第32話 死戦
「来ると思いますか?」
「別に来なくとも構わん。最初からここで決着をつけるつもりもないしな。だが――」
大善は角兵衛たちが設置した警戒用の笛を、くるくると手のひらで弄んで引き攣れるように嗤った。
「せめて最後の敵には、それなりの度量を期待したいものだな」
「要するに来るんですね」
「さて、な」
太郎兵衛に見透かされて、大善は鼻を鳴らした。
来るか来ないかは正直五分五分ではないか、と大善は思っている。もし大善であればいかないだろう。しかしあの鵜飼藤助がいるならば、顔見せくらいはあってしかるべきだ。うまくすれば方丈斎ではなく、自分が鵜飼藤助と戦うことも可能かもしれない。
猪苗代へと到着したのは伊賀組のなかでも大善が率いる衆が一番早かった。笛を鳴らした挑発は大善の独断である。若い日に忍びとして戦いに身を投じて以来、一度としてやったことのない初めての稚気であった。
任務ではなく誇りだけのために戦う。これほどの贅沢を許された伊賀者がかつてあったろうか。
あるいは天正伊賀の乱もそうした誇りゆえの戦いであったかもしれないが、あれは生存闘争でもあった。
生きるか死ぬか、そればかりに追われて、あの当時は今ほど戦いを楽しむ余裕などなかった。戦いを楽しむ? そんな境地にいたったのははたして何十年ぶりのことか。
「――――組頭」
「うむ」
大善はうれしそうに頷く。聞き間違えようのないそれは、自分たちが挑発のために鳴らした甲賀の笛の音であった。
どうやらあえて挑発に乗ってくれたらしい。やはり彼らは自分たちが最後に戦うに値する敵であったのだ。
「悪く思うなよ、方丈斎」
ゆえあればいつでも味方を裏切る。それが忍びというものであり、戦う理由があるのなら迷わず戦うことを選択するのが忍びの本能であった。
月明かりがあるとはいえ、深夜の山中はほとんど視界の利かない闇だけが広がっている。獣ですら行動を躊躇するような暗黒の空間を、飛ぶように走る二人の男がいた。
角兵衛と八郎の二人である。あの人里離れた竜王山の夜を過ごした二人にとって、この程度の暗闇は珍しいものではない。そもそも忍びは夜を友とする夜行性の種族であって、子供のころから夜目を鍛えるのは当然のしきたりであった。甲賀には夜猫丸という目を鍛えるための漢方薬すら処方されていた。
忍びが暗闇で身動きがとれなくなるようでは、それはもはや忍びではない。
「読めるか? 八郎」
「四人、ってとこかな?」
「うむ、おそらくは先発隊であろうが、伊賀組もよほど人を選んだものらしい」
人の数が増えたところで、伊賀組の被害が増すばかりである。ただ勝つだけでよければ被害は考慮する必要はないが、この太平の世で大損害を出せば隠し通すことができない。それにしても四人だけで挑発してくるとはよほどの自信があるとみえた。
「御爺!」
「わかっておる!」
風上から漂ってくる草の香りに、二人は同時に左右に飛んだ。伊賀忍びが得意とする痺れ薬の香りであった。
風上をとられたのはまずかったやもしれぬ、と角兵衛は内心で舌を打つ。山岳での不正規戦闘に特化した忍びは、火術や毒にも精通している。特に秘伝の痺れ薬は伊賀忍びの十八番であった。
二人がそう反応することを待っていたかのように、三人が角兵衛に向かい、一人が八郎の抑えに回った。
咄嗟に罠にはまったことを悟った八郎は、得意の印字を放つ。相手は木々を利用して印字を避けようとするが、八郎の印字はそれを許さない。弧を描いた印字が木の陰に隠れようとした相手を左右から挟み込むように襲いかかる。
「何?」
「ふん、木の陰に隠れていれば左右から狙うしかあるまいが、わかっていて食らうほど伊賀組は甘くはないぞ」
あっさりと手甲に印字を弾かれて、八郎は敵がどうやら相手が容易ならざることを悟った。
「常にはないが、今日は名乗らせてもらおう。伊賀の村雨だ」
「甲賀の八郎」
「若いのによい腕をしている。だが俺が若いころにはもっと腕の立つ忍びが綺羅星のようにいたことを知るがよい」
