(5)

 ★アリス


 結局、スーツ姿の男が現れたその日は、うさぎの耳の彼女が現れることはなかった。アリスは目覚めてから、日がすっかり暮れるまで諦めずに探していたけど。アリスがこれほどまでに何かに夢中になることはなかったから、僕は少しだけ嬉しかった。


 翌日、僕が家に行けば、昨日と同じようにアリスは玄関の前で待っていた。


「今日も彼女を探すの?」


「うん。昨日は見つけられなかったもの。手伝ってくれるよね?」


「もちろん」


 アリスは嬉しそうに双眸をぐしゃりと潰した。久々に見る笑顔だ。昔はこんな風にもっと笑っていた気がする。けど、思い出は良いものばかりをアルバムの中へ収めたがるものだから、そこには僕の願望が入り過ぎているのかもしれない。僕はアリスの笑顔が好きだったから。


 丘の方へと駆けていくアリスを僕は追いかける。「走っちゃ危ないよ」と僕が注意しても聞く耳を持ってくれない。彼女は、小走りの僕をぐんぐん離していく。


 けど、普段から運動をしていないせいだ。アリスの足はそれほど早くない上に、すぐにバテてしまった。すぐに追いついて、「言わんこっちゃない」と声を掛ける。アリスは息荒くこちらを見た。平気そうな僕に目を細める。僕は毎日この丘を上り下りしているから、体力には自信があった。


「そう言えば、舞踏会の知らせの手紙、まだ確認してないよね?」


「うーん。……たぶんまだだと思う」


「この間、渡したはずだけど?」


「それじゃ、机の上に置きっぱなしね」


「一応、見ておいてよ。明後日、お城で開かれるはずだから。行くか行かないかはアリスに任せるけど」


「行って欲しいって言わないのね?」


「お茶会に無理に連れ出して、ひどい目に合わせちゃったから。無理に行く必要はないよ」


「別に気にしてないのに」


 アリスは息を整えながら、肩をすくませた。舞踏会を強要しない理由にしては弱いと思ったのだろう。もちろん舞踏会へ行って欲しくない理由は他にあるのだけど。なんせ、あの舞踏会の目的は貴族に見初められることだ。アリスの幸せを願うなら、それを喜ばしく思うべきなのだろうけど。僕の心は複雑な鋭さを持って、それを拒んでいた。それに、うさぎの耳の彼女を探すためとは言え、こうしてアリスが外へ遊びに行ってくれる。それだけで僕には十分に思えた。


「それと昨日、アリスが寝ていた時のことなんだけど」


 僕はスーツ姿の男の話をアリスにした。つまらなさそうにするとばかり思っていたけど、意外にも彼女は僕の話をクスクスと笑いながら聞いていた。


「真面目に聞いてる?」と僕が少し語気を強めれば、「もちろん、真面目に聞いているわ」とアリスは口端を緩める。


「信用ならないなぁ」


「あら、私のことを信用してくれないんだ」


 今度は、ぷっくらと頬を膨れさせて拗ねた声を出す。上機嫌というべきか、らしくないと言うべきか。きっと、彼女は舞い上がっているのだ。うさぎの耳の彼女と出会って、灰色だったアリスの世界が少しばかり華やいだに違いない。僕では与えられなかった彩りを、うさぎの耳の彼女はアリスに与えた。


「うさぎの耳の彼女にもう一度会ってどうするつもりなの?」


「話を聞きたいの。なんとなくだけど、彼女はとっても素敵な話をしてくれる気がするから」


 素敵かどうかまでは分からないが、彼女が特別な話をしてくれそうだという直感には同意する。それは彼女が見たこともない格好をしていたせいだろうか。それともそうあって欲しいという淡い願いだろうか。


 少なくともアリスが彼女に感じた魅力を僕は否定することは出来ない。それは彼女の姿は、人の心を本質的に惹きつける何かを宿していたからだ。



 *


 探し疲れて、僕らはまたクスノキの木陰で一休みしていた。昨日と同じくらいの心地よい気温のせいでまた眠ってしまいそうになる。けど、今日のアリスはまだ元気が有り余っていた。座ったまま、草原にかかとを鳴らして元気な声を出す。


「少し休憩したらまた探しましょ!」


「今日は元気だね」


「昨日、疲れてたくさん眠ったから」


「今日もよく眠れそうだ」


「良いことでしょう?」


「違いない」


 僕は漠然と幸せを感じていた。昼過ぎの陽だまりに包まれた丘の上でアリスと一緒に長閑な時を過ごす。明確に思い描いていたわけじゃないけど、心の片隅に願っていたことだった気がする。いつもアリスにこんな風に過ごして欲しいと僕は思っているらしい。


