三章「バニーガール」
(1)
☆私
ピエロが驚いた顔をしたのは、私が「けど、お茶会も楽しそうではあると思う」と言ったからだ。
「あれほど嫌がっていたのに」と彼は声を落とす。上目遣いの目が少し可愛らしくて、少々申し訳ない気持ちになった。
「気の強そうな彼女が嫌な子だったのは分かる。だけど、やっぱりお茶会に出掛けて、舞踏会の話をするなんてこの世界には無いことだし。それに意地悪なその子たちは、そのうち痛い思いをするんじゃないかしら? そういうお約束事でしょ?」
「そういう約束をしたことはないんだけど」
舞踏会では、嫌味を言われていた方が王子様に気に入られ、嫌がらせをしていた側はそれを見て悔しがる。御伽噺とはそういうものだ。
「だって、御伽の国なんでしょ?」
「御伽の国だけど……。都合のいい話は、」
「いや、そうとも限らないんじゃないか」
話に割ってきたのはママだ。同じ空間にいて三人で会話していたのだから、割ってきたなんて言い方は失礼かもしれないけど。少なくとも、話を遮られて、ピエロはいい顔をしていなかった。
「そいつが言っているのは、一般的な御伽噺の定番のエピソードだよ」
「それってつまり、作り話ってことでしょ?」
「そうだね。けど、御伽の国はこっちの世界からすれば作り話みたいなところなんだ」
「そういうものかな?」
ピエロは目を細めた。疑いの色に双眸が染まっている。白く塗られた目尻に皺が入った。
「あんたはこっちの御伽噺を知らないからさ」
「確かに知らないね」
「いいかい、少なくとも一度はアリスの望みが叶ったんだ。あの国から出たいっていう願いがね。それはまるで御伽噺のような不思議な出来事だったろ」
「そういう表現も出来るかもしれないね」
不服そうにピエロは頷いた。ママがこちらに視線を向ける。
「つまりだ。もしかすると、この子の望みも叶うかも知れないというわけだよ」
「そういうものかな?」
「そういうものなんだよ!」
おそらくママは私を連れて帰りたいから、そんなことを言っているだろうと思う。けど、ピエロが否定しないということは、話自体はまるっきり嘘ではないようだ。御伽の国では御伽噺のような出来事が起こる。ママのその発言は、現実に退屈していた私の胸をワクワクと弾ませた。
「やっぱり、ちょっと行ってみたいかも」
「そうだろ! そうだろ!」
ママの声が弾む。それを聞いてピエロが声を上げた。
「待ってよ! 僕の話はまだ途中だ。アリスの記憶が戻るかもしれないんだから、最後まで話を聞いてくれよ! そういう約束だったろ」
「そうだったね」
ピエロの話を最後まで聞いてから判断をする。そういう約束で聞き始めた話だった。うっかり忘れてしまっていたけど。必死なピエロの言うことを無視するのは申し訳ない。それにピエロが戻って欲しくないという理由を知りたくないわけじゃないから。暗かった人生をこれまでずっと我慢してきたのだ。今しがた彼の話が終わるまで待つくらいわけない。
「次は何を話そうか。……そうだ、あのうさぎの耳を着けた彼女が現れた日だ。あそこから事が大きく動き出したんだ」
「うさぎの耳って?」
「さすがに本物じゃないよ。カチューシャみたいなものを着けていてさ。……あとは露出が多かったかな?」
ピエロの話を聞いて、私はここに入って来る前、摩耶と一緒にバニーガールを見たことを思い出した。ピエロの登場でうっかり忘れてしまっていたけど。
「それってバニーガール?」と私が訊ねると、「バニーガール?」とオウム返しをしながらピエロが小首を傾げた。
「あなたが言っているうさぎのカチューシャを着けた女性のこと」
「そういう人なの?」
「そういう人というか。その格好のことをそういうんだけど」
御伽の国にはバニーガールという概念は無いのかもしれない。……いや、御伽の国で彼はそのバニーガールを見たと主張しているのだから、そういうデザインの服はあっても特別に名前はないということかもしれない。日本には色の名前が沢山あるが、海外では少なかったりする。その国の文化が何に重きを置いているかだ。例えば、御伽の国では着るものすべてを総称して服としか呼ばないのかもしれない。
ただ、私と彼の間に単純な認識のずれが生じている可能性も否定できないので、確認のため、私はカウンターにあったメモ紙に簡単なバニーガールの絵を描いてみせた。
「へぇ、あんた絵が上手なんだね」とママが私の手元を覗き込み感心した声を出す。
「昔から絵を描くのが好きだったから。……人並みには描ける」
