(2)
★アリス
「どうやって鏡のところへ向かうつもりなの?」
丘を下っていくうさぎの耳の彼女に僕は問いかけた。彼女が城の内部に詳しいことを疑うつもりはないが、肝心の作戦を聞いておきたかった。「見張りの者がいるはずだ」とも付け加える。
「確かにその通りだよ。鏡は城の奥の方にあるからね。それに国はその近くへ行って欲しくないらしい」
「それはそうだろうね、」
他所の世界に繋がっていることを誰かに知られたら大変なことになる。例えば、この世界に退屈して別の世界に行きたいと願っている少女が舞踏会のどさくさに紛れて侵入しようとしたりするからだ。
「それじゃ、どうやってその警備を掻い潜るつもりなの?」
「難しいことじゃない。騒ぎが起きれば自ずと警備はそちらを注視する。そうなれば子どもの一人や二人、気には留まらなくなるものだよ」
「そういうものかな」
「人間っていうのは存外簡単な生き物なのよ。多角的に捉えているつもりでも、実は同じ方向からしか見えていない。平静ならまだしも早急な判断を迫られている時ほど俯瞰な角度で物事を捉えるのは難しくなるものよ」
「アリスが作ったお菓子ならなんでも美味しいと思ってしまうことと似ているかもしれないね」
「そういうことだね」
僕がうさぎの耳の彼女と話している間、アリスは鼻歌交じりに一人先を歩いていた。傍から見れば、舞踏会に浮かれるドレスを着飾った可愛げたっぷりの少女だ。何事もなく、こういうアリスの姿を見られることが僕の本懐なんだろうけど。スキップ気味に弾むアリスの足取りを追いかけながら、僕はうさぎの耳の彼女へ質問を続ける。
「鏡のところへ向かう理屈は分かったよ。けど、肝心の騒ぎっていうのは?」
「それなら待っていれば起きる」
「待っていれば起きるだって?」
「そうよ」
「随分、受動的だね。なにか心当たりがあるの?」
「そんなところだね。もしそれが私の思い違いなら、私がうさぎに化けて騒ぎを起こさせるわ」
「はじめからそうすればいいのに」
「それだと鏡までの案内人を誰がするっていうの?」
「それもそうか」
「私がうさぎに化けるのは、最後の手段っていうやつよ」
だったら、と僕は唇を噛み締めた。
「合図をおくれよ。僕が騒ぎを起こすよ」
「あなたが?」
「うん。それならアリスを鏡のところまで案内出来るでしょ」
「優しいのね」
「道化師だから、パーティーで盛り上げるのくらいお安いご用さ」
*
城に続く大通りは大勢の人で賑わっていた。綺麗なドレスに身を包んだ女性たちを乗せた馬車が何台も城に向かい連なっている。僕らが乗っているのはその中の一台だ。もちろん、これはうさぎの耳の彼女が用意してくれたもの。なるだけ他の参加者と同じようにして違和感を持たれないようにしたいらしい。
「今日、舞踏会へ行くことは、お義母さんに報告したの?」
「いいえ、してないわ。どうして?」
「喜んでくれると思ったんだ。それに夜に出歩くなら報告しておいた方が」
「どうかしら……? 今日は着付けで遅くなるみたいだし……。それにもう戻るつもりはないもの」
確かにその通りだと僕は納得する。もう引き返すことはない。
「アリス、城に着いたら他の参加者と同じように振る舞うんだよ」
「分かっているわよ」
アリスにとって舞踏会は退屈なものだろうけど、怪しまれないためには楽しんでいるフリをしなくちゃいけない。
「そのフリはどのくらい続ければいいの?」
僕に聞かれても困る。うさぎの耳の彼女の方を見遣れば、前を向き凛とした表情を崩さないまま答えた。
「混乱が起きるまでよ」
「それってどれくらいで起きるの?」
「始まって十分で起きるかもしれないし、一時間かもしれない。もしかしたら起きないこともある」
「起きなかったら困るわ」
まるでわがままなお姫様のような物言いだ。豪華な馬車に乗り、着飾っているせいもあるかもしれないけど。「その時は僕が混乱を起こすよ。考えがあるんだ」と僕はとんと自分の胸を叩く。
「考えって?」
「玉に乗って場を掻き回すのも良し、空中ブランコで曲芸を見せるのもよし。それくらいお手のものさ。なんたって道化師だからね!」
