(5)

 ☆私


「何か飲むかい?」


 ママにそう訊ねられて私は素直に頷く。けど、ここがスナックであることを思い出して、「さすがにお酒は……」と私は苦笑いを浮かべた。


「呑ませて無理やり連れて帰ろうなんて思っちゃいないさ。炭酸水か水でいいかい?」


 そう言って、ママはグラスに水を注ぎ、私の前に差し出す。喉が乾いていたので口をつけようかと思ったが、同時に露骨な策略が見え透いて私は手を止める。透明な液体を見つめていた視線を恐る恐る上げれば、同じくこちらの考えを見え透いたようにママがぶっきらぼうな顔を浮かべていた。


「眠る魔法なんかかけちゃいないよ。昔ならそうしただろうけど。私はもう魔法は使えないからね。入れるなら睡眠薬だ。ただし、それも入っていない」


 なんなら、私が毒味をしようかい? そう言われて、私はグラスに口をつけた。嫌な味はしない。ただのよく冷えたミネラルウォーターだ。薬が入っていれば味が変わるのかは知らないけど。ママが何者かのかよく分からない状況で、この水を飲む気になったのは、やっぱり私が御伽の国に行くことを心のどこかで望んでいるからなのではないだろうか。


 もし眠ったとしても、目覚めて御伽の国だとすれば、素敵なことだと思う。


「本当に大丈夫?」


 心配そうにピエロがこちらを見遣る。「本当に入ってないさ」とママはまたケースからタバコを一本抜き取った。「私がここに薬を持ち込んだところ、見てないだろ?」


「確かに見てない」


「今のところ大丈夫」


 私はピエロに笑いかけて見せた。すると彼は本当に嬉しそうに表情を崩す。思えば、彼はアリスを笑わせるのが仕事だったはずだ。私はグラスを木製のカウンターに置く。すぐに汗を掻いたグラスが茶色いカウンターを焦げ茶色に染めた。


「ところで、人さらいっていうのは?」


 魔法や不思議なことが起こる御伽の国に憧れを抱いている反面、そこで起きている事件が少しだけ気がかりだった。気がかりと言っても、おそらく私はそこにも期待をしてしまっているのだ。御伽らしい物語があるのではないかと。悪い魔法使いや我儘な王様、意地悪な継母。御伽の世界には必須じゃないか。


「人さらいのことは、実を言うとあまり詳しく知らなかったんだ」


 確かに話の中で彼は初耳のような反応を示していた。「理髪店では、その人さらいを『獣の袖引き』って言ってたよね?」


「そうそう。ちょうど僕が生まれた頃にあったらしいんだ。もちろん、人さらいが出るよって話を聞いたことがないってわけじゃない。実際に事件は起きていたし、問題になり始めていたからね。それに、子どもが夜遅くまで遊ばせないための脅し文句のようなものだから、夜に口笛を吹けば蛇が出てくるって具合さ。当たり前のことだろ? 夜に一人で出歩けば、人さらいにさらわれるかもしれない。常識的な忠告の範疇だ。けど、以前に俗称が着けられるほどの事件があっただとか、説話があるだとかはまったく知らなかったんだ。……獣の袖引き。その話は、夜な夜な悪い獣が出て、若い娘をさらっていく――」



 ★人さらい


「隊長、また人さらいです」


 夜警をしていた兵士が、私のところへ血相を変えてやって来た。


「落ち着け。まずは状況を報告しろ」


 そう彼を叱ったものの、最も焦っていたのは自分自身だった。これで今月八件目だ。警備を強化しても強化しても事件が起きる。これ以上、被害を出さないようにというのが女王からの命令だ。解決の糸口すら見つかっていないのに。それに逆らうことは出来ず、その責任を負うのは隊長である私だ。


「三番地から女性が二人消えました。娘とその母親です」


「夜逃げや駆け落ち、殺人や自決の可能性は?」


「今回も線は薄いかと。家はそれなりに裕福なようで、金銭面的な苦悩は無かったと……。近所付き合いにおいても評判が良く遺恨の線もありませんし、もちろん夫婦の関係も良好だったと。ご主人の悲壮な反応から例の獣の袖引きの可能性が最も高いかと」


 人がいなくなることを神隠しなるものと結びつけるのは安易な考えだと思う。事件の裏には何かしらの真相があり、そこには人が関与しているものだと私は考えていた。


 だが、残念なことにここまで証拠は何も上がっていない。痕跡を何も残さずに人をさらうことなど可能なのだろうか。魔法使いに言わせれば、それほど高度な魔法の存在は容認出来ないらしい。私が知りたいのは容認できるかどうかではなく、存在するか否かなのだが。彼らにとっては、認められるか認められないかの方が重要らしい。


「事件は三番街だったな」


「そうです」


 兵士が持っていた資料を貰いじっくりと読み込む。記されていたのは、半年前から続く行方不明事件の数々だ。


「どう思う?」


「失礼ですが、何がでしょうか」


 彼は随分、真面目な性格らしい。隊服を乱さずにしゃんと着ているし、私を前に背筋もブレることなく、肩に下げた剣はまっすぐに天井を向いていた。それでいて、分からないことは分からない、と自分の意見をしっかりと言える。確か彼は、私の隊の中で最も若い兵士だったはず。立派なことだ。


