五章「舞踏会」

(1)

 ★アリス


 舞踏会の当日、僕は朝早くからアリスのところへ向かっていた。帽子屋とのやりとりのあと疲れてしまい、すぐに眠ったせいで早くに目が覚めたのだ。家にいてもすることがないし、アリスだって早く起きているはずだと思った。


 彼女の家に着くと、僕が思った通り、アリスはウッドデッキでぼんやりと空を眺めていた。


「おはよう」と声を掛けると「おはよう」と明るく返事が来る。


「元気だね」


「だって、今夜、想像も出来ないようなことが起きるかもしれないから」


 お城の舞踏会へ招待される。それはこの国の女の子にとって一種の憧れのようなものだ。他所の国の貴族との踊りの場には、豪華で贅沢な食事が用意されていて、夢のようなひと時を過ごすことが出来る。けど、アリスはそこに魅了を感じていない。それはこの国に生きている者にとって当たり前のことだから。それよりも、うさぎの耳の彼女が連れて行ってくれるという、想像も出来ないような不思議な世界に強い憧れを抱いているのだ。


「本当に彼女についていくの?」


「もちろんよ。きっとここじゃないどこかは、私のことを待っているに違いないわ。はじめから私はこの国に生まれるべきじゃなかったのよ。明日になれば、夢のような生活を送っているだなんて、想像しただけで胸が膨らむわ」


 うっとりとしたアリスの顔を見て、僕は複雑な気持ちになった。僕の胸の内では、当たり前のような幸せを手にして欲しいという願いと、今の彼女の自身の思いを尊重したい気持ちがせめぎ合っている。結局、どちらも僕のエゴなのだけど。


「あなたはどうするつもりなの?」


 椅子から立ち上がり、アリスは身体を伸ばした。ワンピースの裾が持ち上がり、白い腿の辺りが顕になる。


「アリスに着いていくよ」


「それはお城にってわけじゃないよね?」


「そうだよ。僕はアリスの世話係だ。ここじゃないどこかでも、アリスの世話をしてあげなくちゃ」


 僕の言葉に、アリスは少しだけ顔を赤らめた気がした。踵を返して、ウッドデッキ脇の階段から丘の方へ駆けていく。二歩、三歩進んで立ち止まり、またこちらを向いた。


「本当にいいの?」


「どうして?」


「だって、もうここには戻って来られないかもしれないじゃない」


 連れて行くとうさぎの耳の彼女は言っていたが、帰りの話はしてくれていなかった。片道切符かも知れない。そのことはアリスも僕も薄々感じていた。


「別に構うものか。この国にアリスよりも大切なものはないよ」


「でも、お姉さんが連れて行ってくれるところが、本当に素敵な世界なのかどうか分からないのよ」


 幼い頃に母を亡くし、父は戦争から帰って来ていない。僕は一人ぼっちだ。アリスが別の世界に行ってしまえば尚更。それにアリスと一緒なら何も怖くない。どこへだって行ってやる。たとえ、地獄のような場所でも。


「アリスは信じているんだよね?」


「お姉さんのことを?」


「そう。彼女の話を、アリスの夢みた世界があることを、」


 アリスははっきりと頷いた。それから少しだけ上目遣いで僕のことを見つめる。僕の反応が気になっているようだった。


 僕はアリスと同じように頷いてやった。アリスが信じているうさぎの耳の彼女のことを信じるのは、それだけで十分だったから。そして僕は、アリスにとってそういう存在になりたかった。



 *


 うさぎの耳の彼女がやってきたのは、夕方になってからだった。そろそろ用意をしなくてはいけないと思いつつ、家の中でごろごろしていたタイミングで扉がノックされた。僕が玄関に向かう前に、「そろそろ時間でしょ?」と彼女は扉の向こうから僕らに語りかけてきた。


