元宗や留守正景もすでに他界しており、現在政宗に正面から諫言できるのは精々従弟の伊達藤五郎成実くらいなものであった。
「考えても詮無いことか。清水沢から何人かそちらに送るゆえ、どんな小さなことでも報せるように」
「承った」
物音を立てずに来た時と同じように横山は退出する。増員を送るということは、ある程度の犠牲が出てもよいという意味を含んだ冷酷な指示でもあるのだが、そうした動揺を微塵も横山が見せることはなかった。
しかし言葉にこそ出さぬものの、安倍対馬も横山隼人も、この問題が多大な犠牲の出る大きな暗闘になることを予感していた。
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