銭の虫にも武士の魂

高見 梁川

第1話 守銭奴岡定俊

 慶長二十年六月十二日、猪苗代は夏至も間近な夏の昼下がりを迎えていた。

 青々と静かなさざ波を湛えた猪苗代の湖水を、磐梯山は遥かな天空から見下ろしている。その火口からおびただしい噴煙を今日も天空にたなびかせており、この山がいまだ生きて火を吐く日をじっと待ち続けていることを雄弁に告げていた。

 磐梯山の別名を岩梯(いわはし)山という。雄大な山である。その存在感はこの岩代においては別して重い。天まで届こうかという美しい富士山を思わせる頂は、長く岩代に住む民の畏敬を集めた。

 明治二十一年七月十五日のことになるが、明治以後最大の火山災害となる磐梯山噴火によって、磐梯山の中央部は山体崩壊を起こし、富士を思わせる優美な山頂の姿は今はもはや原型をとどめていない。

 しかし現代でもなお、磐梯山はこの地方の魂の原風景であり続けている。

 その磐梯山の南麓の端に、小高い広がりを見せた比較的大きな丘陵がある。その丘陵に築城された仙道(福島県中通り地方)の中央を守る要衝として名高い猪苗代城に、今ひとつの騒動が起きようとしていた。

 はたしてそれを予感したものか、蝉の声はますますかまびすしく、濃い緑の木々の隙間からは、土ぼこりとうだるような暑さの陽炎がゆらゆらと揺れ動いていた。 

 戦国後期に築城された猪苗代城は、丘の上に作られただけあってそれほど標高の高くない小さな城である。

 しかし石垣をふんだんに利用した巨大な内枡形虎口をもち、二重の深い横堀で囲まれて、猪苗代城の規模からすれば過剰ともいえるほどの堅固さを与えられていた。

 この小さな城が持つ戦略的な価値は、のちに徳川幕府の一国一城令が出された際において、貴重な例外として取り壊しを免れたことでも窺い知れるだろう。

 通称を亀ケ城とも呼ばれる猪苗代城は、仙道から会津へと続く磐越道の玄関口として、長く蘆名氏の庶流、猪苗代氏の本拠地として栄えた。

 ところが時代は変わり若き英雄伊達政宗の台頭に伴い、天正十七年に猪苗代氏の主家である蘆名氏が滅亡する。その際、時の猪苗代城主であった猪苗代盛国は、蘆名を裏切って以後は終生伊達政宗に仕えた。

 新たな支配者となったはずの政宗もまた、会津の統治もままならぬうちに天下統一を目前にした時の関白、羽柴秀吉によってあえなく旧蘆名の所領を没収されてしまう。

 以来並々ならぬ執念で、政宗は仙道と会津を再び我が物にせんと、虎視眈々とその機会を窺うことになる。そんな厄介なこの地を治めることになったのが、織田信長の娘婿であり、利休七哲の一人として茶人としても著名な名将、蒲生忠三郎氏郷であった。

 あまりに危険すぎる野心家政宗と、関東二百五十万石の大大名、徳川家康を監視するという大任は、綺羅星のような将師を従える秀吉もその人選に甚だ苦労をした。

 子飼いのなかでも有能で知られる福島正則や加藤清正では、忠誠心は信頼おけるとしてもまだまだ老練な徳川家康を相手にするには貫禄に欠け、また野心家の伊達政宗を相手にするには、血気にはやりいたずらに騒動を大きくしてしまう可能性があるように思われたのである。

 そうした意味で、蒲生氏郷は豊臣秀吉や徳川家康世代と、石田三成や福島正則らの若い次世代の中間に位置する稀有な武将であり、まさにうってつけの人物であった。

 あるいはこの名将蒲生氏郷が会津九十万石とともに健在であれば、関ヶ原の戦いは起きなかったのではないかとすら思われる。氏郷は特に細川忠興とは昵懇であり、前田利長や浅野長吉などとも親しく交際した。会津九十万石の実力と信長の娘婿という存在感は別格であり、福島正則や加藤清正の暴走を掣肘できたのは氏郷しかいなかったのではないか。

 この名君氏郷以来蒲生家三代に仕え、猪苗代という要衝を任された一人の男がいた。

 ――――岡越後守定俊。岡野左内とも岡左内とも伝えられ、上田秋成の名著『雨月物語』に守銭奴として登場する猪苗代城主で、これから始まる未曽有の騒動の中心となる男であった。


