第5話 戸木城の戦い2
戸木城の大手は深い横堀に囲まれた東側にあり、坂は幾重にも屈折していて、その都度横矢を浴びせかけられる難所となっている。
「かかれええええ!」
腹の底から響く大音声とともに、氏郷は猛然と真っ先に駆け出した。
負けじと矢玉を防ぐための竹束を担いだ足軽衆が後に続くが、脚力に物を言わせて駆けあがる氏郷に全く追いつけない。かろうじて喜内や定俊を含む幾人かが一歩遅れて追いすがった。
軽装の足軽と違い、銀の鯰尾の兜が目立つツバクロ具足に漆黒のマントの重量たるや、八貫を軽く超えているはずだ。
それでもなお部下の追随を許さないのだから、氏郷がいかに常軌を逸した体力の持ち主かわかるであろう。
「殿に後れを取るな!」
余計なことを考えず一心不乱に速度をあげることが、実は結果的に被害を減らすということを彼らは経験的に知っていた。どれほど注意を払ったところで矢に当たるときは当たるし、死ぬときは死ぬのである。
定俊は溢れて溢れて止まらぬ闘志に背中を押されるようにして、無我夢中で氏郷の背中を追った。
(なんたる殿の見事さよ!)
一個の武辺として比べるならば、定俊は自分もそう捨てたものではないと思っている。
手柄をあげて、いずれは一国一城の主たりうるという己自身への強い自負があった。その自負を根底から覆されてしまいそうな氏郷の武者ぶりであった。
(ここは一番、俺も武者働きせねば!)
氏郷の傍近くに槍を合わせる機会などそうそうあるものではない。今こそ氏郷の目に止まるような働きをして見せる。定俊はますます覚悟を固めた。
坂を登り切ると、そこには高麗門を囲むようにして内枡形虎口が設けられている。木造長政によって改修された際に、虎口を守るように角馬出しが配置されており、その強固な防御力はこれまで幾度となく蒲生勢を弾き返してきた。
虎口とは戦国の後期に普及した、門の前に四角い塁壁で囲まれた閉鎖空間を作る防御施設のことである。この空間に飛びこんだ兵士は前方と、左右から集中砲火を浴びることになる。場合によっては上方より二段構えで射撃されるため、非常に死傷率の高い死地として知られていた。
その虎口へと全く憶することなく氏郷は飛びこんでいく。
ふと定俊の視界に喜内が目くばせするのが映った。言葉ではなく瞳に宿る意志が、殿を死なせるな、と告げていた。
「火矢を放て!」
油を使った火矢は、殺傷力こそ低いが敵方には処理が厄介な攻撃である。突入する氏郷への援護としては絶妙な呼吸であった。守役として長年氏郷の傍にいる十郎兵衛の面目躍如というところであろう。
鉄砲と矢、敵味方の射撃が入り乱れる中を、定俊は身の丈ほどもある防弾用の竹束の盾を構えて氏郷の前に踊り出た。
「おお、源八郎、大儀!」
「ははっ!」
氏郷に名を呼ばれた、それだけのことが何故かたまらなくうれしかった。
竹束に当たった鉄砲の弾がぱらぱらと乾いた音を立てる。竹が焦げる嫌な臭いが定俊の鼻をついた。正面からの射撃は防げたようだが、左右からの射撃を躱せるかは本当に運任せだ。
「押せやあああああああああああ!」
氏郷は吼えた。
ここで一気に虎口を突破できなければ、狭い戦闘正面に軍勢が拘束され、後続が遊兵となってしまう。氏郷があえて危険な指揮官先頭を選択したのは、勢いによって短時間に虎口を攻略してしまうためだ。
降り注ぐ矢弾に数をすり減らしながらも、氏郷の督戦に奮い立った蒲生兵は大きな竹束で互いの背中を守り、槍を、鉄砲を手に果敢に突進する。
「忠兵衛!」
「はっ!」
氏郷は隣に控えていた中間の若者から火縄銃を受け取ると、木造方の鉄砲狭間に向かって轟然と撃ち放った。
