(6)

 ★御伽の国のアリス


 後ろから彼が何かを叫んだのが聞こえた。足がもつれかけていた私は彼女に引っ張り上げられて、なんとか体勢を立て直す。ただ懸命に足を動かしながら、考えていたのは、なんとも呑気なことだった。


 私の手を引くウサギの耳の彼女の手はとても暖かい。信頼、優しさ、そういう言葉がよく似合う手だ。もしかすると、母の手というのはこういう手なのかもしれないと思った。私に母の記憶なんて無いのだけど。だからこれは妄言だと思う。母の手はこうであって欲しいという、私の淡い願望なのだ。


「アリス、彼に構わず走るのよ!」


 しょうもない思考を打ち切ったのは、うさぎの耳の彼女の言葉だった。私は顔を上げる。正面に兵士が一人、その奥にはスーツの男性もいた。彼女は正面の彼らのことを言ったのだろ思った。けど、二人とも明後日の方向を向いている。それに私に振り返る余裕は無かった。目的の場所が目の前にあったから。だから、彼が着いてきていないことに気がついたのは、鏡に飛び込んでからだった。


 走って来た勢いのまま、鏡に飛び込めば、奇妙な音が耳朶を打った。水面に小石が飛び込むような繊細で、滝壺に水が落ちていくような豪快さのある音だ。身体は吸い込まれる。冷たい何かが身体を包み込んでいく。ふっと全身が軽くなった。浴槽に頭まで潜ったような静けさ。風船を着けて空を飛んでいるような感覚。それから一気に音がやって来た。身体が重くなっていく。ピンクだとか黄色だとか、今まで感じたことのない強烈な光が視界を覆った。


「アリス、」


 そう声を掛けられて、私は瞼を開ける。先程までの強烈な光は消え去り、物静かで薄暗い建物の中にいた。


「ここは?」


 彼女に手を引かれて、身体を起こす。見渡せば、そこには穴が一つ空いていた。覗き込めば、暗く深くどこまでも闇が続いていた。どうやら私はここから出てきたらしい。辺りには他に何もない。


「これを被って」


「帽子?」


「この格好は目立つから、顔を隠しておかないといけない。それにあなたは帽子が良く似合うのよ」


「どうして?」


「知る必要のないことだったかもしれないわね。忘れて、」


 うっかり口を滑らしたと言いたげに彼女は口を噤んだ。彼女自身も鍔の大きな帽子を被り、正面にあった扉の方へ向かった。臙脂系のワインのような色の扉だった。


「あなたが望んでいた世界よ。さぁ、外へ出ましょう」


 人気の少ない建物の中を降りていく。舞踏会のあった会場のような半円状の螺旋階段が一階まで続いていた。先程までいた舞踏会とは打って変わった静けさと薄暗さ。閑散としているのは、昼間だからかもしれないと思った。きっと舞踏会を行う時間ではないのだろう、と。暑い日差しが私の目を眩ませる。徐々になれてきた視界に広がったのは、今までに見たことのない世界だった。


 お城のような大きな建物の数々、通り過ぎていくお祭りの日みたいな人混み。私の知っている世界とは明らかに違う風景。それは彼女が話していた通りのものだった。


 通り過ぎる人たちは横目に私達のことを見ていた。ドレスが物珍しいのかもしれない。この街の人たちはまた違った格好で着飾っていたけど。浮いた存在になった気分だ。別世界から来ているのだから間違ってはないのだけど。


 彼らはあの鏡の存在、知っているのだろうか。こちら側は穴だったけど。知っていて、御伽の国に来ないなら、やっぱりこっちの世界の方が、居心地がよく素晴らしいものなんじゃないだろうか。それをバレたくないから、御伽の国は鏡の存在を黙っていたんだ。それにこっちの世界から御伽の国へ人がやって来ないのも納得がいく。もちろん、知らないだけの可能性もあるけど。この世界に希望を抱いている私は、後者の考えをすぐに退けてしまった。


「アリス、行きましょう」


「どこへ?」


「あなたの理想を手に入れに」


「私の理想?」


「明るく素敵な人生を送りたいんでしょ?」


「そうなれば素敵だけど」


「私はあなたの願いを叶えられる」


 また私は彼女に手を引かれた。建物を飛び出し、固く黒い地面を蹴っていく。日差しの照り返しが目に痛い。今までに嗅いだことのない香りが辺りに充満していた。鼻の奥をジリジリと刺激してくる激しい香りだ。


 そこでようやく私は彼が着いてきていないことに気がついた。けど、彼がどうなったかよりも、目の前の見たことのないものへの好奇心が勝ってしまっていた。退屈だった日常が急に華やかになったのだ。彼のことが気にならないのも仕方なかった。良くはしてくれていたし、感謝もしているけど、彼はあくまでただの世話係だ。


「あの上を通っているのは?」


「あれは電車っていう乗り物よ」


「こっちにはとても大きな建物があるわ!」


「あれは百貨店ね」


 街には不思議なものが溢れていた。「あれは何?」と指をさせばきりがない。ビルと呼ばれる建物の上には、鏡のあった広場と同じ石像が置かれていた。『自由の女神』というモニュメントらしい。


「けど、これはレプリカ。偽物よ。本物は別の場所にあるの」


「御伽の国のが本物ってこと?」


「うーん。あれも偽物かな。こっちの世界はずいぶん広いから」


「そうなんだ」


 彼女に連れられて、私は車と呼ばれる乗り物が沢山走っている通りに出た。「どうするの?」と訊ねれば、「バスに乗るのよ」と彼女が言う。


「バス?」


「乗り合いの大きな馬車だと思えばいいわ。馬が引くわけじゃないけど」


「どうしてそれに乗るの?」


「明るく素敵なあなたを手に入れるためよ。獲物の目星はつけてあるの」


 明るい私を手に入れるとはどういうことだろうか。目星だなんて、まるで絹織物を買い付けるような言い回しだ。店頭にいくつかの性格が並んでいて、「これをください」というような。もしかすると、私自身を染めてくれるのかもしれない。そういうことの比喩表現なら納得がいく。


 他の車なるものとは大きさが明らかに異なる乗り物がやって来て、私達の前に止まった。誰も触れることなく扉が勝手に開く。彼女に連れられて私はバスに乗り込んだ。空いていた後ろの席に腰掛ける。


「手に入れるって一体どうやって?」


「入れ替わるのよ」


「入れ替わり?」


「そう。素敵な人生を送っている子を見つけてあるから。その子のフリをして生きるのよ」


「中身、心を入れ替えるってこと?」


「そういうことよ」


 うさぎや人間に姿を変えられる彼女なら、そういうことも出来るのだろうと不思議には思わなかった。見たことのない世界へ誘われて、疑うことなどもう何もない。


「けど、その子には両親がいて、友達がいるんでしょ? バレるんじゃないかしら?」


「明るく振る舞っていれば簡単にはバレないわ。人の心が入れ替わるなんて、ありえないことだもの」


 バスが動き出す。激しさと重厚感を持って、悲鳴を上げるように車体を揺らした。大きく身体を揺れる。弾んだ私の身体を支えながら、彼女は「それに」と続けた。


「人は見てくれで騙されるものよ」


 そう言った彼女の双眸は、まるで三日月のように綺麗な弧を描いていた。




『夕月色のバニーガール』了

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夕月色のバニーガール 伊勢祐里 @yuuri-ise

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