「いや、中々のものさ」
絵のことを褒められるのはなんとなく久々な気がして、私は少しだけ照れくさくなった。ママは完成しかけの絵を指差して、「そうだ、それがバニーガールだ」と頷いた。
バニーガールの話になったせいか、絵を褒められたせいか、どうしてか私は昔のことを思い出していた。義母と出会った時のことだ。
バス事故の後、親が見つからなかった私は、児童養護施設に預けられた。そこで里親が見つかるのを待つことになったのだ。記憶も名前もなく、決して人に懐くタイプでないこんな私を、施設の人は本当に良くしてくれていた。両親のいない子どもの面倒を見るのは慣れているのだろうけど、記憶がなく何もかもが恐ろしく感じていた私の心がほぐれたのは、紛れもなく施設の人たちのおかげだ。
今、思えばあそこは居心地が良かった気がする。思い出で美化されているだけかもしれないけれど。ここにならずっといても良いかも知れない。そう思い始めていた頃、私を引き取りたいという人が現れた。それが義母だった。
引き取り手が見つかったことを施設の人はとても喜んでくれた。私の中には施設に留まりたい思いもあったけど。いつまでもそこにいれないのも分かっていた。
「この子がそうなの?」
義母は、一緒に来ていた女性にそう訊ねていた。恐らくその女性の紹介で来たのだろうと私は思った。綺麗な人だった。まるでうさぎのような白い肌をしていた。「ええ。そうよ」と彼女は頷く。
「そう……。良かった、ようやく会えた」
義母は私を抱きしめた。歓迎のつもりだったのかもしれない。私は上手く心を開くことが出来るだろうか、と不安になっていた。結果として、上手くはいかなかったのだけど。でも、見ず知らずの私を育ててくれたことは感謝している。
「あなたの名前はアリスよ」
義母は私の顔を見てそう言った。「アリス?」と、私はいつでも馬鹿みたいにオウム返しをしている。
「そう。……アリスって名前をつけてあげる。嫌?」
「ううん。なんとなく懐かしい響きがする」
「そう。それは良かった」
義母は優しい笑みを浮かべていた。その後ろで、義母の付き添いの彼女も微笑んでいた。その笑みを見るのは初めてでは無い気がした。
回想はそこで打ち切られた。今となっては、義母の隣にいた彼女の顔は思い出せない。随分、昔の出来事だから仕方ないけど。彼女の笑みを見たことがある気がするのだって、きっと事故の影響で記憶が錯乱していたからだ。
私は現実を確かめるように、空咳をして、ピエロに訊ねた。
「ピエロさんが見たのもこのバニーガール?」
「うん。僕が見たのもそういう服装の人だった」
「まったく、あんたはバニーガールも知らないのかい?」
「初めて聞いたよ。バニーガールなんて言葉。それにこんな服装の人を見たのもあの時が最初で最後だ」
「あんたもすっかり大人だろ?」
「大人っていうのは自覚もなしに人の大切なものを奪っていく人のことだ。僕はそんな事しない」
「子どもの考え方だね」
「そら、大人じゃない」
ピエロが威張っている意味は分からなかったが、話を聞く限り彼も私と同じくらいの歳のはずだ。二十歳前後という年齢は大人なのか子どもなのか。とても曖昧なラインに思えた。もしくは、曖昧なラインであって欲しいと私は願っているのかもしれない。
御伽を信じられる幼い心が、まだ自分の中にいることを恥ずかしく思わなくていいように。
★アリス
お茶会を抜け出して、僕らは丘の方まで戻って来ていた。夕方までは、あの喫茶店にいるつもりだったけど、予定よりも随分早く終わってしまった。青い空を見上げれば、太陽はまだ真上の方にあった。
「ごめんね」
僕が謝れば、前を歩くアリスは小さく頷いた。怒っている雰囲気は無かったけど、申し訳なくて僕は泣きそうになってしまう。
「こんなつもりじゃなかったんだ。もっと楽しいお話をしているものだと思っていた。けど、アリスの言う通りだったかもしれない」
「別にあなたのせいじゃない。悪いのはあの子でしょ? 他のみんなは私を傷つける意思は無かったはずだもの。あんな子がいると知って連れて行くようなあなたじゃないことくらい分かってる」
「そうだけど。……ごめん、ごめんよ」
背中越しに、アリスがため息を漏らしたのが分かった。僕の謝罪がくどいことを嘆かわしく思っているのかもしれない。傷つけたことの罪悪感に囚われ続けるのは、こちらの一方的な気持ちよさだ。アリスが「もういい」と言うのなら、僕はこれ以上、謝罪の気持ちを表に出すべきではない。懺悔は自分の中で行えばいい。忘れようとする彼女を巻き込む必要はないのだ。
