二章「お茶会」

(1)

 ☆私


 御伽の国の話を鵜呑みにしているのは、目の前に首しかないピエロがいるからだろう。機械や作りものじゃないこの生首が話している理由は御伽の世界の出来事だから。これ以上の説明はありはしない。


「僕も喉が乾いたよ」


「あんたも水でいいかい」


「うーん。本当はオレンジジュースが好きなんだけど」


「スナックなんだ。ジュースはないよ。酒が呑めないなら水で我慢してくれ」


 カウンターから座席、座席からまたカウンターへと飛び移り、その上でこうして昔話をしてくれているんだから、彼が乾きを訴えるのも仕方ない。一人では飲みづらいだろうと、手助けしてやろうと思ったが、彼は器用に口でグラスを傾けて水を飲んでいた。でも、口に入った水は何処へ行くのだろうか。ごくごくと喉が鳴って、水は何処かへ消えてしまう。


「ここまでで質問は何もない?」


「うーん。大丈夫」


 魔法と同じタイミングで出てきた赤ずきんのような話が気になったけど、話の大筋とは関係ないだろう、と私は質問を見送った。おそらく私が知っている話とさほど差は無いだろうとも思ったからだ。


「それじゃ……、そうだ。シャム猫を届けた次の日にアリスとお茶会に行ったんだ」


「お茶会っていうと帽子屋と?」


「どうしてあの嘘つきとお茶会をしなくちゃいけないんだ」


「お茶会ってそういうものだと」


「こっちではそうなの?」


「こっちというべきかそっちと言うべきか」


 ピエロは不思議そうに眉根を下げる。『不思議の国のアリス』に登場する帽子屋の説明をするのが煩わしくて、私は「気にしないで」とピエロに話を促した。


「そうかい。まぁいいや。お茶会っていうのは、町に住む同い年くらいの子たちとするんだよ。昼過ぎになればみんな集まって来るんだけど、アリスは人と群れるのが苦手みたいで」


「人と群れるのが苦手っていうのは分かる。私も学校では友達が多い方ではなかったから」


 それを聞いてピエロは満足げに口元を緩めた。私がアリスと似た性格で安心しているのだろうけど、根暗な性格に満足されることはなんとも歯がゆい。苛立ちはしないが、不快感が少しだけ込み上げてきた。ピエロに悪意が無いのは分かるから、それを表には出さないけど。


「僕は、普通の子みたいに、アリスには他の子どもたちと遊んで欲しかったんだけどね」


 余計なお世話、そんな言葉が喉の奥に引っかかる。それがチクリと痛みを伴ったのは、自分自身もそれを望んでいたからだ。「一人だって構わない」「友達なんて必要ない」と言える強さが私には無かった。だから、輪の中に入れるようにと願っていたし、時には行動にも起こした。そしてその度、自分は輪の外の人間だという事実を何度も突きつけられるだけだった。


 ★アリス


「おはようございます」


 僕は玄関でアリスの義母に挨拶をした。今から仕事に行くところだったんだろう。靴を履こうと屈んでいた彼女は、ちらりとこちらを見遣ってから、少し視線を逸して「おはよう」と返してくれた。


 アリスの義母は綺麗な人だ。三十歳を超えているはずだけど、お姉さんと呼んでも違和感がないくらい。僕には母親がいないから、母のいるアリスが少しだけ羨ましかった。それがたとえ本物の母じゃなかったとしても。母と呼べる存在がいることが救いになることだってきっとあるはずだ。


 僕の母は、僕が生まれてすぐにいなくなってしまったらしい。理由は何も聞かされていない。死んだのか生きているのかも。父は詳しいことを知っているはずだけど、そのことを話そうとはしてくれなかった。


 僕がもっと小さかった頃のこと。母のことを訊ねると、父は決まって悲しそうな顔をして俯いた。歯がゆそうに、苦しそうに、下唇を噛み締めていた。優しく穏便な父の異様な雰囲気。僕はそれ以上、母のことを聞くことは無かった。