信長が雑賀衆から鉄砲の射撃技術を習ったように、氏郷もまた根来の鉄砲衆に教えを請い、たしなみのレベルをはるかに超えて射撃術に熟達していた。
一尺半ほどの鉄砲狭間の小さな隙間を過たず射貫いた弾丸は、膝をついて鉄砲を構えていた足軽の眉間を、まるで柘榴のように叩き割った。驚くべき命中精度であった。
狭間の向こうの足軽たちが予想外の事態に動揺したのか、ほんの一瞬銃火が止まる。
――虎口の先に続く二の曲輪から、白煙が上がったのは正しくその時であった。
敵も味方も、咄嗟に裏切りの文字が頭をよぎる。
「裏切りじゃ! 二の曲輪で裏切りが出たぞ!」
「流言じゃ! 惑わされるな!」
「押せ! 押せ! 手柄を立てるは今ぞ!」
一度抱いてしまった疑いは、いくら叫んでも隠しようがない。白煙という証拠を目撃した今となってはなおさらだ。
意気上がる蒲生勢の怒涛の攻撃に、これまで頑強な抵抗を続けていた木造衆は、ついに虎口の突破を許したのである。
役に立たなくなった竹束を投げ出した定俊は乱戦のなか数人の雑兵を斬りつけ、蹴り倒し、踏みつけて前へと突き進んだ。
今さら雑兵の首になど未練はない。兜首をあげて功名を成し遂げることしか定俊の頭にはなかった。
二の曲輪の北側に立てられた粗末な兵舎へ、定俊が一番乗りを果たしたのは、そうしたなりふり構わぬ行動の結果であったといえる。
「――――おのれ! 奸物め!」
唐突に、平屋建ての兵舎の一室から怒声が轟いた。
肉を切裂く鈍い音ともに、何かがばたりと倒れる音がする。声のした部屋の戸を力任せに引き、定俊はその声の主へと襲いかかった。
「岡源八郎定俊、推参! 名を名乗られい!」
一目でわかる足軽の当世具足とは一線を画す、漆塗りの朱い面頬に烏帽子形の兜、まさか木造具政ということはないだろうが、かなり高禄の重臣であるに違いない。
「下郎、この畑作兵衛重政の手にかかるを誉といたせ!」
「おおっ! 畑殿ならば願ってもない!」
畑作兵衛重政といえば、二千貫を領する木造家の家老の一人である。
おそらくはこの戸木城の武将のなかでも五指に入る高名な男であった。かつては北畠氏に仕え、滝川将監一益をして良将と言わしめた人物である。もしこの男を失えば、戸木城の継戦能力は著しく低下するはずであった。
「おう!」
「やあっ!」
刀と刀が交錯する。室内での戦闘では槍はその特性を発揮できない。というより太刀ですら存分に振り回すには不足である。ゆえに、畑作兵衛は兵舎から外へ出ようとし、定俊は室内から出すまいと動いた。経験で劣る定俊としては、畑作兵衛に十全に力を発揮できぬよう立ち回るのは当然の戦略である。
がっき、と刃が噛み合い、二人は満身の力を込めて鍔元を押しあう。膂力では定俊が上、技巧では畑作兵衛が上だった。
あるいは天性の武才は定俊のほうが上であったかもしれない。しかし一対一の戦闘は才能以上に駆け引きの経験がものをいう。
刀で斬るだけが戦闘ではない。蹴り、関節を極め、目つぶし金的なんでもありの、剥き出しの生命の奪いあいこそが白兵の本領である。
鍔迫り合いから畑作兵衛はまるで力負けしたかのように、がっくりと腰を折った。ここぞとばかりに定俊はなおも力を込めてそのまま押し倒さんと図るが、実はこれが罠であった。
絶妙な脱力によって定俊の態勢を崩した畑作兵衛は、前のめりに力をこめる定俊をくるり、と転がした。
一瞬何が起こったかわからぬままに定俊は天井を見ていた。そこに振り下ろされる白刃を定俊はほとんど本能で転がって避ける。かろうじて刀こそ避けたものの、背中を蹴られて、ぐっとむせるように息が詰まった。