 アリスの甘い香りに吸い寄せられて、僕はふっと身体を彼女の方に倒す。まるでミツバチが雌しべの花粉の匂いに誘われるような無意識の行動だった。けど次の瞬間、僕の身体は原っぱに倒れ込む。九十度に傾いた視界には、立ち上がったアリスの姿が映っていた。


「昨日のお姉さんよ!」


 アリスはそう言って駆け出した。僕は身体を起こして、アリスが駆けていった方を見遣る。丘を少し下った花畑の奥に、うさぎの耳の先が見えていた。


 僕も起き上がり、アリスを追いかける。


「探したのよ!」


 息を切らしながら、アリスは彼女を見上げていた。


「私も探していたわ」とうさぎの耳の彼女はアリスに視線を合わせるように屈んで微笑みを浮かべる。


「どうして私を探していたの?」


「また来るって約束したでしょ? それに、あなたに教えたい話がたくさんあるの」


「聞かせて欲しい!」


 アリスは随分、興奮していた。まるでおもちゃ屋さんの前で、好きなものを何でも買ってあげると言って貰えた子どもみたいだ。


 のそのそと近づいた僕の方へうさぎの耳の彼女が視線を向ける。


「あなたもまた一緒にいるのね」


「僕はいつだってアリスと一緒さ」


 当たり前さ、と胸を張った僕に、彼女はニッコリと笑みを浮かべる。それはどういう意図の笑顔なのか、僕には分からない。


「それじゃあ、あなたにもたくさんお話してあげるわ。どこか良い場所はないかしら?」


「うちのウッドデッキはどうかしら? 椅子も三人分あるもの」


「アリス、この人をうちに招待していいの?」


「構わないんじゃない?」


 義母の許可もなく、彼女を家に招くというのはどうかと思ったが、下手に外で話すよりかは良いかも知れないとも思った。彼女の格好は目立ち過ぎる。人さらいの騒ぎが起こっている現状、彼女が怪しまれないとも限らないから。


「さぁ、私のうちに行きましょう」


 *


 アリスの家に着き、僕は二人の為に紅茶を用意した。アリスはミルクの入った甘いのが好みだった。うさぎの耳の彼女の好みは分からないので、同じものを用意する。断られれば、僕用の甘くないストレートティーを渡せばいい。僕はどっちでも飲めるから。


 台所の戸棚からお茶菓子を取り出す。この間のお茶会の時に余分に買っておいたのだ。あのお菓子屋のクッキーは甘すぎず美味しい。アリスはもっと甘いのが好みらしいけど。僕はお盆にそれらを乗せて、二人の待つウッドデッキに向かった。


「それで、それで、どんなお話をしてくれるの? 不思議な世界って?」


 アリスは机から身を乗り出し、うさぎの耳の彼女に詰め寄っていた。「はしたないよ」と僕が注意すれば、「だって早く聞きたいんだもん」と唇を尖らせる。


 アリスにとってうさぎの耳の彼女の話を聞くことが楽しみで仕方ないのだ。こんな風に身体が言うことを聞かないほど積極的になっているアリスを僕は喜ばしく思う。いつも色んなことに斜に構えていた彼女が、物事とこんなにも真正面から向き合おうとしてくれているなんて。それがどんなことでも。僕は、うさぎの耳の彼女に感謝をしなくちゃいけないのかもしれない。


「紅茶は、ミルク入りで良かったですか?」


 お盆をテーブルの上に置きながら、うさぎの耳の彼女に訊ねれば、「構わないわ」と言って彼女はカップを手にとった。アールグレイの仄かな香りが辺りに漂う。丘の風に攫われたこの香りは町まで吹き降りていくのだろうか。


「今日もいい香り!」と、アリスが物珍しい陽気な声を出す。


「いつもそんな風に褒めてくれないじゃないか」


「そうかしら?」


 きっと良い子ぶっているだと思った。アリスにこういう一面があったなんて。人懐っこい子ならまだしも、無愛想なアリスは誰に対しても冷たい態度だったから。そんなことを口にすれば怒られそうだから、心の中に秘めておくけど。


「アリスも待ちきれないみたいだから、さっそくお話を聞かせてもらおうかな」


 僕は椅子に座ってお茶菓子を一つ摘む。チョコレートの乗ったクッキーだ。ビターなチョコの苦味が口の中に広がる。この苦さなら、僕も甘さたっぷりのミルクティーにすれば良かったと少々後悔した。