「でも、それじゃ……」
アリスの言葉を、僕は手を突き出して遮る。言いかけた言葉の続きは容易に想像が出来たから。けど、僕はそれも覚悟の上だ。
「アリスが幸せになれるなら僕はそれでいいんだよ。ここにいてつまらなさそうなアリスの顔を見るくらいなら、どこかで楽しそうにしているのを想像する方が何倍もいい」
明確な悲愴よりも幸せかもしれない可能性を願う方が人は救われるものだ。僕は僕よりもアリスが大切だから。この行動は、それを自分自身で確認するための作業なのかもしれない。もしくは、その思いをどうにか形にしてアリスに伝えたいのかも。
「心配しなくても順調に騒ぎが起こってくれれば何も問題はないのよ。あの人がきっと現れるはずだから」
「あの人?」
アリスが首を傾げた。僕も同じような仕草をしていたはずだ。
「私の邪魔をするあの人よ」
馬車がスピードを落とした。ざわざわとした賑わいが辺りを包む。勝手にドアが開いたかと思ったが、城の兵士が律儀に開けてくれたらしい。きちんとした敬礼のあと、機敏ながら気品のある仕草で、うさぎの耳の彼女の手を取り馬車の段差をエスコートした。御伽の国の兵士は作法が美しいと評判だ。それは舞踏会が長らく開催され続けている理由でもあるはずだ。他国の貴族たちは安心してパーティーに参加することが出来る。
★私
お姉さんから貰ったチケットを私は母に見せた。
「それ、どうしたの?」
「知らないお姉さんから貰ったの」
母は慌てて辺りを見渡していた。恐らく怪しんでいたわけではないはずだ。お礼を言わなくてはいけないと思ったのだろう。
「ちゃんとお礼は言ったよ」
直後にいなくなってしまったから、彼女に届いているかは定かじゃないけど。少なくともお礼を言おうとした姿勢は褒められうべきだと思う。こちらの意図の気づいたのだろう。母は私の頭を優しく撫でると「ちゃんとお礼が言えて偉かったね」と褒めてくれた。
「えへへ」
素直に照れた私を見て、母は眉根を下げる。困った表情でため息をついて、「けど、知らない人から貰ったらダメなのよ」と少々語気を強めた。
「ごめんなさい」
もちろん私だって、手渡されるものがイケナイものかどうかくらいはちゃんと判断している。お酒や煙草を渡されたって断るつもりだし、お金だったりしたら尚更だ。その辺りは心得ているつもりなのだ。そう私が言うと、「それは分かっているけど」と母は肩を落とす。
「お姉さんは用事で行けないみたいなの。だから、絵を描いていた私にくれたんだと思う」
うーん、と母は唸り、「まぁ美術館のチケットだもんね」とぼやくように呟いた。
「そう! ほら、不思議のアリス展よ!」
「本当は頂いたからにはお礼をしたいけど、もう近くにいないのよね?」
「うん。……気づいたらいなくなってて」
「気づいたら?」
「そう」
可笑しなことを言い出したと言いたげな母だったが、近くにいないという話で諦めがついたらしい。明るく手を鳴らして口を開いた。
「返すことも出来ないし、お言葉に甘えて頂きましょうか」
「本当! 行ってもいいの?」
「もちろん! けど、チケットは一枚だけでしょ。それに、……その日は、私もお父さんも仕事だから、一人で行くことになるけど大丈夫?」
美術館の場所を私は知っていた。というのも、絵が好きな私のために父が良く連れて行ってくれていたし、何ならこの緑地公園内にあるからだ。バスには乗るけど、家からさほど遠い場所ではない。そのことを母も分かっているはずだから、あとは私自身が一人でも不安じゃないかどうかが判断材料になっているようだ。
「私は一人でも大丈夫!」
「最寄りのバス停も近いし……、何度も行ってる場所だから心配はないかなぁ」
「やったー!」
私は両手を目一杯広げて喜んだ。それを見て、「はしゃぎすぎないように! 美術館では静かにしてなきゃダメよ!」と母は叱るような声で私を窘めた。
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