ざくり、ざくり、と刃が床に突き立ち、転がりながらこれを避けた定俊は、このまま反撃の機会もなく討ち取られてしまうのか、と焦った。起き上がる暇すらない。畑作兵衛は一度手にした優位を手放すほど愚かではなく、むしろそうした油断からもっとも遠い熟練の狩人であった。
敵わぬならばせめて相討ちに、と定俊は覚悟を固め愛刀の柄を握る力を強める。それほどに畑作兵衛には隙がなかった。足を払う暇すら与えられず、定俊は醜く体を丸めて逃げ続けた。
――――と、何かに躓いたように畑作兵衛の体が揺れる。倒れるのを拒むかのように右足に力をこめてぐっ、と踏みとどまるが、それを見逃す定俊ではない。
今このときこそが唯一の勝機である、と定俊は残された力のすべてを振り絞って思いきり畑作兵衛の右足を蹴りつけた。
「ぬおぅ」
軸足をしたたか蹴りつけられた畑作兵衛はたまらず苦しそうに呻くと、どう、と顔から前に倒れこんだ。
間髪入れず、定俊はむき出しの畑作兵衛の首筋に、身体ごとのしかかるようにして刀を突き入れる。びくり、と畑作兵衛の身体が震え、喉の奥から血泡がごぽり、と吐き出されると全身の力が抜け血だまりがゆっくりと冷たい床板に広がっていった。
完全に畑作兵衛の呼吸が止まったのを確認して、定俊は脱力して尻もちをつくとぜいぜい、と荒々しく肩で息を吐いた。
十中九まで負けたと思った。あの瞬間、なぜか畑作兵衛が何かに躓いたように態勢を崩さなければ本当に負けていただろう。
いったいあのとき畑作兵衛は何に躓いたというのか。
重い腰を上げ立ち上がった定俊は瞠目して声を失った。戸を開けて飛びこんだ瞬間、畑作兵衛が何者かを斬っていたのはわかっていた。それがおそらくは女らしいことも。
よくよく見れば肩口から乳房の下まで斬り下げられた虫の息の女の指に、畑作兵衛の臑当の紐が絡まっている。
畑作兵衛は躓いたのではなく、女に足の臑当を掴まれたのだ。それも紐を引きちぎるほど強い力で。だからこそ畑作兵衛ほどの剛の者が、危うく倒れるほど体を崩さなくてはならなかった。
――女に助けられた。その事実は定俊の心を打ちのめしはしたが、今の定俊の心を占める思いは、それとは全く違うものであった。
おそらくは定俊より二つ三つほど若いだろう。まだどこか幼ささえ感じさせる女は、定俊が息をのむほど美しかった。
「なんたる美しさよ」
品の良いうりざね顔に長い睫毛、すっと整った鼻梁と小さく熟れたように赤い唇がなんともいえず艶めかしかった。朱に染まった萌黄色の小袖から、見え隠れする透けるような肌までが色香に匂いたつようである。
頭のてっぺんから足の指先まで定俊の全身が痺れた。定俊が生まれて初めて感じる恋の痺れであった。同時に、女の命が旦夕に迫っているのをようやく自覚して、定俊は惑乱した。
正しく惑乱というべきである。今はまさに戸木城が落ちるかどうかの瀬戸際なのだ。その事実と女の命など比べるべくもない。女など捨て置いてただちに戦場へと戻るべきであった。
下手をすれば戦場放棄の軍令違反に問われ、首を刎ねられることすら覚悟しなければならないことだ。
それでも――――定俊は迷うことなく戦いを捨て、女を助けることを選んだ。
幸い、うまく斬られる瞬間身を引いたのか、出血が激しいだけで内臓までの損傷はない。だからこそ女もぎりぎりまで意識を保ち畑作兵衛に一矢報いることができたのだろう。
(死なせてなるものか!)
腰に巻きつけた竹筒から蒸留酒を注ぎ、傷口を洗って定俊は手際よく止血を施していく。間垣屋から門出にもらった化膿止めの薬も惜しみなく使った。
幸いにして手当が早く、その場で女が命を失うことはなかったが、失血が多いためか女は幾日経っても目を覚ますことはなかった。
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