第13話 松川の戦い
――慶長六年の四月二十六日、穏やかに晴れ渡った春の早朝のことである。
家康に百万石のお墨付きを与えられたとはいえ、そこはそれ、いつ反故にされるとも限らないのが戦国の世の習いというものである。叶うならば実力で旧領を回復せん、と政宗は一万五千の兵を率いて白石城を出陣、一路上杉領の福島城を目指した。
すでに先年の九月十五日、関ヶ原の戦いは徳川率いる東軍の圧倒的勝利に終わっている。敗北を悟った上杉景勝は家老の千坂民部を窓口に和睦交渉を進めており、両者の和睦が成立すれば政宗は上杉と戦う大義名分を失うことになる。
是が非にも和睦の前に勝利を確定させたい、と、この戦に懸ける政宗の意気込みは、並々ならぬものがあった。
実はこれまで何度も政宗は福島城を攻撃し、そのたびに老将本庄繁長の、戦の呼吸を知り尽くした老練な手腕に跳ね返されていた。
とりわけ獅子奮迅の活躍を見せたのが岡定俊である。もともと蒲生家の領地であり、親友蒲生真令(横山喜内)が梁川城主であったこともあって土地勘のあった定俊は、梁川城の後詰に向かう途上、福島城とのちょうど中間地点、現在の福島市瀬上のあたりで阿武隈川を渡河して、伊達軍の小荷駄隊を襲撃、その兵站線をわずか数百の兵力で寸断させた。
並みの将であれば、伊達の大軍に福島への退路を断たれ孤立したと恐怖するところである。それをわずか数百の手勢で、逆に伊達軍の退路を断とうとしたところが定俊の非凡たるゆえんであろう。
その後も兵力が少ないだけに機動力のある用兵で、定俊による兵站線への神出鬼没な攻撃は続き、もはや短期間で福島城を陥落させる見込みのないことを悟った伊達軍は、損害を出しつつやむなく撤兵したという経緯がある。
政宗の隻眼には今度こそ福島城を取る、仙道北部の旧領を奪還するのに、誰にも文句などつけさせぬ、という気概が漲っていた。
これに対し、なんと本庄繁長はおよそ半数以下の寡兵でありながら、籠城するどころか敢然と城を出て伊達軍を迎え撃つ。
福島城からおよそ一里ほどの信夫山のふもとを流れる松川――現在の福島市森合町付近と思われる――で両軍は激突した。
兵数では伊達軍が圧倒しているにもかかわらず、上杉軍の主将の本庄繁長を筆頭に、甘糟景継や栗生美濃守などが奮戦。両軍一歩も退かぬままに大混戦となる。
まだ通信機器や分隊戦術が発達していない戦国のこと、混戦のなかで戦場に少なからぬ空白が生じ、備えの一隊を突破した政宗の前に、一人の西洋甲冑を着た武者の背中が見えた。
猩猩緋に染め抜かれたど派手な陣羽織をまとっており、彼が一隊を指揮する名のある将であろうことは一目でわかった。
奥州では珍しい角螺子の兜に南蛮鎧を着る武将を政宗は寡聞にして知らない。だが信長もかくや、という艶やかな衣装に、派手好きの政宗は思わず目を見張った。
そして無防備な背中を見せる武者の姿に、政宗の血が沸騰したように沸きあがる。困ったことに政宗は激情に駆られると、最前線に立って刀を振り回すという悪癖を持ち合わせていた。
勇躍馬を躍らせ、斬りかかった政宗の斬撃は、咄嗟に身をひねった武者の背中の猩猩緋の陣羽織を深々と一文字に切り裂く。その武者こそ岡定俊その人であった。
湯浅常山が残した常山紀談ではこの場面をこう書き記している。
『岡左内猩猩緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り。支え戦いけるを政宗かけ寄せ。二刀切る岡左内ふり顧みて政宗の冑の真っ向より鞍の前輪をかけて切りつけ。返す太刀に冑のしころを半かけて砥はらう。政宗刀を打折てければ岡左内すかさず右の膝口に切りつけたり。政宗の馬飛退てければ岡左内政宗の物具以ての外見苦しかりし故。大将とは思いもよらず。続いて追詰ざりしが後に政宗なりと聞きて。今一太刀にて討取るべきにと大に悔みけるとなり。』
「うぬ、仕損じたか!」
軽い手ごたえから相手に躱されたことを知った政宗は歯噛みする。
「背中に目が届かぬとは我が身の不覚。すんでのところで命を拾ったは我が身の武運、貴様にとっては運の尽きと心得よ!」
背中から斬りかかられたことを、定俊は相手をいささかも卑怯とは思わなかった。むしろ油断していた己を恥じるばかりである。武士にとっていかなる理由があれども、後ろ傷は恥である。不名誉の印である。
ゆえに定俊は、相手よりも自分に激怒していた。必ずやこの恥をすすがなければならぬと信じた。
「なかなかよき馬よ。その心構えだけは褒めて遣わす」
