第12話 苦い記憶
――――伊達藤次郎政宗。
人生五十年の峠を越えた五十二歳の老人ではあるが、炯々と光る野心に満ち溢れた瞳と、しなやかな猫科を思わせる細みの引き締まった肉体が明らかに年齢を裏切っている。
政宗を遅れてきた英雄と人は呼ぶ。本人もあと二十年早く生まれていれば天下をとれた、と臆面もなく放言していて、周囲もどこかそれを受け入れている節があった。
正確に彼を表現するならば遅れてきた戦国大名、というのがもっとも正しいかもしれない。
元和七年を迎えた今、本気で天下を狙う戦国の気概を持ち合わせているのは、おそらく日本六十余州の諸侯でも政宗一人だけではないだろうか。
「ままならぬことよな」
不機嫌そうに政宗は口をへの字に曲げて、金で象嵌された巨大な煙管を吸った。
今少しキリシタン弾圧を遅らせていれば、労せずにアダミは仙台へとやってきたに違いない。わざわざ陪臣にすぎぬ岡定俊などに攫われることもなかったのだ。
「幕府の警戒を解くには、ああせざるを得ませんでした。まあ、今でも警戒が解かれたとは言えませんが」
片倉景綱の息子で小十郎の名を受け継いだ重長は、父譲りの秀麗な横顔を陰らせる。若いながらも伊達家の屋台骨を担う重長の貌は、すでに年齢より十ほども老けてみえた。
「そんなことは百も承知よ」
政宗が嘆いたのは己の運のなさである。どうして自分はいつもいつもこうして肝心の時に機会を逃してばかりなのか、という嘆きであった。
もっとも秀吉や家康がそれを聞けば、政宗の心得違いを鼻で嗤ったであろう。政宗と同じことをすれば他の大名ならまず十中九までは死んでいる。これまで生き延びることができたのは、まさに政宗自身の持って生まれた幸運に拠るところが大きいのだ。
「それでそのアダミという宣教師とカルロス・スピノラの関係は?」
――――カルロス・スピノラ
数学者、天文学者、科学者にして宣教師。長安の隠し財宝の秘密の一端を握ると目される人物である。現在は大村藩に投獄されており、半年後の元和七年九月十日、長崎にて火刑に、いわゆる元和大殉教の犠牲者となる男であった。
非常に社交的で顔が広く、大久保長安に最新の抽出技術、アマルガム法を伝授したのも、どうもこの男である可能性が高いというのが黒脛巾組の見解である。
政宗に問われた安倍対馬は、頭を畳にこすりつけるようにして低い声で答えた。
「九州柳川で布教していた際には、ともに肝胆相照らす仲であったとか」
「大久保長安の財宝について何か知っている形跡は?」
「残念ながらいまだ何も」
「どれだけ犠牲を払っても構わん。なんとしてもそのアダミから財宝の情報を聞き出せ。本人が知らぬならば仲間を吐かせよ」
「御意」
安倍対馬としては政宗の言葉は天の言葉だ。もとより反対するという選択肢はない。あるとすればそれは安倍対馬ではなくほかの重臣である。密かに安倍対馬は片倉重長へちらり、と視線を送った。
「下手に動けば、幕府のさらなる疑いを招きかねませんぞ?」
疑いどころではない。その疑いは疑いではなく事実なのだ。暴かれてしまえば今度こそ伊達家は終わる。宿老として重長には政宗に諫言する義務があった。
「あるかないかわからぬような財宝のために、我が伊達家の行く末を賭ける価値がありましょうか?」
本音をいえば、いい加減天下の夢など捨てて内政に力を尽くして欲しい。しかし臣下としてそこまで言うのは重長には憚られた。今ここにはいない伊達藤五郎成実であれば、あえてそこまで幼なじみとして放言したかもしれぬ。何しろ一度は政宗と喧嘩して本当に伊達家を飛び出した男だ。
しかしながら重長は、父景綱によって危うく生まれる前に殺されるところであったところを、政宗によって救われたという返しきれぬ恩がある。主君の野心を真っ向から否定することはさすがに憚られた。
「ある。必ずある」
政宗は大久保長安と、少なからず天下取りについて本音で談合した記憶がある。あの天下の驕りものの全財産がわずか百万両程度でなどあるものか。南蛮人から取得した知識の代償として、そして来るべき日に南蛮から協力を得ることの報酬の前渡しとして、イエズス会の協力者に莫大な金を渡したことを政宗は本人の口から聞いているのである。
その金額はおよそ百万両。さらに人知れず複数の廃坑などに隠匿した資金も五十万両を数えるという。合計二百五十万両、正しくあの金満豊臣家にも匹敵する恐るべき資産であった。長安が全国の金山銀山を管理し、しかも自己申告の歩合制という、操作し放題の地位にいたからこそできる蓄財である。さらに家康の六男で御輿として利用するつもりだった越後高田藩主松平忠輝に、密かに五十万両もの援助をしていたから、実質的には三百万両だ。
