(3)

 ★アリス


 翌日、僕がアリスの家に行くと、彼女は玄関の前で待っていた。


「おはよう」


 普段と態度が違うことを自覚しているのか、アリスは照れくさそうに軽く頭を下げた。よそ行きの紺色のスカートがそよ風で靡いている。


「おはよう。アリス、出かけるの?」


「うん。町にじゃないけど。外にいた方があの人に会えると思って」


 昨日の今日でアリスを町に連れ出す気にはなれなかったので、アリスからこうして外へ出てくれることが嬉しかった。その理由が、うさぎの耳の彼女を探すことだとしても。一日中、家でゴロゴロとしているよりかは良い。


「丘の方へ行けば、あの人に会えるかな?」

 

「どうだろう? どこにいるのか分からないから」


「ここへ来るまでに見なかった?」


「うーん。見てないなぁ」


 もちろん注視はしていなかったけど。もし、昨日の去り際のようにうさぎの姿に変わっていたなら見つけづらいな、と思った。あの露出の多い可笑しな格好ならひと目で分かるのに。


 アリスは残念そうに眉根を下げる。けど、うさぎの耳の彼女もアリスのことを探していたのだから、僕が一人でいる時に姿は見せないだろうとも思った。


「アリスが探せば出て来てくれるんじゃないかな?」


「そうかな?」


「そうだよ。彼女はアリスに用があるんだもの」


 アリスは嬉しそうに微笑みを浮かべた。クスクスという声を隠すように口元に手を添える。


「それじゃ、あの人を二人で探しましょう!」


「う、うん」


 不思議そうな色をしたアリスの双眸がこちらをじっと見つめる。「どうしてそんな反応をしているの?」と言いたげだ。けど、それはそっくりそのままお返しする。アリスが微笑むところなんて見るのは久々だったから。


 アリスのこういう顔を見たのはいつ以来だろう。元々よく笑う子では無かったが、僕と遊んでいる時は笑顔を見せてくれることもあった。けど、繰り返される日常が、彼女を退屈させ、次第に笑顔を奪っていった。それは概ね僕に責任がある。道化師であるのに、その役目を果たせず、彼女を笑顔にさせられなかったから。


 彼女が笑顔でいてくれるなら僕は喜んでうさぎの耳の彼女を探す。だって、役割はあれど、僕がアリスを笑顔にしなければいけないなんて決まりはない。僕はただ、アリスに笑顔でいて欲しいのだ。


「どこを探せば彼女はいるかな?」


「とりあえず、昨日、彼女に会ったところに行ってみようか」


 *


 丘は温かな陽光が降り注いでいた。昨日と変わらずいい天気だ。真っ白な月が雲一つない空に浮かんでいる。まるで空に白い穴が空いてしまっているみたいに見えた。心地の良い風を浴びながら、僕はキョロキョロと辺りを見渡すアリスをぼんやりと眺める。


「いそうにないや」


 しばらくそうやって探していたが、うさぎの耳の彼女を見つけることは出来ず、アリスは、がっかりして肩を落とした。丘から町までは見晴らしも良く人がいればすぐに分かるのだけど。残念なことにこの辺りに人のいる気配は無かった。


「昨日みたいに、うさぎの姿なら気配がないのも仕方ないよ」


「確かにそうかも」


 僕は探していても見つからないかもしれないと思い始めていた。というのも、うさぎの耳の彼女は去り際に、「また来るわ」と言っていた。それは能動的には会うことは出来ないと言われているのと同じだ。こちら側に選択権はない。


 探し疲れたのか、丘の中腹にアリスは腰を落とした。ちょうど、大きなクスノキが生えていて、その幹にもたれかかる。僕もその隣に腰掛けた。


「疲れたの?」


「ちょっとだけね」


「普段、外で遊ばないからだよ」


「あら嫌味?」


「そういうつもりじゃない」


 気に障る言い方だったかもしれないと思いアリスの方を見遣ったが、彼女はなんともない顔をしていた。どうやら冗談だったらしい。風に揺れる前髪を小さな指先で弾いている。猫じゃらしで遊ぶ子猫みたいだ。


 僕はそのままじっとアリスの横顔を見つめていた。息を吸う度に小鼻が膨らんでは萎んで、前髪を撫でる穏やかな風が煩わしいのかヒクヒクとまつげが動く。梢が作り出す影が白い肌に奇妙な形の影を落としていた。