 急かすようなノックに、僕は慌てて扉を開ける。


「あら、どうして入れてくれないの?」


「ご、ごめん」


 驚いてつい扉を半開で止めてしまった。というのも、彼女はいつもの姿ではなかったからだ。綺麗なドレスで着飾っていた。頭についていたうさぎの耳も無くなっている。


 僕の反応を見て、「舞踏会に行くんだから、ふさわしい格好をしておかなくちゃおかしいでしょ?」とうさぎの耳の彼女はくすりと笑いをこぼした。


「それはそうだけど」


「二人とも着替えは?」


「アリスのドレスは一応あるけど」


 僕はクローゼットを指差した。うさぎの耳の彼女がクローゼットの方へ向かい、扉を開ける。「これかしら?」とアリスのドレスを手に取って、じっーと眺めた。


「うーん。地味ねぇ」


「そうかな?」


「せっかく何だからもっとかわいい服を着ないと。それにあなたもその格好じゃ舞踏会には行けないわ。髪型を整えて来たことは褒めてあげるけど」


 確かにピエロの格好は舞踏会にはふさわしくない。彼女は顎に指を当てて、うーんと唸った。


「けど、持ってないものは仕方ないよ。僕はこの服しかもっていないんだ」


「あなた、いつもその服を着ているの?」


「そうだよ……!」


 道化師は道化師の格好をするべきだ。そこに疑問を抱いたことはない。兵士は兵士の格好をするし、医者は医者の格好をする。それはその役割を担う者だという証のようなもののはずだ。僕がアリスの道化師として役割を果たせているかは疑問だが、この服を着ている限り、アリスの傍で道化をするそんな権利を与えられている気がした。


「そう、それなら仕方ないわね」


 彼女は不要な物のようにアリスのドレスを床に落とした。床に落としたドレスが広がっているという意識がないのだろう。表情を変えずに、それを踏み歩き、僕とアリスをソファーに座らせた。「何をするの?」とアリスが不思議そうに訊ねる。


「女の子なんだからもっと素敵な服を着ないと」


「可愛らしい服?」


「そう、せっかく可愛いんだから。それにあなたもこの子をエスコートするならちゃんとした服でね」


 後半は僕に対して掛けられた言葉のはずだ。彼女はこちらを向いていなかったけど。彼女は僕らの前に手のひらを出すとすっと息を吸い込んだ。それから可笑しな呪文のような言葉を唱える。すると次の瞬間、僕とアリスの服装がぱっと変わった。


「素敵!」


 アリスは自身の服装を見下ろして悲鳴に近い声を上げた。アリスが纏った真っ赤なドレスは、肌の露出も多くとってもセクシーで、少しだけ彼女を大人っぽくみせた。嬉しさを爆発させるように、アリスはソファーから立ちあがると、その場で踊るようにくるくると回転した。スカートのフレアが花びらのようにぱっと開く。


「どう?」


 アリスの嬉しそうな顔がこちらを向く。「とっても似合っているよ」、そう言うとアリスはまたその場で踊りを始めた。胸がつんと痛むのはどうしてだろう。きっと、その手を僕が取ってやりたいからだ。けど、僕にその勇気はない。瞼を閉じてアリスと共に踊る姿を想像する。でも瞼を上げて、そこにいるのは、一人で舞う彼女の姿。道化師の僕は、それを見つめることしか出来ない。 


「あなたも中々似合ってるわよ」


 僕がぼんやりしていると、うさぎの耳の彼女にそう声を掛けられた。自身を見下ろせば、僕は兵士の軍服のようなかっこいいデザインの服を着ていた。


「彼女を守るなら適した服装だと思わない?」そう訊ねられて、「そうかもしれない」と僕は返した。



 ☆私



「今さらなんだけど、」


 私はピーナッツの最後の一つを頬張りながらピエロに訊ねた。「あなたは生まれてからずっとピエロだったの?」


「そうだとも」


「どうして?」


「どうしてと言われても。生まれてからピエロだったことに疑問を持ったことはない。だって、アリスも生まれて人間だったことに疑問を持ったことがないだろう?」


「どうだろう。生まれてすぐの記憶はないから」


「そうか、記憶を失っているんだったね」


 記憶を失うも何も、小さい頃の記憶はないものだろうと思う。とはいえ、ピエロであることに疑問を持つのと、自分が人間かどうかを疑うのは、また違った問題にも思えた。けど、少なくとも私は、今の自分を受け入れきれていないし、御伽の国へ行くことに魅力を感じている。


「どうだろう。あまり考えたことがないだけかもしれない」


「まぁ、それもそうか」


 ピエロは納得したのか、頷いてみせた。


「けど、あなたがそうでありたいと望めるものを与えられて生まれたから納得しているのよ。望んでいないものだったなら、きっとピエロであることを嫌になっているはず」


「確かに、僕はアリスのための道化師であることを望んでいたのかもしれない」


 きっとピエロは幸せ者だ。私はなんとなくそう思った。

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