 十八歳にして氏郷に仕え、その才を見出されてからは数々の武功を挙げた岡定俊の偉名は、この奥州岩代においては絶大といってよい。

 特にみちのくの独眼竜、伊達政宗の心胆を寒からしめた福島松川の戦いでの功績は圧巻とすら言える。関ケ原戦後、政宗は上杉家を離れて牢人となった定俊に、三万石で伊達家に仕官しないかと打診したという。 これはあの片倉小十郎を上回る大名格の禄高である。いかに戦国の世であっても万石取りはそういるものではなかった。定俊の武勇と識見がそれほどに高く評価されていたという証左であろう。

 元和偃武を迎え、今や槍一筋に生きるしか術がなかった前田慶次郎や吉村宣充、あるいは笹の才蔵こと可児才蔵のような根っからの戦好きには、すっかり生きづらい世の中となっていた。

 しかし利殖や統治に才のあった定俊は、主君が早死にして騒動の絶えない蒲生家家中にあって、その人柄と経済力によって別格の重きをなしている。

 だがただひとつ、困ったことにどうにも言いわけのしようのない恥ずかしすぎる性癖を、定俊は持ち合わせていた。

 実はこの男、本当にどうしようもなく金が好きで、暇があると床に貯めこんだ小判を敷き詰め、全裸でそこを転げまわるのである。

 正しく変態の所業であった。

 守銭奴岡越後守定俊という風評は、まさにこの一事をもって文書に記され、遥か後世にまで知られることになる。



「兄上は? 兄上はおるか!」

 栗毛の見事な会津駒を操り、二本松街道を疾走してきた男が血相を変えて乱暴に猪苗代の城門を叩いた。

 武勇自慢で鳴らした古兵の門番が、男の形相を見るや恐縮してぺこぺこと頭を下げているのは、この男が生真面目を絵にかいたような融通の利かぬ面倒な男だと知っているからだ。

 慌てて大手門を開門すると、男は馬から降りることもなく、そのまま城の大手から二の丸へと見事な手綱さばきで馬を走らせていく。

 男の名を岡重政という。猪苗代城主岡定俊の実弟である。すでに五十路を前にした老将であるが、馬を駆る手はいまだいささかのよどみもない。

 兄とは似ても似つかぬ角ばった顔に糸のような細い目が特徴であり、口うるさい頑固な生真面目さを持った重政は、いまや蒲生家にあって要石ともいえる貴重な存在となっていた。

 この重政だが、蒲生家の仕置き家老を務める傍ら、なんと五奉行筆頭石田治部少輔三成の娘、小石を妻として娶っている。

 また、ともに融通の利かない官僚気質であることもあって、三成とは地位を越えて存外気のあう友であったという。大谷吉継や直江兼続、田中吉政くらいしか友人のいない三成が心を許したのだから、重政もまた一角の男であったということであろう。

 もっとも先に蒲生家で立身したのは兄定俊のほうであった。重政は兄を頼って遅れて蒲生家に仕官したにすぎない。しかし天下が太平となり、戦馬鹿などより優秀な官僚が必要な時代となると重政はめきめきと頭角を現し兄をも凌ぐ蒲生家仕置き家老へと栄達する。

 それでも重政は兄定俊を超えたとは夢にも思わなかった。乱世の将としてみれば重政は定俊の足元にも及ばない。少なくとも重政は固くそう信じていた。

 兄の岡定俊は戦上手で、伊達政宗を一騎打ちを演じあと一歩のところまで追いつめるなど武勇を天下に轟かせた武将である。同時に上杉景勝に仕えた際には、徳川家康と戦うために軍資金として私費から銭一万貫(約十億円相当)をぽん、と惜しげもなく献上したという稀代の利殖家でもあった。経済の本質を知悉しており領内の統治にもその力はいかんなく発揮され、民の信頼も厚い。

 しかしいかんせん傾奇者なところがあって、重政が注意していないと、何をやらかすかわからない怖さがある困った男なのである。

 一個の武辺としての矜持は強いが、さほど出世欲が強いというわけでもなく、むしろ銭のほうが地位よりよほど大事だと考えている。よくよく兄定俊は戦国の士(さむらい)としてはいささか特殊な性向の男なのであった。

(そうだ、兄上はもともと、お家など歯牙にもかけぬお人であったな)