「何?」


 はっと我に返って、アリスの視線がこちらを向いていることに気がついた。「べ、別に」と僕が慌てて言葉を返せば、「本当に?」とアリスの口端が釣り上がった。


「本当さ」


「ふーん。それじゃ、どうして手伝ってくれたの?」


「手伝うって何を?」


「うさぎの耳の彼女を探すのを」


「そりゃ、僕はアリスの世話係だから」


「それだけ?」


「……あとは、この仕事は頼まれたことだし」


 アリスを前に、僕はそうとしか答えられない。これ以上の答えをアリスは求めているのだろうか。こちらを見つめる双眸から逃げるように視線をそらす。僕がアリスを手伝う理由は単純明快だ。だけど、その本心は恥ずかしくて言えやしない。


「まぁいいけど」


 アリスは諦めたのか、スッと前方に視線を戻した。ドキドキと心臓の鼓動が高鳴っているのを誤魔化そうとして、僕はふっと一息吐いてみせる。


「なんだか眠くなっちゃった」


 きっと温かい陽だまりのせいだ。直接、陽光を浴びれば少し暑いくらいだけど、クスノキの梢に遮られた木漏れ日は丁度よい心地になっている。


「眠るといいよ。目が覚めると向こうから会いに来てくれているかも」


「でも、私だけ眠るのは悪いから……」


「僕は昨日、ぐっすり寝たから眠くないよ」


「……けど……、」


 アリスの言葉がとぎれとぎれになって、健やかな寝息に変わっていく。クスノキの幹に支えられていた彼女の首がゆっくりとこちらに傾いた。


「おやすみ」


 アリスからの反応はない。僕の肩の上でアリスはすっかり眠ってしまった。



 *



 一時間ほど経った頃だろうか。昨日は良く眠ったと豪語していた僕だったが、ポカポカの陽の光を浴び続けて、さすがに眠くなってきていた。隣で眠るアリスの寝息とどこからか聞こえる遠い声が混ざり合う。ウトウトしてしまい夢と現実の区別が曖昧になってしまっていた。意識はどこか懐かしい声に吸い寄せられるように、夢の中へと引きずり込まれていく。


「ねぇ、あなた」


 真っ白な世界で女性の声が聞こえた。徐々に景色がクリアになっていく。温もりのない茶色い木の板。ぼんやりとして意識の中で、見えているのは家の天井なんだろう、となんとなく思った。どうやら僕は夢の中で横になっているらしい。


「舞踏会に行くことになったの」


「どうしてお前が」


 女性に返事をしたのは父の声だった。記憶に残っている父の声よりも少々若い。咄嗟に僕は、これは赤子の頃の記憶なんだと思った。だとすれば、父と話しているのは母なのだろうか。


「今月は参加希望者が少ないらしいの」


「最近は物騒だからな。みんな外に出たがらないんだ」


「人が少な過ぎるとね。招待客もいる中で国の面目もあるからって」


「なるほど。国が考えそうなことだな」


「そう言われると断るに断れなくて」


 恐らく、父が国の兵士をやっていたからだろう。母は気を使ったらしい。


「しかし、お前が行く必要はないだろう」


「心配しなくても、隊長さんにはお話しますし、あくまで若い子達の世話人という立場です」


「……まぁ、隊長が把握してくれているなら安心か」


「それに舞踏会は豪華なお食事も出るっていうじゃありませんか」


「一度、警備をしたことがあるけど確かに豪勢だった」


「そこは少し楽しみにしています」


「まったく。それが本心かい。……だったら、帽子を手配しておくよ。世話人と言えど、ドレスコードは必須だろ?」


 父は少し悲しげに笑っていた。食事を楽しみにしているという母の言い分は、自分をかばってくれているものだと理解していたからだろう。


 それにしても、隊長とは誰のことだろうか。恐らく軍の階級のことだろうけど、この国にそういう役職があるのを僕は聞いたことがなかった。


「そう言えば、明日からは暫く休暇を貰ったよ。子どもを育てている君の助けをしなさいって」


「隊長さんは本当に優しい方ですね」


「あぁ、真面目で誠実で、国民のことを一番に考えてくれている。尊敬しかないよ。……その子はすっかり寝ているのかい?」


「えぇ、先ほど眠ったばかりです」


 母の影が僕の顔に落ちた。天井を覆い隠すように母の輪郭が浮かぶ。だけど、どれだけ目を凝らしても表情を捉えることは出来なかった。僕の無意識の奥底に母の記憶は存在していないらしい。


