(2)

 ★アリス


 部屋は、夕日の赤で燃えるように染まっていた。ソファーに腰掛けて、ぼんやりとアリスは天井を見つめている。けど、その表情は昨日までの退屈でどうしようもないものとは少し違っていた。


「アリス、どうしたの?」


 ローテーブルに頬杖をついて僕はアリスに語りかける。けど、僕の声なんか聞こえていないらしく、彼女はその場でバタンと倒れ込んでしまった。


「不思議な世界ってどこだろう」


「さぁ? ここじゃないどこかって言ってたね」


「ここじゃない別の世界があるの?」


「そういう捉え方もできるけど。別の世界があるなんて受け入れがたいよ。例えば、言い回しの問題じゃないかな? この町じゃないどこかってことかもしれない。アリスの知らない町のことだったりね」


「私の知らない町?」


「だって、アリスはこの町で生まれて、この町で育っただろ? だからアリスはこの町しか知らないじゃないか」


 キョトンとした双眸がゆっくりとこちらを向く。その胸には、クッションが握りつぶされていた。


「どこも似たような町でしょ?」


「そうかもしれない」


 アリスの言う通り、この世界は同じような国が点在している。国を仕切っているのは王族か貴族。町の中心には大きな城があって、彼らはそこに暮らしている。町の様子も国によって違うけれど、大きくは変わらない。レンガ造りか石作か、個性を持ったカラフルな町や真っ白な町もあるけど。どれも想像できる範疇のものだ。


「けど、風景だけってわけじゃないかも。その国の制度だったりとか」


 良い国と悪い国があって、自国の民のことをしっかり思いやる王様もいれば、自らの懐を肥やすだけの王様もいる。うさぎの耳の彼女が言っていたのは、制度的に素敵なところなんじゃないだろうかと思ったのだ。


「御伽の国よりも素敵な国があるってこと?」


 アリスに問われて僕は考える。御伽の国はどちらだろうか、と。風の噂を聞く限り、貧困に陥った国民を救済しないようなひどい王様もいるらしいから、それに比べれば幾分もマシだろうと思った。アリスの義母や僕のように、家族が戦死しても飢えに死んでしまう国民がいないのがその証拠だ。


 大人たちの話によれば、先の戦争で御伽の国が負かしたのは悪い国だったらしい。もちろん、僕は打ち負かしたという国のことを話でしか知らないけど。それに、その国の人たちが今どういう生活をしているのかも。


 ――不透明なことに目を瞑り、表向きだけを見れば。と心の中で枕詞をつける。


「御伽の国は悪いところではないかもしれない」


「そうね。悪い制度を取っている国とは思えないわ。これ以上にいい国があるのも認めるけど。その国は不思議な世界と言えるほど、ここと差がある国なの?」


 不本意ながら、と顔に書いてあるのが少しだけ可笑しい。それを口にすれば怒られそうだから黙っておくけど。


 ただ、アリスの言うことに賛成だ。御伽の国を優秀な国だとすればするほど、ここより素晴らしい国があったとしても相対的に不思議な場所とは思えなくなる。荒んでいたという敗戦国のような国から、御伽の国が桃源郷のように見えることはあるかもしれないけど。


「だから、お姉さんが言っていたのは、そういうことじゃないと思う」


「それじゃどういうことなの?」


「だから、ここじゃない世界。別のどこかへ繋がる場所があるのよ」


「夢みたいな話だよ」


「そうよ、何がいけないの? 私は本当に知らない世界へ行ってみたいの」


 僕にはアリスの気持ちが分からない。もちろん、お茶会にいた気の強いあの子と仲良くしろ、だなんて言うつもりはないけど。害のない子たちとは仲良くしながら、僕と遊びながら、大人になっていって欲しい。当たり前のことをして、当たり前のような幸せを手に入れて欲しい。僕はそう願っている。けど、アリスはそれを拒んでいる。


