第6話 おりく

 定俊にとって幸いであったのは、女が蒲生家と内通を図る木造方との渡り――すなわち甲賀忍びのくのいちであったことだろう。

 あのとき、二の曲輪で火の手があがったのは、女が監視の目をかいくぐって内応を促したためであった。それがわかったからこそ畑作兵衛は女の処断をせずにはおれなかったのだ。

 畑作兵衛の首は勲功第一と認められ、定俊は二十貫から一挙に百五十貫を賜ることとなった。百五十貫といえば、これはもう歴とした上士である。

 さらに定俊は二の曲輪と畑作兵衛を失ったことで、戸木城側が急速に抗戦から和睦に向けて舵を切ったことを後に知った。

 ――――そう、全ては事後に知らされたことであり、定俊はあれ以来、女の看病から片時も離れずにいたのである。

 女の名がおりく、ということは甲賀の頭領である佐治義忠から聞いた。年齢の割に腕の良いくのいちであるが、姪ということもあり安否を心配していたのだという。

 おりくが渡りをつけた木造方の阿部某という男は、火つけには成功するも乱戦のなかで討ち死にしたようだった。

 発熱したおりくの汗を拭き、傷口を洗って真新しい包帯に交換する。そして口移しに水や果実を飲ませるという作業を定俊は黙々と続けた。

 おりくの意識が回復したのは三日目の朝である。体力の峠は越したとみえて、肌に血色が戻っていた。

「もし…………」

「ん? おお! 気づいたか!」

 まどろみに身を任せて舟をこいでいた定俊は、おりくの声に瞳を輝かせて覚醒した。

「食い物は入るか? 食べられるなら粥などしんぜよう」

「恐れながらお伺いしたき儀が……」

 まさにそのとき、定俊に尋ねようとしたおりくの腹が、ぐう、と大きな音を立てた。真っ赤になって言葉の出ないおりくに、定俊は莞爾と微笑んで言った。

「粥を食べながらでも、いくらでも問いには答えようとも」

「……かたじけないことにございます」

 逸る気をくじかれたようで、おりくは大人しく定俊が粥を運んでくるのを待った。その様子がいかにも年相応に可愛らしく美しかった。

 梅干しと塩で味を調えた粥を定俊が運んできたのは、それから四半刻ほど過ぎた後のことであった。

 激痛で起き上がれなかったおりくに、定俊は手づから粥を食べさせた。ますますおりくの顔色が赤くなったような気もするが、ここ数日口移しに水を含ませていた定俊にとっては、当たり前で手慣れたものであった。

 その後ようやく顔色の落ち着いたおりくは、意を決したように口を開いた。

「……それでは定俊様があの畑作兵衛を討ち果たされた、と?」

「おりく殿の手助けあってのことではあるがな」

 おりくは自分の決死の行動が、二の曲輪陥落に繋がったことをひどく喜んだ。そして定俊の勝利に繋がったことも。もともと畑作兵衛は、おりくの前任の渡り――おりくにとっては従姉にあたる――を斬った憎き仇敵であるらしかった。

「この命をお救いいただいたこと、畑作兵衛をも討ち取っていただいたこと、いくら感謝してもしきれるものではございません。どうか以後我が命、定俊様のために使うことお許しいただきたく」

「さよう気張らずともよいのだが……」

「いえ、頭領の許しを得次第、是が非にもお願いいたしたく」

 忍びの道は闇の道、捨てられてこそ闇に咲く花。その捨てた命を救われたからには生涯を捧げて尽くさなければならぬ。おりくはそう頑なに信じた。

 そのおりくの誇りとこだわりの並外れた頑なさに定俊が気づくのは、それから随分経ってのことである。


 床から起き上がれるようになったおりくは、すぐさま頭領である佐治義忠に願い出て、定俊に無期限で仕えることの許しをえた。

 これは基本的に不特定の客から雇われる傭兵稼業である忍びには、きわめて稀なことだ。

 幕府の影に携わる伊賀にせよ甲賀にせよ、風魔などの数少ない例外を除けば、この時代では様々な大名家に雇われ、しばしば同族同士でしのぎを削ることもあった。ましてたかが百五十貫取の陪臣が個人的に忍びを家臣として仕えさせるというのは、頭領である佐治義忠でもこれまで聞いたことがなかった。

 その横紙破りを押し通すことができたのは、おりくの苛烈なまでに強い意志と、佐治義忠にとっては現在最重要の雇い主である、蒲生氏郷の強力な後押しがあったからこそである。

 奇妙な形で定俊の家臣となったおりくであるが、当初定俊はそれを喜んだ。

 憎からず思っている美貌の家臣、しかも腕利きの忍びで、甲賀二十一家の佐治家の血筋も濃く存外に顔が広い。特に間垣屋と商売の伝手で結ばれている定俊にとっては、得難い人材であるといえた。