忍びは腕だけでは足りない。運と勘が備わってこそ、腕の良い忍びは生き延びることを許される。村雨がここまで生き延びてきたのにはそれなりの理由がある。修羅場を経験していない八郎にはそれがわかるまい、と村雨は言っているのだった。実際に八郎はそんなことを考えてもみない。ただ愚直に力量で相手を上回ることだけを考え、運や奇跡に頼ることを恥として角兵衛に教え込まれてきた。村雨の指摘、というより挑発は、八郎に何の感銘も呼び起こさなかった。
八郎が全く気後れしていないことに、村雨はむしろ歓喜した。取るに足らない若い忍びを相手に蹂躙することなど望んでいない。もちろん自分が敗北するとは思ってもみなかった。強敵に勝利してこそ最後の戦いに華を添えることができるのだと信じた。
「行くぞ、小僧」
村雨は一気に跳躍した。
猿飛の術に関して、村雨は伊賀組のなかでも一、二を争う達者であり、両腕だけではなく足も胴まで利用して、正しく木々の間を縫うように走る。それはもはや猿を超えた究極の体術の成果であった。
変幻自在の高速移動で相手の死角から奇襲するのが村雨の十八番である。たとえ慣れ親しんだ伊賀ではなくとも、この山林で戦うかぎり負けることはないと村雨は確信していた。
「どこを見ておる」
八郎が完全に自分を見失っている。背後をとった村雨は不敵に嗤った。狼狽し、怯える八郎の顔を拝んでから殺してやろう。
楽しかった。幕府の密命ではなく、ただ自分の意志で自由に戦えるということは、病みつきになりそうな愉悦があった。もしこれが任務であれば、村雨は声をかけるようなことをせず、有無を言わさず八郎を殺したであろう。が――――
「ちぃっ! 小僧、貴様……!」
八郎の無防備な背後を取ったはずなのに、なぜか村雨の足元から印字が放たれた。咄嗟にその全てを避けることはできず、腿と脛をしたたか印字に打たれて村雨は呻いた。
「秘技、柱舞」
「勝ったつもりか? うぬぼれるでない!」
まだまだ村雨は致命傷を負ったわけではない。勝負はこれからだ。少々足が痛む程度で戦闘力を失うなどあってはならない。
「いや、終わりだよ」
何の気負いもなく淡々と事実を告げるかのように、八郎は呟いた。すでに八郎の心が角兵衛たちのほうへ向いているのを悟って村雨は激怒する。見下された、いや、見下す価値すら見出されていなかった。そんなことは村雨の人生でも初めて経験する屈辱だった。
「嘗めるな!」
猿飛の術以外にも村雨は体術の達者である。接近して八郎が得意としているらしい印字打ちを封じればまだ勝ち目はあるはずだ。
――だが無情にも、現実は接近するどころか印字を避けることすら難しかった。本物の天才だ。村雨は目の前の若者に自分が技量で劣っていることを認めざるを得なかった。
すでに左ひじに印字の痛撃を受け、痺れは回復せず、おそらくは筋か骨を痛めたものと思われる。それだけでも戦力は半減したも同然だが、脇腹や耳にも一発食らっていた。すでに村雨の肉体は限界に達しようとしていた。
(だからどうした)
最初から華々しく死のうと覚悟を決めて臨んだ戦いである。村雨が恐れるのは死ではない。伊賀組として恥じとならぬ死に方ができるかどうか、それだけだ。
「見事な腕だ。この時代に生まれたことが惜しまれてならぬ」
本心であった。八郎ほどの天賦の才があれば、戦国ならば果心居士のごとく伝説の領域まで達したであろう。もはや忍びが不要となりつつある今の時代にはあだ花にしかなるまい。それが惜しまれてならなかった。
しかしそれはそれ、勝負は別の話である。たとえ死しても、まだ村雨は敗北を認めるつもりはなかった。もし八郎に勝つ可能性があるとすれば、それは死を決した肉体を凌駕する心の動きに他ならなかった。
ごつり、と鈍い音がして左手が肩が外れた。左手がまともに動かない以上、身体の左部分は守り切れないと村雨は割り切った。いや、それどころか左手そのものを一気に斬り落とすとそのまま八郎へと投げつけたのである。
これには八郎も面食らったといってよい。たかが腕を投げつけられたところでなんの脅威にもならないが、切り裂いた村雨の腕から噴き出る血が問題だった。