 母の手が僕に伸びる。背中に伝わった温もりが、僕の身体を持ち上げた。僕をあやす父と母の声、その声は次第に遠くなる。その声をかき消していくのは、僕の隣にいるアリスの寝息だ。柔らかい母の手の感触も次第に草原のひんやりとした芝生に変わっていった。そっと手を引かれるように、僕の意識は現実へと引き戻されていく。


「お嬢ちゃん」


 アリスの寝息に混じり男性の声が聞こえ、不意に僕は目を開いた。視界に飛び込んできたのは、中腰でアリスを見つめる男性だった。僕が驚きのあまり声を出せずにいると、彼はこちらに気づき口元にそっと指を据えた。


「起こしてしまったね」


 優しい口調だった。年齢は五十くらいだろうか。見慣れない黒い服装だ。首元に巻き付いた布が胸元に垂れ下がっている。男性はこちらに視線を合わせると、アリスを起こさぬように囁くような声で言った。


「うさぎの耳を着けた女性がここに来なかったかい?」


「うさぎの耳? ……それなら、昨日来たけど」


「そうか。……やはり」


 深刻そうな顔をして、彼は考え込むように俯いた。僕が、「彼女がどうかしたの?」と訊ねれば「ずっと探しているんだ」と彼は答えた。


「アリスも彼女を探している」


「なるほど。けど、それはあまりおすすめ出来ない」


「どうして?」


「危ないからだ」


 おっかない遊びをしている子どもを警告するようだと思った。別に火遊びをしているわけでも、他人の家の屋根の上に乗って遊んでいるわけでもない。見ず知らずの男性に咎められる理由なんてないはずだ。


「彼女から危ない雰囲気はしなかったよ」


「そうか」


 注意が伝わらなかったことを嘆かわしく思っている様子は無かった。本当に僕らに危険を伝えるつもりがあるのか疑いたくなる。ただ淡々としたその態度のせいか、むしろ昨日の彼女よりも目の前の彼の方が怪しく感じていた。相手が大人の男性だというのもあるだろうけど、眠っているところに近づいて来たことが僕の警戒心をさらに高めていたはずだ。


「おじさんは何をしに来たのさ」


 僕は抱きしめるようにアリスの肩をぐっと掴んだ。警戒心をむき出しにして、肩越しに男性を睨みつける。


「強いて言うなら忠告だな」


「忠告? うさぎの耳の彼女が危険だってこと?」


「結果的にそうなってしまったらしい」


「結果的にってことは、本来は違ったってことだ」


「そうだな。もう接触しているとは思わなかったんだ。それも仕方ない。ここまで随分時間がかかってしまった。ここへ来るのにも障害は多い上に、彼女の子どもが誰なのか分からなかったから。帽子屋に会うことが出来て、ようやく分かったんだ」


「帽子屋? どういうこと?」


「君たちに説明しても理解してもらえない」


 僕たちに理解できないとはどういうことなのか。馬鹿にしているニュアンスは感じなかった。本当に理解してもらえないと思っているのかもしれない。


 男性は膝に手をついて立ち上がった。背は大きく体躯もしっかりとしている。屈強な兵士のような印象を受けた。


「お嬢ちゃんに伝えておいてくれるかな。――ここにいるべきだ、と」


「ここにいるべき?」


「そうだ。欲望や誘惑に惑わされてはいけない。見える景色を変えてもらうことでしか己の存在を肯定できないのは弱い者のすることだ」


「それが本来の忠告なの?」


「どうだろうな。ただ、運命への抗い方を間違えるなとは言っておく。それから、君も忠告しておくよ。必ず裏があることばかりじゃない。悪意なき巧みな言葉ほど、信じられる上に美しく見えるものはないんだ。彼女を守ることがどういうことなのかをちゃんと考えるんだ」


「僕は考えているよ。アリスの為に動いているつもりだ」


「思い上がるんじゃない」


「あなたにそんなことを言われる筋合いはないよ」


「そうだな。すまない、少し昔を思い出した。長居は出来ないんだ。誰かに見つかるといけない」


 彼が浮かべた表情が一瞬だけ切ないものに変わった気がした。でも、それを確かめる隙きもなく、男性は慌てて丘を下って行った。



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