「その知らない世界ってどこさ?」


「それをあのお姉さんが教えてくれるんでしょ?」


「……怪しいよ!」


「どうして、そんなこと言うの」


「だって――」



 ☆私


「だって、うさぎに姿を変える人を怪しまない方がおかしい!」


 また話を途中で遮ってしまった。ピエロは不快な顔は一つもせずに静かに首を振る。


「そこは大した問題じゃないよ」


「十分、大した問題だと思うけど?」


「姿を変えるくらい御伽の国ではありえないことじゃない。そりゃ珍しいことだけどね。手から花を出したのだって魔法の一種だろ?」


 手から花を出すくらいマジックでなんとでもなる。私はとっさに出てきそうになった野暮で幼稚な反抗心を引っ込めた。姿を変える魔法があるというのだから、手から出した花だって魔法の可能性が高いじゃないか。魔法があれば、わざわざタネなんて仕掛ける必要がないから。


 けど、南瓜の馬車は出さないくせに、うさぎに姿は変えられるものらしい。少しだけ納得いかない。それを指摘すれば、ピエロは「うーん」と困ったように唸った。


「南瓜を馬車にするのは見たことがないけど、人がうさぎになるのは見ちゃったから。見たものは否定できないでしょ?」


「まぁ確かに」


 まだ不服そうな私を見て、彼は続ける。


「たとえば、芋虫と蝶々は別のものだと思っていたのに、ある日、蛹から蝶々が羽化するところを見たとする。すると、僕は芋虫が蝶になるものだと信じるしか無いんだ。けど、おたまじゃくしがカエルになるところはまだ見たことがない。そうなるとそれは信じられないことでしょ? そういう話だよ」


 私はなんとなく納得してしまう。同時に噂に似ているなと思った。噂はあくまで噂。自分の目で確かめるまで信じてはいけない。本当のことのようにテレビや雑誌で扱われていても、間違っていたなんてことはざらにある。カエルとおたまじゃくしは、例え話で正しいことだけど、ピエロにとって南瓜の馬車は、私にとっての芸能スキャンダル程度にしか過ぎないらしい。そうだとは言われているけど、実際は見たことはない。だったら信じられないことだ。


 もっと言えば――、思いついたのは宇宙人の例え話だった。この宇宙は限りなく広いのだから宇宙人はいなければおかしいという話だ。確かに確率的には存在しているらしいが、私達がそれを観測する手段はない。だったら、私達にとって、宇宙人はいないものと同じでは無いだろうか。もし、目の前に現れれば信じるしか無いけれど。


 魔法使いにだって出来ることと出来ないことがあり、その判断を魔法の使えないピエロは出来ない。純粋にそういうことなんだろうと思った。


「アリスはバニーガールに夢中だったってわけね」


「うん。この日からだよ。アリスの様子が変わっていったのは」


「それは前向きなもの?」


「どうだろう。けど、少なくとも僕はそう捉えていたかな。あんな表情のアリスは見たことがなかったから」


 ★アリス


「だって――」


 僕は言葉を詰まらせた。アリスの目がキラキラと輝いていたからだ。その双眸を見れば、僕が感じた一抹の不安なんて些細なことのように思えた。


「……アリスは、あのうさぎの耳の彼女にもう一度会いたいの?」


「うん。話を聞くだけなら危なくないでしょ」


「そうかもしれないね……。でも、どうして?」


「……うまく言えないけど」


 身体を起こしたアリスは、立ち上がると僕のそばへと寄ってきた。そっと僕の隣に腰掛ける。


「みんなと同じように、私にも明るく振る舞って欲しいんでしょ? いつもあなたが私に優しくしてくれるのはそれが目的」


「目的と言われるとやましく聞こえちゃうけど。否定はできないよ」


「私だって明るく生きられたら幸せだって思う。でも、私は下手くそで。そんな私にあなたはいつも手を貸してくれて……それが嬉しかった。……彼女の話を聞けば、変われる気がするの。不思議なんだけどそう思う。だから、お願い。今回も私に付き合って。知らない人だから危ないかもしれないのは分かってる。でも、もしもの時は守ってくれるんでしょ?」


 もちろんそのつもりだ。同時に脳裏に理髪店で聞いた人さらいの話が過ぎった。――獣の袖引き。詳しい話を僕は知らないけど、あれは少し前に流行っていた説話だ。怪談話の一種と言ってもいいはず。それを真面目に捉えるのは些か馬鹿らしい。もし誰か悪いことを考えているやつがいるとするなら、彼女は違う、なんとなくそんな気がした。


「……お願い」


 アリスの頭が僕の肩に触れる。――甘い香り。脳髄をグラグラと揺さぶるそれは、お花畑よりも良い香りだった。

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