何より捨て身、決死の村雨の気迫に生まれて初めて八郎は気圧されるということを体験していた。技量には天賦のものがあっても、本気の死を決した忍びと戦った経験が八郎にはなかった。
下忍が自爆する程度の攻撃とは違う。腕を、命を犠牲にしても必ずや相手を殺す。そのために彼らは人生で一度だけしか使わぬ数々の外法を身につけていた。
自らの血で目つぶしを行うのもそのひとつである。
ほんのわずかに八郎が怯んだ隙に、村雨は最後の準備を終えていた。八郎との距離はおよそ三間ほど。あと少しで必殺の間合いに入る。
「御爺から聞いていなかったら危なかったな」
村雨の気迫に一瞬怯んだとはいえ、八郎はまだ冷静さを失ってはいなかった。それは角兵衛から、本当の忍びは痛みや怪我では決して倒れないとあらかじめ言われていたからだ。
村雨もまた、命が尽きるその瞬間まで戦うことを止めないのだろう。戦いを終わらせるためには確実に殺すしかない。普通の打撃では村雨は止まらない。
ここにきて八郎はついに印字ではなく、忍び刀を手にした。一撃で生命まで仕留めるためには印字では届かないと考えたのである。
――――その八郎の決断に、村雨は歓喜した。
気力が肉体を上回ることのできる時間には限りがある。確かに今、村雨は肉体の限界を超え痛みも疲労も超越したところにいるが、それも残りわずかであるという自覚があった。
戦で高揚している間は無敵のように思われた兵が、限界を超えると同時に案山子のように動けなくなるのと同じである。
だから八郎が接近戦を決断してくれたのは村雨にとって僥倖であった。距離を取られ、なぶり殺しに遭うこともありえただけに、張り詰めた心がほんの少し和らいだ思いである。
(天祐我にあり)
村雨最後の手段は、自らの血を武器とした秘技、毒魂――己の身体を毒に慣らし、その体をも死に至らせる毒を血中に巡らせることで返り血で相手を屠る外法であった。
ごくわずかでもいい。村雨の血を付着させただけで八郎の命脈は断たれる。八郎にあえて忍び刀で自分を貫かせても良いし、接近して自ら動脈を切り裂いても良かった。刀は躱せても、面で飛び散る血液の全てまでは躱せないからだ。
「見よ我ら伊賀組の意地を!」
無防備に胴を空けて、村雨は大きく忍び刀を振りかぶった。そのまま刺されても良し、そうでなければ振りかぶった忍び刀で頸動脈を掻き切るのみ。
最後の力を振り絞り、村雨は天足通で加速する。刹那の間に二人の距離が詰まった。八郎の忍び刀が村雨の心臓を正確に狙って突き出される。もとより刺される覚悟ではあったが、村雨は無意識に心臓を庇った。心臓と脳だけは即死して意識を失ってしまうので、頸動脈を掻き切れない可能性があったからだ。
その一瞬の逡巡が、八郎に手を止めさせた。このまま刺してはいけない。それは勘でしかないが、八郎の勘は長年の山での修行で研ぎ澄まされていた。遅れて村雨も八郎が忍び刀を突きさすことを止めたことに気づく。だがもう遅い。すでに村雨の忍び刀は頸動脈に達しようとしていた。
鮮血が噴水のように噴きあがり、避けようもなく八郎は正面からその血を浴びた――はずであった。
返り血に染まった忍び装束が主の重さを失い、はらりと大地に落ちる。村雨は目をむいて叫んだ。
「変わり身の術!」
村雨の意識が頸動脈を掻き切ることに向いてしまったほんの一瞬のことであろう。八郎は忍び装束から脱皮するがごとく抜け出して、忍び装束のみが毒血を浴びたのだ。最後の最後で自分の技に酔ってしまった村雨の不覚であった。
「み……見事…………」
うつ伏せに倒れる村雨の背中に、八郎の忍び刀が深々と刺さっている。褌一枚になった八郎は荒く肩で息をついて呟いた。
「御爺に伊賀組は毒に気をつけろと言われていなかったら危なかったよ」
それにしても自分の血液そのものを毒として利用するという発想は、八郎も思考の埒外であった。ほんの少しでも運命の天秤が傾いていれば、八郎もまたここで村雨とともに斃れていただろう。
忍びが持つ執念の恐ろしさに肌が粟立つ思いがするとともに、八郎は角兵衛が苦戦しているであろうことを確信した。
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