 ところが、定俊が本当に望んでいた男女の仲は、というと、これがなかなかに難儀なものであった。

 二人がようやく褥を共にしたのは、おりくが本復した三月ほど後のことであった。雪のように白い肌には、赤みがかった一筋の刃痕(きずあと)が残ったが、定俊にはそれすら愛しかった。唇を寄せて丁寧に舌を這わせると、珍しくおりくが恥じらって顔を隠そうとするのがまた定俊の劣情を掻きたてた。くのいちには稀なことに、おりくは処女であった。

 おぬしに惚れている、といえば私もお慕いしております、とおりくは答える。蒲生家も日野郷から伊勢松坂へ所領を倍増され、定俊も倍とはいわぬまでも二百貫へと加増された。

 正しく順風満帆、若い定俊には初めてともいえる女との甘い時間を過ごし、我が世の春とも思える愛しき日々であった。

 ――――ところが、である。


「――――なぜだ? なぜ嫁になれぬだなどと?」

 蒲生家の上士として、氏郷の覚えもめでたく出世街道にのって、そろそろ身を固めようとした矢先、おりくの返事は正しく定俊の意表を衝くものであった。

「私は忍びである自分を捨てられませぬ。忍びがお武家の奥方を務めることなど、あってはならぬことでございます」

 忍びは裏の世界に生きる者である。たとえ表向きには取り繕ったとしても、裏の世界との接触は決してなくなることはない。そうした人間がいずれは城持ちに成り上がるかもしれない定俊の妻になど、おりくには到底認められることではなかった。

「正室がいやならば側室でもよいが」

「定俊様を心からお慕いしておりますし、命令ならばいかようにも応えましょう。ですが妻となるのは別していけませぬ。それは忍びの生き方ではございませぬ」

 頑なすぎるおりくの強情ぶりに、さすがの定俊も往生した。定俊にとって、おりくはただ一人の女である。ほかの女など考える余地すらなかった。

 あの日の戸木城で、死にかけた天女のようなおりくを見た時の恋に落ちた衝撃は、露ほども失われることなく今なお定俊の心を焦がし続けていた。

 二人とも決して不器用な人間ではなかった。むしろ多才で臨機応変な部類の人間である。ただ譲れない一線に関しては、強情で聞く耳を持たぬ類の人間でもあった。

 とはいえ、まだ定俊はいずれ時間が解決するであろうと考えていた。立場がどうであろうと二人が愛し合っているのもまた確かなことであったからだ。あるいは子供が産まれてしまえば、という期待もあった。

 二人はそのまま変わることなく、恋人であり主従であるという生活を続けた。

 その後主君氏郷が亡くなり、後を継いだ若干十二歳の忠行には家内を統制できず、宇都宮十二万石に減封された時のことである。

 ほぼ七分の一にまで所領を減らされたことで多くの家臣たちが蒲生家を離れた。定俊もまたその一人であった。長年の僚友であった横山喜内改め蒲生真令もまた蒲生家を退転し石田三成のもとへ仕官した。

 身軽な浪人となった定俊には様々な選択肢があった。財貨には不自由はないのだから、悠々自適の隠居生活を送っても良い。それこそキリシタンとして信仰三昧に生きることもできた。

 しかしふとおりくが漏らした一言で、定俊は卒然としておりくが妻になることはないと悟るに至る。

「定俊様に武士(もののふ)たるを捨てること能(あた)いましょうや?」

「なるほど、それは俺には無理な話だ」

 何かがストンと胸に落ちた気がして定俊は笑った。

 誰よりおりくを愛しているという自信はある。銭を貯めるのも今や他に代えようもない生き甲斐のひとつであり、毛頭止める気などない。廻船商人となって国外へ乗り出すこともできないことではなかった。

 それでも武士である自分を捨てようとは夢にも思わなかった。武の者であるということは、父親を切り捨てても切り捨てられなかった定俊の業そのものであり、男として決して譲れぬ生き方の原点であったのだ。

 死ぬその瞬間まで、岡源八郎定俊は武士であるべきである。おりくにとっては、忍びであることがそうなのだろう。自分が武士以外にはなれぬように、おりくもまた忍び以外にはなれない。

「ならばよい。俺が愛するのはお前だけだ。そこはなんとしても曲げぬぞ?」

「――――困ったお人です。ですが、心からお慕い申しております」


 以来、定俊は宣言通りおりく以外の女を愛することはなかった。

 おりくもまた、忍びであることは捨てぬままに定俊にとって唯一の恋人であり続けた。もちろん定俊に正室を娶らせようなどと野暮な真似もしない。

 亡き主君である氏郷も側室を置かぬ一途な男であっただけに、定俊も奇矯な男として蒲生家中に受け入れられた部分もあろう。

 人には捨てられぬ生き方がある。互いにそれを尊重しあう理想の恋人たちに不満などあろうはずもなかった。

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