「それじゃ、」


 彼女は、ゴホッと一つ空咳を飛ばす。僕らを睥睨して話を始めた。


「――これは不思議な国のお話。きっとあなたたちが想像も出来ないような世界……、」


 息を飲むようにアリスは彼女の話を聞き入っていた。僕は、うさぎの耳の彼女の話は意識半分ほどで、真剣な顔つきのアリスをぼんやりと見ていた。


「そこは、こことは全く違う世界。――あなたが想像も出来ないような高い建物が立ち並び、電気と呼ばれるエネルギーの力で動く、不思議な機械で溢れている。夜になっても部屋や街中は昼間のように明るくて、世界は全く眠らないの。それに、ここには無い美味しい食べ物や、あなたが知らないものが数え切れないほどある」


 まるで御伽噺を聞かされているような気分になった。嫌なものではない。不思議とワクワクする感じだ。僕は母に絵本を読み聞かせてもらったことはないから、ワクワクするのはそのせいかもしれないけど。 


「それに特異なのは、コンピューターと呼ばれる機械ね。それによって世界中がいつも繋がっているの」


「世界中が繋がる?」


「説明は難しいけど。そうね……それのおかげで、いつどこにいても、たとえ世界の裏側にいても顔を見て話が出来るの。ガラス板のような小さな箱に相手の姿が映し出されてね」


「……すごい!」


「それに人は空を飛ぶことも出来るのよ」


「空を?」


「そう。飛行機と呼ばれる乗り物がたくさんの人を乗せて空を行き来している。世界の果てから果てまで一日もあれば回れる。船で一週間もかかるような場所までひとっ飛び。それに、あなたの知らないたくさんの遊びやおもちゃもある。向こうの世界の子どもたちは、無限にも思えるほどの遊び道具の中から好きなものを選べるの。その数は、一生かかっても遊びきれないほどある」


 僕は黙って彼女の話を聞いていたが、どうしても堪えきれなくなって、つい口を挟んでしまう。


「そんなの想像の世界の出来事みたいだ」


「確かにそうかもしれない。だけど、これは作り話じゃない現実の話よ」


 にわかには信じ難かった。だけど確かに、彼女が妄想を話しているだけのホラ吹きには思えなかった。それはアリスがあまりにも楽しそうにしていたのもあるけど。少なくとも彼女は本気で話している。それは目を見れば分かる。もしデタラメだったとすれば、自分の嘘を本当だと信じてしまった狂信者だ。


「空を飛んだり、世界中の人と話したり出来る。なんて素敵なのかしら!」


 アリスはうっとりとした表情をしていた。嬉しさの反面、なんとなく面白くないと思えるのは、僕自身がアリスを笑わせられない不甲斐なさのせいだろう。それをうさぎの耳の彼女にぶつけるのは子どもじみていると思うけれど、僕はまだ子どもだ。仕方ない。つい、言葉尻が強くなる。


「それって魔法?」


「魔法じゃないさ、科学の力よ」


「かがく?」


「そう。こっちの世界じゃ、あまり見向きされなかった分野よね。そのおかげというべきか、こっちの世界では御伽が蔓延している」


「御伽が蔓延するってどういうことさ」


「疑いが人の可能性を狭めていくの。ありはしないもの、出来はしないものだと決めつける思い込みこそが一番厄介な存在。人はいつの世も自分たちで可能性を潰していく。そして、病のように固定観念を信じ続けるの。あなたたちは誰も御伽を疑っていないでしょ? それが蔓延するということなの。向こうの世界では魔法は無いものとされてしまったけどね」


「それって説明になってる?」


 僕が馬鹿なせいか、彼女の説明を良く理解出来ない。聞いたこともない概念を抽象的に説明されて僕はすっかり困ってしまった。それを見かねてか、彼女は「特効薬は信じることよ」と頬杖を付きながら呟く。胸の谷間が強調されて、僕は思わず視線を逸した。


「私の話を信じれば、――――アリス、あなたは不思議な世界に行くことが出来る。だって、あなたにとって私が話す世界はこっちの世界より魅力でしょ?」


 逸した視線の先で、アリスがはっきりと頷いた。目をキラキラと輝かせて、彼女を見つめている。僕が出したお茶は全く減っていない。すっかり冷めてしまっていた。


 確かに彼女の話す世界は魅力的だった。作り話にも思えてしまうほどの不思議な世界。だけど、それを素直に信じるのは、まるでいけないものに触れてしまっているような感覚になった。女の子の着替えを覗くような、そういう如何わしい欲望と似た匂いがする。


「ねぇ、私はその世界に行けたりするの?」


「……アリス!」


「だって、そんなに素敵なところなら、私は言ってみたいから。お姉さんが言ったよね。疑いを持つのはいけないって。だったら私は行けるって信じたいの。このつまらない日常を飛び出せるチャンスがあるなら、私はそれを掴みたい」