 父は三年ほど前から戦場に駆り出されている。父はこの国の兵士だったから、国のために命をかけるのは仕方ないことだったと僕は思う。母のいない幼子を育てていた為か、ずっと出兵が後回しになっていたと聞くから、この国の方針には感謝をするべきだ。だけど、戦局が大詰めになり国も余裕がなくなったらしい。もしくは、戦況が好転する機会と踏み人員を増やしたかったのだろう。結果として、多くの人員をつぎ込んだ策は吉と出た。


 戦争は終わったはずなのに、父は戻って来ていない。だから生死も分からない。戦争で勝った。その事実だけが僕の唯一の救いだった。


「今からお仕事ですか?」


「……そう。今日は夕方に隣町から洋服屋が生地を買いに来るらしいから遅くなりそうなの。夕ご飯もアリスと一緒に食べてくれるかしら?」


「大丈夫ですよ」


 アリスの義母は、一番街の実家で絹織物の卸売を手伝っていた。丘の上へと越して来たのは、九年前に彼女が結婚した時。若い兵士と城で知り合う機会があったらしい。それに、ちょうど、アリスを引き取ったのもその頃だったという。


「今日は何をする予定なの?」


 僕が支えていた玄関の扉に手をかけて、彼女はそう問いかけてきた。僕は紙袋を抱えていたから、それを落とさないように、頭上にある顔を見上げ、「お茶会にアリスを誘おうと思って」と返した。


 彼女は細い指先を使って耳殻へと髪を流す。


「そう。あの子は行くかしら?」


 僕は素直に頷けない。アリスを連れて行ける自信が無かったから。アリスの義母も僕と同じ気持ちのはずだ。アリスを望んでいないお茶会へ連れて行くべきなのかどうか悩んでいる。


 ――みんなと仲良くするべき。そういう常識はアリスには通用しない。そもそも、そんな常識を受け入れさせるべきなのだろうか。アリスがみんなと仲良くして欲しいという思いはこちらの一方的なもので、好意の裏返しになりかねないから。


 嫌いな食べ物を強要するのが正義なのかどうか。僕はアリスのなんなのだろうか。嫌いな食べ物を無理やり食べさせようとするのは、きっと母の愛に他ならない。


 *


「アリス、おはよう」


 リビングに僕が向かうとアリスはソファーに横になっていた。まさか、とは思ったが、さすがに昨日から同じ体勢というわけでは無かった。服が変わっている。顔に当てたクッションをどかして、「お茶会?」とアリスは訊ねてきた。


「もしかして、行く気になってくれたの?」


「ううん。玄関から話が聞こえていたから」


「あー、それでか」


「昨日も言ったけど、お茶会は嫌よ」


「どうしてさ」


「みんなのお話はつまらないもの」


 表情を変えないまま、アリスは身体を起こして腰を浮かせた。「どうしたの?」と訊ねると、「喉が渇いたの」と彼女はセットされていない髪を掻きながらボソボソと呟いた。


「それなら!」


 僕は抱えて来た紙袋をアリスへと手渡す。「今朝、市場で買ってきたんだ!」


「なに?」


「オレンジジュースだよ」


「ふーん。ありがと」


 そう言って、アリスは僕の手の中にあった紙袋の口を開けて、中から瓶に入ったオレンジジュースを取り出した。ガラスの中でタプタプとオレンジ色の液体が揺れる。紙のキャップを外して、アリスが一口含んだ。


「どう?」


「美味しい」


「毎朝、新鮮なオレンジを絞ってるんだって」


「そう。知らなかった」


 アリスはじっとオレンジの液が減ったガラス瓶を見つめた。それからすっと視線が窓の外に向く。小さな窓枠からは、狭いけど、雲ひとつない綺麗な青空が見えていた。


「どうしたの?」


「そんなにお茶会に行って欲しいの?」


「うん! 僕はアリスと一緒にお出かけしたいな!」


 しばらくアリスは逡巡して、オレンジジュースを一気に飲み干した。「構わないわ」と小さな声を漏らす。


「お茶会に行ってくれるの?」と僕が驚けば、「そんなに驚くことじゃない」とあしらうような声を出して、アリスは微笑みとは言えないくらい僅かに口元を緩めた。

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