第33話 前哨戦

 八郎の予感は完全に正しかった。

 角兵衛は組頭大善をはじめとする手練れに追い回されていた。

「どうした、鵜飼藤助ともあろうものが逃げまわるだけか?」

「生憎と今の俺は甲賀の角兵衛と申すのでな」

 そんな会話を交わしながらも、角兵衛は抜かりなく空耳の術を駆使して伊賀組の精鋭たちを幻惑している。腹話術の応用で、声の距離感を錯覚させる術である、こうした細かい芸の引き出しが、忍び同士の戦いでは馬鹿にならない。そうした虚実の駆け引きこそ忍びの戦いの真骨頂であるからだ。

「よいのか? こんな老いぼれに三人も回してしまって?」

「鵜飼藤助を追うのに三人は少ないくらいだと思うがな」

 もっとも方丈斎ならば余人を交えず一人で戦いたいというだろうが。生憎と大善は敵を倒すことのみにこだわる性質であった。

「――――やれやれ、老いたのは俺だけではないということか。この俺に三人が必要なら、八郎には五人が必要になるぞ」

「なんだと?」

 ざわり、と大善の背筋に冷たいものが走った。

 もちろんこちらを迷わすための嘘である可能性は高い。普通に考えれば嘘と考えるべきなのだろう。しかし大善の第六感は角兵衛の言葉が真実であると告げていた。

「だからといって貴様を追わぬ理由にはならぬ」

 と、即座に大善は村雨を切り捨てる。今さら助けにいったところで間に合わない。二兎追う者は一兎をも得ずという。何より鵜飼藤助を相手に戦力を減らすということを認められるあずがなかった。

「やれやれ、こんなことなら様子を来るんじゃなかったわい」

 こぼすように言いながらも角兵衛の顔は充実感に満ちていた。久しく忘れていた感覚を、今こそ角兵衛は満喫していたからだ。追い詰められている、下手をすると死ぬかもしれないという緊張感が、若いころの高揚感を取り戻していくかのようであった。

「…………に、してもまさかお主自ら参るとは思わなかったぞ。火渡り大善」

「方丈斎には俺から詫びておいてやる。獲物を横取りしてしまってすまなかった、とな!」

 角兵衛の逃げる方向に、炎の柱が出現した。火薬術に関して大善の右に出るものは伊賀組にはいない。鉄砲の大量投入という数の暴力がなければ、大善の火薬術は優に一千の兵力に匹敵するのである。

「見事よの。これも戦国の徒花というものか」

 しかしその火薬術も第六天魔王織田信長には勝てなかった。威力よりも射程と数で圧倒するのが信長の思想であり、それは槍の長さや行軍と補給の速さにも表れていた。第二次天正伊賀の乱において、大善は織田勢を待ち伏せているつもりが別動隊に退路を断たれ、その実力を見せる間もなく敗走した。

 これほどの見事な術も、たった一人では戦略で圧倒されてしまう。忍びが影の世界の戦人でありながらついに陽のもとへ出ることを許されなかった所以である。彼らには万を超す兵を鼓舞するような華々しい武辺を示すことはできない。徹底した小集団での陰からの奇襲だけに特化されている。見事だと思うからこそその事実が角兵衛には哀しかった。

「――――何?」

 大善の目に、角兵衛が火柱に身を躍らせるのが映った。自殺か? いや、そんなことはありえない。たとえ相手を道連れに自爆することはあっても、忍びが自殺することなどあることではない。

「比翼の術か?」

 比翼の術、それは、比(つばさ)と翼、似たものを重ねる術を言う。すなわち、火柱へと飛びこんだのは角兵衛の偽物である。だとすればどこかに本物がいる。

「どこだ?」

 がさり、と叢に蠢く気配があって、思わず大善を除く左門と小次郎の二人が叢めがけて反射的に苦無を放った。

 獲物が刺さる軽い手ごたえがあって、左門と小次郎は顔をしかめた。

「いかん、囮か」

 叢のなかの正体は野ウサギであった。第六感が二人に生命の危機を告げる。咄嗟に飛んだ左門と、身を屈めた小次郎に角兵衛の印字が襲いかかった。しかももっとも気がつきにくい真上からである。一瞬の判断の差が二人の明暗をわけた。小次郎は頭蓋を割られてぱったりと前のめりに声もなく倒れ伏した。

「そうか! 自らあの火柱に飛びこんだか、鵜飼藤助!」

 偽物と思わせておいて本物。あえて火柱のなかに飛びこんで支柱に活を求めたのである。それに気づかなかったこちらが間抜けであった。

「おちち……無茶は老体には堪えるわい」

 もちろん角兵衛も無事には済まなかった。急所は防火布で守ったとはいえ、あちこちに火傷の跡がある。それは決して浅いものではない。

 肉を斬らして骨を断つ。死んだふりや逃げたふりなど当たり前、それが忍び同士の戦いである。まして相手があの鵜飼藤助だというのに、まともに比翼の術を使ったと信じた迂闊さを大善は呪った。

 だが――――

「年貢の納めどきだぞ、鵜飼藤助!」

 藤助の負傷は絶好の機会であった。いかに鍛錬を怠らずとも、加齢に伴う体力の衰えは隠せない。それは大善たちにも言えることだが、まだ藤助よりは一回り以上も若かった。長期戦は大善たちに有利、相手が負傷しているのならなおのこと。

 むしろ今こそが千載一遇の機会!