 遠い日の、奇しくも同じ夏の盛りのことである。兄が若狭の実家を捨てて飛び出していったその日のことを、重政はふと馬の背に揺られながら懐かしく思い出していた。



 岡家はもともと越前守護朝倉家の重臣で、先祖代々若狭太郎庄の土豪の家系である。

 一族の歴史は古く、系図によれば畠山氏の庶流のまた庶流であるともいう。地方の土豪としてはそれなりに貴種の部類に入るであろう。

 しかしその長い栄華も、第六天魔王織田信長の侵攻ととともにたちどころに瓦解した。主家である朝倉義景に反逆してまでお家を保とうとした父盛俊は、結局新たな主君となった朝倉景鏡が富田長繁率いる土一揆にの軍勢を相手に敗死して領土を奪われた責任を問われ、先祖伝来の領地を没収された。

 野に下ってしばらくは再仕官の運動などもしていたが、今さら織田家に頭を下げて一兵卒からやり直す気概もなかったのか、三年と経たぬうちに盛俊は仕官を諦め隠棲してしまう。

 以来、岡家再興という言葉を呪文のように父に言い聞かせられてきた日々を、重政は昨日のことのように覚えている。

 自分は昼から酒を飲み、悪態をついて息子の尻は叩くが、自分では槍ひとつ稽古することもない父だった。

 そんなある日、すでに先年体躯では父を追いこした定俊は、朝もなかなか床から起きようとしない父をいきなり殴りつけた。困窮する暮らしに昨年の暮れ、母は病に斃れている。それでもいささかも奮起する兆しのない父に、定俊はほとほと愛想をつかしたのである。

「なんという情けないざまだ。貴様など今日から親でもなければ子でもない」

 息子に殴られたという衝撃に呆然としながらも、盛俊は恨めしそうに定俊を睨みつける。もはや 息子に勝てる見込みがないことはわかっていたらしく、軽々に殴り返すような真似はしなかった。

「父を殴るとはなんたる不幸者よ。先祖代々受け継いできた岡家の重荷を担ったこともない若僧が、さかしらにも親に逆らうか!」

「再興も没落も要するにただ己の才覚と運あるのみではないか! めそめそと後悔して他人に頼るのが男の生きざまと言えるか!」

 定俊はまだようやく四十路に足を踏み入れたばかりの先のある身でありながら、すべてを諦め息子に託そうとする父の性根がどうにも気に入らなかった。己の過ちは己のみがただすべきではないか。己の野心は己が果たすべきではないか。そうでなくてどうして己が生きているといえるのか。

 腑抜けた父などもはや二度と父とは思わぬ。縁を切る、そう父に言い捨てて定俊は支度もそこそこに単身若狭を飛び出した。その当時定俊まだ十五歳という若さであった。

 父は定俊がいなくなると、今度は次男の重政に岡家再興の夢を継がせようとするものの、越前朝倉家が滅亡した今、若狭を支配する織田家宿老丹羽長秀の反応は冷淡であった。父の伝手もこの数年の間にほとんど途切れた。腑抜けて隠棲した男に世間の風は冷たかった。若干十三歳の重政がそう簡単に仕官などできようはずもない。仮に仕官できたところで精々が足軽の末席程度であろう。

 結局わが身の不運を嘆くばかりで、重政に早く岡家を再興せよと尻を叩くだけだった父が、酒毒で亡くなったのは重政十八歳のときである。

 最後まで自らの不運を嘆いていながら、その不運に立ち向かうどころか消極的に酒毒による死を受け入れていた父であった。

 正しく天のめぐりあわせというべきか、兄定俊が蒲生家中において立身しているという風の噂が重政のもとに届いたのはそのころであった。

 一縷の希望にすがって兄のもとを訪ね、以来兄定俊とともに蒲生家で武功を重ねた重政は、いまや猪苗代一万石の所領を得た兄をも上回る、蒲生家仕置き家老三万石という大領を手にしている。

 ところが嫡男に恵まれた重政と違い、人もうらやむ万石取りの地位を手に入れながら、兄定俊には家を継がせるべき子がいなかった。そのことを定俊は気にもしないどころか、飄々と重政の息子である吉右衛門が継げばよいという。

 兄上はつくづく家というものに何等の価値も見出しておらぬのだな、と生真面目な重政は嘆息するのだった。

 重政にとっては、いや、ほとんどの武将にとって家とは自分が生きた証であり、子孫に伝えてこそ武功をあげた意味もあるものだと思うのだが、兄にはその当たり前が通じぬらしい。