「推参なり。貴様ごときに説教は受けぬ」
このとき、定俊は相手が政宗であることに全く気づいていない。だが武者の乗る馬が稀少な汗血馬であることはすぐにわかった。良馬に金を使うのは武士の嗜みである。これほどの馬を持つならば、敵として不足はないと定俊は相手を評価したのであった。
政宗もまた絶好の機会をみすみす逸した怒りのままに愛馬の太刀風を駆り、再び定俊へと刀をふりかぶる。
しかし政宗の熱い闘志は、たちまち死の恐怖という凍てつく冷気によって冷却を余儀なくされた。
政宗の持つ名刀貞宗が、定俊の一撃でいとも容易くへし折られてしまったのだ。その余力をかって定俊は政宗の兜のしころ(兜の左右から垂らして頸部を守るもの)をかすめ、さらに返す刀で政宗の右ひざを斬りつけたのである。まさに息もつかせぬ猛攻であった。
一時の狂躁から覚めて己の危険を自覚した政宗は、慌てて定俊に背中を向けて一目散に逃走を開始した。
このあたりの切り替えの早さ、逃げっぷりのよさが政宗の身上であった。
「この勝負、預けおくぞ!」
「おのれ! 負け惜しみを! その首置いて行け!」
もちろんこれを逃す定俊ではないが、どういうわけか見たこともない勢いで伊達の兵士たちが必死に定俊の行く手を阻む。かえって定俊が敵中に孤立して討ち死にの危機に陥るほどの怒涛の勢いであった。同僚の才道二がかけつけてきてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない。
名のある兜首ではあろうが、あのような地味な漆黒の鎧を身に着けている程度であれば、ここで命と引き換えにするほどの価値はあるまい、と定俊はこちらも馬首を翻して逃走した。
あとになってあの武将こそ伊達政宗その人であったと聞かされた定俊は、正しく慟哭して額を何度も壁に打ちつけるほど嘆き狂った。
武人の人生を昇華させる最高の死に場所となるはずだった。政宗を逃したことは、定俊にとって生涯の痛恨事であった。正しく唯一無二の輝ける死に場所を失った。政宗と知っていれば、身命を賭して相討ちに持ちこんでいたものを、と嘆いてももはや時は二度と戻らない。
「なぜ天はこの俺に死に場所を与えなんだか…………」
なお伊達治家記録によれば、この岡定俊との一騎討ちは偽りなり、と強硬に否定されているが、のちに政宗が定俊を三万石という破格の待遇で仕官させようと誘っていることを考えれば、やはり事実であったとみるべきではあるまいか。
危うく討ち死にするところであっただけでも腹立たしくあるのに、このときの政宗の不運はまだ始まったばかりであった。
兵数に勝る伊達軍は一刻ほどの戦闘で、じりじりと上杉軍を押しこんでいった。そしてついに上杉軍が福島城へ敗走を始めたと思ったのもつかの間、本庄繁長が松川の上流から送り込んだ伏兵と、梁川城から出撃してきた須田長義の軍勢が伊達軍の背後から襲いかかった。
「見よ! 伊達のものどもが背中を見せておるぞ! かかれ! かかれ!」
いつの世も挟み撃ちの効果は絶大である。政宗の旧領回復の夢が露と消えた瞬間であった。いまだ兵数に勝っていたはずの伊達軍は、挟み撃ちにされたと知るやあっさりと崩れ去った。
士気の崩壊した伊達軍は、這う這うの体で奥州街道を北目城へ向かって退却し、以後二度と上杉領を侵すことはなかった。
……あとほんの一歩だった。もう半刻迂回部隊の到着が遅ければ、おそらくは伊達軍の勝ちだった。決して勝てぬ戦ではなかっただけに、この敗北は政宗の胸に苦く不快な感情を刻印した。
その記憶の中心にいるのは、あの日政宗の冑に斬りつけ、名刀貞宗を叩き折った定俊の、煌びやかな角栄螺の甲と鳩胸鴟口が特徴の西洋具足なのであった。
不吉な形をした西洋具足の武者が、今も時折悪夢のなかに現れて恐怖とともに深夜に叫び声をあげて飛び起きることがあることを、政宗は屈辱とともに承知している。
その定俊がいる猪苗代に、大久保長安の財宝の手がかりを知るかもしれぬという宣教師がいるのである。不意に湧き上がる不安を政宗は頭を振って追い払った。仮にも天下を狙う男が、たかが陪臣の男一人に苦手意識を持つなど、絶対に認められることではなかった。
「猪苗代宗国を呼べ。まだ伝手のいくらかは残っておろう」
かつて猪苗代を治めた猪苗代盛国の息子であれば、まだ多少の影響力は期待できるはず。
政宗は再び危険な野心の火遊びに自身を投げ出そうとしていた。
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