(これはいかん)

 角兵衛も内心で苦笑している。大善の追跡が巧妙すぎて、八郎から随分距離を離されてしまった。先刻自分が感じた、生きて帰れぬかもしれぬという予感はどうも正しかったらしい。だからといって諦めるという選択肢は忍びにはない。最後まで諦めない執念深さこそが忍びの真骨頂であるからだ。

 残り少なくなった印字で逆転の機会を窺いながら、角兵衛はなんとか八郎と合流しようと足掻いた。

「どうした鵜飼藤助! 足元がふらついておるぞ!」

「そっちこそ俺のような老人にまだ追いつけぬではないか。鍛錬が足りぬのではないか?」

 減らず口を叩いてはいるものの、そろそろ逃げ続けるのも限界に達しようとしている。大善と分かれた左門が迂回して退路を断とうとしているのだが、それを防ぐだけの力がもはや角兵衛には残されていなかった。

 そもそも伊賀組の組頭とそれに匹敵する精鋭を相手に、ここまで逃げおおせてしかも一人を倒しているだけでも空恐ろしいことなのである。さすがは伝説の忍び鵜飼藤助の面目躍如というところであった。

「ここまでだ!」

 ――角兵衛の足がついに止まった。

 左門が退路を断つことに成功したのである。前後を挟まれて一気に距離が詰まる。左右に逃げようにも足が疲労で痙攣し始めていた。下手に逃げるほうが危険が大きいと角兵衛は判断したのであった。

「油断するな。呼吸を合わせろ」

「承知」

 大善と左門はなお油断なく角兵衛を前後から同時に挟み撃ちにするべく呼吸を合わせる。伝説の忍び相手には一瞬の隙さえ命とりになることを知っているからだ。伝説の忍びといえど後ろに目があるわけではない。当然人としての限界があり、集中力と体力も人の領域を超えることはないのである。徹底した現実主義者である大善はそれをよく承知していた。

(……さて、相討ちに持ちこむ、という手もあるが……)

 この二人を相手に逃げきるのはさすがの角兵衛でも厳しい。最悪相討ちに持ちこむだけの切り札が角兵衛にはある。しかしそれはまだこのときではない。なぜかそんな気がした。

「もらった!」

「ぬうっ!」

 両面同時攻撃を完全に避け続けることはやはり無理があった。致命的ではないが、苦無のいくつかが角兵衛の皮膚をかすめ、右足の踏ん張りがきかなくなって角兵衛の体勢が崩れた。あえて角兵衛は地面に転がりこんで避ける。しかし一度転がった角兵衛に起き上がることを許す大善ではなかった。詰将棋のようにもはや角兵衛は逃げられぬ詰み筋に入った。大善はそれを確信した。

「かっかっかっ! 危うく間に合わぬかと思ったぞ!」

「んなっ? 岡定俊!」

 暗闇から西洋甲冑に身を包んだ定俊があらわれたのはそのときであった。

 刹那、大善は逡巡する。定俊はもともと大善が殺さなくてはならない標的だ。その標的が軍勢も連れず、この夜の山までのこのことやってきた。こんな機会が二度とあるとは思えない。かといって鵜飼藤助を逃がすわけにもいかなかった。仲間を一人犠牲にしてまで追い詰めたのだ。最初からやり直しでは小次郎は犬死である。

 やはり藤助に止めを刺すべきか。そんな大善の思惑は、ほんの一瞬で打ち崩された。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 咆哮、鬨の声、戦場に必ず鳴り響く勇者の雷鳴。定俊が吼えた瞬間、鬱蒼とした闇の山中は馬蹄轟く戦場と化した。

 抜刀した定俊ががちゃがちゃと鎧の金属音を響かせて突進してくる。それ自体は大した問題ではない。確かに早いが、忍びのそれに比べれば歩いているに等しいものだ。

 だが隙がない。鎧というものは、その使い方に熟練している者が着れば、それだけで城塞のような堅牢さを発揮する。忍びの使う苦無程度では容易く弾かれ、忍び刀どころか弓鉄砲すら距離によっては通じない。

 何より定俊が全く背中からの攻撃に注意していないことに気づいた大善は、潮時だと直感した。おそらくは大善ほどの男ですら気づくことのできない隠形の達人が、定俊の背中を守っているに違いなかった。

「――――退け、左門」

「は?」

 大善と違い、左門はまだ潮時であるという危機感は感じていなかったらしい。大魚、鵜飼藤助という獲物を逃すことに大善ほど恬淡になれなかった。その一瞬の迷いが左門の運命を決めた。

「痛っ!」

 角兵衛の印字が強か左門の脛を打ち、激痛に膝から崩れ落ちる左門に、太刀を大上段に振りかぶった定俊が襲いかかった。

「この借り、必ず返す」

 もはや後ろを振り返ろうともせず闇に消えていく大善の背後で、左門の魂消るような絶叫があがった。

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