 あるいは岡家再興、岡家再興、と、ことあるごとにお家復興を催促する父の身勝手な業が、兄定俊をして家というものを嫌悪させたのかもしれぬ。

 そんなことを考えながら重政が本丸の前で馬丁に愛馬を預け、東に延びた回廊を大股に歩いていると、庭園を世話している一人の老女が目に留まった。

「おお、おりく殿。兄上は――兄上はいずこにおいでか?」

 おりくと呼ばれた老女――といっても凛としてすっくりと伸びた背筋は三十代にすら思えるのだが――は瓜実顔の美貌をほころばせて「殿は弁天庵に」と謡うように言う。

 その華やいだ微笑みが四十路女とはとても思えぬ清新な乙女の色香に満ちていて、思わず重政が「う、うむ」とどもってしまうほど美しかった。

 本来ならば、おりくは重政のような重臣が、殿、などとつけて遜るような相手ではない。

 もとは甲賀忍びであり、定俊に命を救われて以来傍に仕えるようになったという、取り立てて身分のない女である。それでも重政がこの老女に気を使わなければならないのは、おりくが妻をめとらぬ定俊の唯一の愛人――実質的な恋女房であるせいであった。

(さすがは兄上の心をつかんで離さぬ女性よ……せめて子供でも産んでいてくれれば。いや、それも未練だな)

 繰り言ではあるとわかっていても、重政は彼女に会うといつもそう思ってしまうのである。そうなればあの兄もおりくを妻としてめとらざるを得なかったであろうし、重政も岡家の後継者について悩まずに済んだ。

 それにしても――

「弁天庵ということは、また……いつもの悪い癖か?」

「左様でございますなあ」

 いかにも苦々しい重政の口調とは裏腹に、おりくの口調は柔らかい。まるで出来の悪い子供のやんちゃに目を細める母親のような雰囲気がある。こうした母性にこそ兄は惹かれているのかもしれぬ、と重政は思った。

 いやいや、そんなことを考えている場合ではない。今日こうして訪れた理由を思い出し、重政はおりくに頭を下げて足早に兄のもとへ向かうことにした。

 何より人として好ましいと思ってはいるが、重政はどうにもおりくが苦手であった。

「忝い……しばらく誰も取り次がぬように頼む」

「どうぞご存分に」

 いかに楚々としてしとやかに見えても、おりくは歴とした忍びのものであった。実は彼女が内々に定俊を護衛していることを重政は知っている。

 もう一度深々とおりくに頭を下げると、重政は後ろを振り返ろうとはしなかった。



 猪苗代城本丸から東にある、曲り屋のようにくの字をした小さな家屋は、城主定俊が作らせた古田織部好みの草庵である。

 名を弁天庵という。

 障子を大きくしてふんだんに太陽光を取り入れるのが特徴で、室内は明るく、また壁に白い漆喰を塗っていて目の覚めるような壁の白さにこれが茶室か、と驚く人間も多い。正しく異形の茶室と呼ぶべきであろう。

 それはさておき、茶室としては至極まっとうに利用されているが、書院として使用される隣の六畳ほどの畳の間のほうはいかにも問題である。

 なぜならそこは――――


「ふっほっほっ!」

 純白のふんどしを締めただけの全裸に近い姿で、一人の老人が畳の上をごろごろとものすごい勢いで転がっていた。

「くかっ! くかかかっ!」

 鼻息も荒く背中を畳にこすりつけようと腰をくねらせる姿は明らかに異様である。

 老人の汗ばんだ背に張りついた何かが、腰をくねらせたはずみに畳に落ちて、キン、と澄んだ金属音を立てた。

 慶長小判である。よくみれば、六畳間に所せましと小判が並べられていて、その上を老人は嬉々として転がりまわっているのだった。

「ふひょひょ」

 正しく満面の笑みで老人は鼻を鳴らし、小判に頬ずりすると恍惚となってしばし仰向けになって目を閉じた。

 たとえようのない充実感に自然と口元は緩み、老人は至福の笑顔を浮かべて――再び小判の上を転がり始める。

「ほほほ! おほほほ!」

 我が世の春ここに極まれり。幸せを絵に描いたような光景であった。

 ――この奇矯な老人こそ重政が探していた猪苗代城主、岡定俊である。越後守を自称し、通称を左内という。

 広い額に優し気な小さな瞳、口ひげを整えて笑うとひどく愛嬌のあるクシャクシャした笑顔になるが、好々爺然とした空気の隙間に、刃物のような鋭さを感じさせる男であった。

 体躯はおよそ五尺四寸、先月四十八歳となったとは思えぬ鍛え抜かれた肉が身を鎧う、正しく武辺の肉体である。

 この男、岡定俊は月に一度は書院に閉じこもって、心ゆくまで小判の感触を裸で味わうのが何より楽しみという奇矯すぎる性癖の守銭奴であった。

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