「直近の行方不明事件の現場に規則性を感じないか?」


 もちろん該当しないものもあった。その中には自殺や殺人だと後に判断されたものもある。未解決だけを抽出すると、その傾向はより強まった。御伽の国は、一から十三番街に分かれていて、事件の発生場所は番地を順繰りに回っていた。今回は三番街の番だと言える。地図を広げて、私は事件の報告順に指でさし示してやった。


「確かに、そういう見解も理解できます。いくつかの例外がありますが」


「例外は別の事件という捉え方も出来るんじゃないか?」


「捜査の人員不足の問題で未解決の殺人もあり、行方不明として処理されているのは確かです」


 曜日は週末から週明けに集中していた。まばらなのは日付にこだわりが無いのか、通報や発覚が遅れているからなのか。今は判断出来ない。けれど――。


「もしこの仮設が正しければ、説話の獣は随分と律儀らしいな」


 獣はさらう場所をわざわざ選ぶのだろうか。意図的なものを感じる。犯人が人ならば、簡単に説明がつく話じゃないだろうか。自分の犯行を気づいて欲しいだとか見せつけたいだとか、そういう動機が考えられるのだと、人の行動心理に明るい学者から以前聞いたことがあった。奇しくもそれは私の長年の経験則と合致する。


「今後、警備はどうすれば良いでしょうか?」


「大きな変更点はない。……いや、特に二番街を中心に見張りを増やそう。最低一週間は強化してくれ」


「分かりました」


 若い兵士は綺麗な敬礼をして、踵を返した。機敏な動きだ。腰に付けた短刀がからんと音を立てる。


「獣の袖引きか……」


 それは、かつてからこの国に言い伝えられていた説話だ。夜な夜な、悪い獣が若い女性の匂いに誘われて、その衣の袖を引く。引かれたら最後、獣はその女性が諦めるまでその手を決して離さない。獣は貪欲で、より若く綺麗な女を好物としている。


 説話が広がった経緯は知らないが、女性が夜な夜な一人で歩くべきではないというのは、教えとしてなんら不思議なことではない。もしくはそれに由来する事件があったかだ。それに、好物というからには食うのだろう。どういうニュアンスかは分からないが。人が己の欲望を満たすために利用するには都合のいい話だ。


 私は窓の外へ視線をやった。レンガの街並みにオレンジのガス燈が灯っている。城の下層から観ても綺麗な景色だ。私はこの国の軍の隊長として国民を守る責務がある。たとえ、上司がどれほどひどい女王であってもだ。


 若い兵士は素直に警備の強化を受け入れてくれた。しかし、現場の本音は人さらいに手を焼きたくないと思っているはずだ。隣国との関係が悪化している。大きな戦争が時期に始まるだろう。長引くはずだ。両者の兵力は均衡している。


 平和は願っても手には入らないもの。人が知恵と欲望を手に入れた瞬間から、安寧というものは御伽噺の中のものになってしまった。



 ☆私


「さらわれた女性はどうなるの?」


「うーん。殺さるのかな?」


「殺されちゃうんだ」


「食べられるのかもしれない」


「どっちなの?」


「直接、獣に聞いてみないと分からないなぁ」


 要するにピエロはこれ以上、獣の詳細について語れないらしい。知らないことを聞いても意味がないので、私は気になったことを訊ねた。


「そういえば、あなたがアリスと遊んでいたのは、あなたがアリスの義母に雇われていたからよね?」


「そうだよ」


「義母さんは、アリスのことが好きじゃなかったの?」


「どうだろう。優しさはあったよ。アリスを楽しませてあげてって僕に頼んできてくれたから。……僕らが小さい頃から友人だったのもあるだろうけど」


「幼馴染ね」


「そうだ。幼馴染だ」


 まるで自分とアリスの関係をもう一度確認するように、ピエロは私の言葉を繰り返した。


「どうしてそんなこと聞くのさ」


「私も義母だから」


「そっか。事故で記憶を失くして里親のところへ引き取られたと言ってたね」


「うん」


「寂しかった?」


 私は自分の胸に手を当てる。ピエロの質問を自問自答していた。


 ――私は寂しかったのだろうか?


 過去を失くして、同時に寂しがる理由も失くしてしまった気がする。寂しさとは懐古に近い感情だ。寄り添ってくれていた幼い思い出を懐かしく思うことが寂しさに繋がる。だけど、それを失くすということは、その分だけ心にぽっかりと穴が空くということ。それは痛みを伴うけど、そこからは血が流れてかさぶたになり、やがて穴を埋めてしまう。思い出のないまっさらな肌には懐かしさもなく、寂しさも感じなくなってしまう。


 とはいえ、里親の二人は良くしてくれた。決して裕福ではなかったが、赤の他人である私を不自由ないように育ててくれた。明るく活発的でないこの私を。それに感謝をしないのは、罰当たりだと思う。


「二人とも優しくていい人だった。本当の子どものように接してくれていたし。けど、それに答えられなかったのは私の方だと思う。距離を置いて、いつまでも敬語で話していたから」


「寂しかったのは二人の方ってこと?」


「たぶんね。それに、お義母さんは、この町が好きじゃなかったんだと思う」


「どうして?」


「いつも悲しそうに遠くを見ていたの。ここじゃない何処かを思っているような」


 ピエロは「なんとなく分かるよ」と頷いてみせる。彼は白塗りされた瞼をそっと閉じて、誰かを思い浮かべているようだった。おそらく話に出てきた頃のアリスと、私の義母を重ねたんだと思う。


 もし私が彼の話に出てくるアリスだとするなら、義母とそっくりな行動をしていたということだ。そのことを義母は喜んでくれるだろうか。

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