穏やかな風が紫色の花々を揺らしながら、ざっと丘の上から降り注いできた。コスモスの甘い香りが鼻をかすめる。ここは喫茶店よりも心地が良い。アリスが行きたくなかった理由がなんとなく僕にも分かった気がする。
もちろん、アリスはここのことが好きじゃないのかもしれないけど。単純にあそこはここよりも嫌いなところなのだ。それに、退屈に感じるここの景色は、アリスにとって嫌いになれないものなのかもしれない。
僕がコスモスの香りをかぎながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、穏やかだった風がまるでくしゃみでもしたように急に強くなった。どっと激しい音が鳴り、草木が悲鳴を上げる。アリスは悪戯にめくれそうになったスカートを手で抑え込んだ。
僕はとっさにアリスから目をそらす。その時だ。僕の視界の端で、激しい風で規則的に靡いていた草木がカサカサと微動した。それは明らかに何者かが潜んでいる動きだった。
「誰?」
僕はとっさにアリスの前に立った。手を大きく広げてアリスを守る。「どうしたの?」とアリスに訊ねられて、「あの木の向こうの草の中に誰かいる」と僕は声を震わせた。
突発的に吹いていた風が止んだ。それでもやっぱり草木がカサカサと揺れている。その場で数秒、ぱっと止んだと思った次の瞬間、その揺れはすばしっこい小動物のように僕らの方へと近づいて来た。それからすぐに僕らの少し手前で静止する。僕らは一歩も動けなかった。声も出せない。出したところで周りに助けてくれる大人なんていないけど。アリスの家まで走ろうか、町に逃げて戻ろうか、と思考が僕の頭の中を巡る。けど、どっちもだめだ、家も町もまだ随分距離がある。
躊躇しているうちに、草の動きが激しくなった。何かが飛び出してくる。僕はとっさにそう思った。
予感は的中した。ちぎれた草花が舞い上がる。アリスが「きゃっ」と悲鳴を上げた。一歩後ずさりをした僕の視界に飛び込んできたのは、うさぎの耳のカチューシャを着けた女性だった。仁王立ちで腰元に手を据えて、僕たちを見下ろしている。顔立ちはとても端正だ。胸も大きく顕になっているし、足も網タイツを履いていて、僕は目のやり場に困った。
「アリス?」
うさぎの耳の彼女に訊ねられて、アリスは怯えながら頷いた。
「そう。あなたがアリスね。探したわ」
「あなたは誰?」
「私が誰かなんて関係ないでしょ?」
そう言って彼女は口端を緩めた。こちらが敵意をむき出しにした顔をしていたらしい、「そんな顔しないで」と彼女は僕らに視線を合わせるようにかがむ。
いやでも胸の谷間に視線がいった。白く柔らかそうな肌が、黒いレザーの生地に押されて強調されている。僕がおろおろとしていると、アリスが広げていた僕の手を押しのけた。
「ねぇ、あなたは何者?」
「強いて言えば、あなたを不思議な世界に
「不思議な世界?」
「そう、言い換えれば、あなたの願いを叶えられる者、とも言えるかもしれないわ。もちろん、あなたが望めばだけど」
「待ってアリス、この人怪しいよ」
僕は彼女に近づくアリスの華奢な肩を掴んだ。うさぎの耳の彼女は怪訝な顔をしてアリスを止めた僕を見つめる。
「坊やとは話をしていないんだけど?」
喫茶店に続いてこれだ。どうやら僕はアリスにひっつく邪魔な存在らしい。けど、引くわけにはいかない。
「僕はアリスの世話をする為に雇われてる! アリスを危険な目に合わせるわけにはいかないんだ」
「あら、勇敢なのね」
彼女はまた微笑みを作った。細い腕をすっと前に出して、僕らの前で指を鳴らす。ぱっと手の中から一輪の花が出て来た。この辺りに咲いているものじゃない。紫色の綺麗なサフランの花だった。
「私は悪者じゃない。アリスを痛い目やひどい目に遭わせようなんて思ってないわ。この花が証拠」
微笑みに確かに敵意は無いように思えた。でも瞳の奥に何かを企んでいるような、うまく言葉では言い表せない不思議な予感がした。
「私を誘うってどこへ?」
「ここじゃないどこかよ」
「ここじゃない、それってどういうこと?」
「今はまだ話せない。また来るわ。その時はたくさんお話をしましょう」
彼女がすっと身体を小さくすると、瞬く間にその姿が白いうさぎに変わってしまった。ヒクヒクと耳を動かすと、飛び跳ねるように丘の向こうへと消えて行った。
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