その財宝が政宗には喉から手が出るほどに欲しい。なぜなら天下取りの野望とは別に、優秀な内政家でもある政宗は、後の世に貞山堀と呼ばれる運河の開削にすでに着手していたからだ。北上川水系の新田開発にも力を入れており、伊達家の財政は今や火の車であった。
これらの開発により後年、仙台藩は表高六十二万石に対し、実高七十五万石を超える生産量を確保することになる。また江戸で流通する米の三割は奥州米と謳われるなど、政宗の輝かしい行跡のひとつとなるものの、それはあくまでも後の世のことである。今の政宗には金がないことに変わりはない。
「これが最後の機会なのだ。人生最後の天下取りの機会に、金がなくて指を咥えていては独眼竜の名が泣くわ」
「左様な機会が本当にあるものでしょうか?」
「もうじき家光様と忠長様は割れる。いや、俺が割る」
口の端を大きく釣り上げて満腔の自信とともに政宗は嗤った。
長子である徳川家光が三代将軍となることはもはや規定路線である。すでに元和七年三月には右近衛大将の地位をえて、朝廷から将軍宣下を得るための工作は最終段階にある。おそらく来年かさ来年には、家光に征夷大将軍の宣旨が下るはずであった。
しかし二代将軍秀忠と妻お江の方が、家光より二子忠長を溺愛しているのは、諸大名が誰でも知っている事実である。
そうした状況でまことしやかに流れ始めた噂があった。それはすなわち、家光がお江の方の実子ではないという穏やかならぬ噂である。
驚くべきことに徳川家光の誕生日はこの時点で公表されていない。正式に家光の誕生日が慶長九年七月十七日であると発表されたのは、実にお江の方の死後のことになる。
ところがこの慶長九年七月十七日というのは、お江の方が娘千姫の結婚のために秀忠から離れていた時期から逆算すると出産の計算が合わなくなる可能性が非常に高かった。しかも溺愛というだけでは説明できないほど、家光より忠長に付けられた小姓の方が身分が高い。
もちろん、なんの証拠もない疑惑である。しかしその疑惑が、時として大きな武器となることを政宗は経験的に知っている。
――――かつて豊臣秀頼が秀吉の実子ではないという疑惑があった。
それだけが理由ではないとはいえ、福島正則、加藤清正、黒田長政ほかの豊臣恩顧の大名が、徳川家に鞍替えするにあたり、この噂が果たした役割は大きかった。秀頼が豊臣の血を引いていないのなら、裏切っても義には反しないと免罪符となるからだ。さらに高台院(寧々)が積極的に秀頼を擁護しなかったことも大きいが、恩義かお家かの瀬戸際で、彼らが徳川につくことを選んだ影に風聞あり、と政宗は睨んでいた。
あとは二代将軍秀忠が早く死んでくれれば――はたして戦の経験のない家光にどこまで大人しく従う大名がいるだろうか。
豊臣の滅亡以後、幕府は数多くの大名家を様々な口実を設けて取り潰している。いつ自らも取り潰されるか、戦々恐々としている大名家は多かった。特に加賀の前田家や長門周防の毛利家、肥後の加藤家などは切実に危機感を覚えているはずであった。
しかしながら不遇をかこつ忠長に接近しその関係を深め、幕府に不満のある大名たちを糾合するためには、潤沢な、溢れんばかりの資金力が必要不可欠であった。資金さえあれば噂など、いかようにも真実であるかのように煽ることも可能だ。政宗にはその力があり、さらに黒脛巾組という手足がある。
事実、九州の島津家や細川家にさえ、家光と忠長兄弟の対立に神経をとがらせていたことを示す文書が残されている。天下の大乱を憂う声は確かにあった。勝ち目さえあれば戦うのが戦国の習いであり、その気風を残す大名もまだ決してなくなったわけではない。
もはやそれだけが、政宗に残された天下取りの最後の希望なのであった。
海の者とも山の者ともつかぬ噂に最後の野心を託す。まさに最後の戦国大名に相応しい愚かしくも恐ろしい宿業といえよう。
それでも俺ならば、俺ならばできる、と政宗は本気で信じていた。
「しかしお気をつけなさりませ。猪苗代にはあの男がおりますれば」
せっかく気持ちよく天下取りの夢に浸っていたところを、重長に冷水を浴びせかけられ不満そうに政宗は顔をしかめた。
岡定俊と政宗には浅からぬ因縁がある。それもできれば二度と思い出したくもない苦い苦い因縁であった。
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