 僕はうさぎの耳の彼女の方へまた視線を向ける。優しく頬を緩めて、彼女はアリスのことを見つめていた。


「もちろん。私はあなたを向こうの世界へ連れて行く為にやって来た。あなたが望みを信じるなら、あっちの世界へと連れて行ってあげるわ」


「本当に……!」


「えぇ、けど一つ確認させて。あなたは向こうの世界に行って、どうなりたいの?」


 アリスは少し困った顔をした。指先がしなやかな前髪に触れる。少し俯いて、冷めたミルクティーに映る自分の顔を見つめている。僕も少しだけ気になった。アリスがこの世界を飛び出して、どうなりたいと思っているのか。


 アリスは何かを決断したようにパッと顔を上げた。


「……私は変わりたい。退屈な日常から抜け出して、新しい自分に生まれ変わりたい」


 アリスのその言葉を聞いてうさぎの耳の彼女は満足気に頷いた。


 それからも彼女は向こうの世界の話をいくつもしてくれた。町を行き交う鉄の馬車たち、その瞬間を切り取れる不思議な機械、巨大な劇場で繰り広げられる劇に、小説や漫画と呼ばれる物語で溢れている。科学というものは、僕らの想像をたやすく超えるようなものを沢山生み出しているらしい。


 僕の中から疑いが徐々に消えて、うさぎの耳の彼女の話を信じようと思ったのは、アリスが彼女を受け入れた他にない。だって、今までに見たことがないくらいの可愛らしい笑顔のアリスを見られたのだ。それなのに、「彼女は狂っている、ホラ吹きだ」と言えるだろうか。僕にそれは出来なかった。アリスがこうやって笑ってくれるなら、たとえ悪魔にだって魂を売ってもいい。悪魔に売ってもいいのなら、狂ったうさぎの耳の彼女に売るくらい容易いものだ。


「でも、どうやってそこへ行くの」


 話を一通り聞き終えて、アリスがそんな質問をした。もっともな疑問だ。不思議な世界への入り口はどこにあるのか。僕もうさぎの耳の彼女の方を見遣る。


「鏡を通るのよ」


「かがみ?」


「お城の中に姿を映す不思議なガラスがあって、それが向こうの世界に繋がっている」


「その噂、僕は聞いたことがあるよ」


 いつ聞いたものかと思い返す。確か、お茶会の時だったはずだ。去り際の最後の話題がそれだった。


「ガラスの中に入れるの?」


 うさぎの耳の彼女はアリスの言うことを可笑しそうにクスクスと笑った。


「向こうの世界の住人が聞けば、『御伽の国なんだから入れるだろう』って笑うだろうね」


「御伽の国は、ガラスの中に入れるような可笑しなところじゃないわ」


「そういうところよ、アリス」


「あっ」


 アリスはハッとした表情で口元を抑えた。その手の甲にうさぎの耳の彼女が人差し指を重ねる。長くしなやかなで大人っぽい指だ。綺麗な宝石が似合うだろうけど、彼女は装飾を何もしていなかった。それでも十分に魅力のある手に思えた。


「何を疑い信じるべきか、それを決めるのはあなた自身なのよ」


 艶っぽい手付きでアリスの甲をなぞり上げれば、徐々にアリスの頬が赤くなっていく。アリスが抵抗できないまま、彼女は口元を覆っていた手をどかせた。逆の手でクッキーをつまみ上げると、まるで餌付けをするようにアリスの口元へとそれを運ぶ。アリスの視界にはクッキーがちらついているはずだ。大きな双眸の中の綺麗な瞳が左右に揺れている。


「でも、その鏡というものがあるお城の中へどうやって入るつもりなの?」


 そう訊ねてから、アリスはクッキーを咥えた。咀嚼するアリスの口を彼女がじっと見つめる。


「お城には簡単に入ることが出来るでしょ? あなたなら」


「私なら?」


 彼女の指が、アリスの口元についたクッキーの粉を拭った。「ほら、もうすぐでしょ?」と口端を緩める。


「そうか、舞踏会だね!」と僕が叫ぶと、「御名答」と淡麗な瞳がこちらを捉えた。


「舞踏会の盛り上がりに便乗して、鏡のところまで案内してあげる」


「警備とかがいるんじゃないの?」


「もちろん警備はついているはず。けど安心して」


 この国の兵士たちを侮っているわけでは無いと思うが、彼女は不思議な自信で溢れていた。それは何度も成功した実績がある人の言い様だ。そこまで言い切るには、最低限城の構造を把握しておく必要があるし、実際に彼女は城にある鏡の存在を知っている。


「あなたは何者なの……?」


 僕の問いかけに彼女が答えることはなかった。ただ彼女を見つめるアリスの真っ直ぐな瞳、それだけが答えのように思えた。


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