(2)

「いらっしゃい」


 カウンターから女性の声が聞こえた。どうやら彼女がこのスナックのママらしい。私は挨拶もしないまま、狭い店の中を見渡す。カウンターだけの店内には摩耶やあのバニーガールどころか客の姿すら無かった。


「若い子が珍しいね」


 こちらの反応も気にしないまま、彼女はタバコをふかしながら呟いた。綺麗な人だと思った。肌も綺麗だから若く見える。けど、声のトーンや雰囲気から実年齢は四十後半くらいだろうと思った。少しふくよかだが、清潔感を保っている程度で、美人と称するに当たり障りない。到底接客する態度と思えない姿勢のまま、流し目で彼女はこちらをちらっと見遣った。


「座ったら?」


「いえ、……。あの、……その、私の前に誰か入って来ませんでしたか?」


「客はこのところとんと来てないね」


 彼女はため息交じりに答えた。私が客でないことに呆れているのだろうか。長い睫毛がぐっと持ち上がる。綺麗な双眸が顕になった。照明のせいか瞳は綺麗な藍色に見えた。綺麗な人だし欧州のハーフなのかな、と漠然と考える。


「お客じゃなくても、従業員の人が入って来たとかないですか?」


 摩耶もバニーガールも客にも思えない。ここで働いていて、あの格好をする意味があるのかは疑問だけど。


「この店は私一人だけさ」


「でも、私が入ってくる直前に扉が閉まりませんでしたか?」


「いいや? そんなはずはない。私はずっとここにいたさ」


 ぽっと赤い火が灯ったタバコで彼女は足元を指さす。おかしい。確かにこの店の扉が閉まったはずなのに。「でも、」と反論しようとした瞬間、思わぬ声が私の言葉を遮った。


「アリス!」


 私は思わず叫び声を上げそうになった。けど、本当に驚いた時、人は息を止めてしまう生物らしい。ぐっと喉が引き締まる。全身の筋肉が縮こまる感じがした。次の瞬間には、一気に力が抜けて、腰から崩れそうになったが、扉に背中が着いてなんとか持ちこたえた。


「アリスだよね? そうだよね?」


 店のママが呆れたようでため息を漏らす。「びっくりしているじゃないか」と彼女は机の上の頭を、スナップを効かせた指先で軽く叩いた。


「ごめんよ。驚かせて……」


 私は自分の目を疑った。それから焼け焦げた脳みそは、本当にダメになったんだと思った。机の上にあるのは紛れもなく人間、それもピエロの頭だ。それが私に話しかけている。口を動かして、まばたきをして、呼吸をしながら言葉を操り、慈悲深く謝罪を口にしている。


「こんな姿で急に飛び出したら誰でも驚くよね。……でも、僕だよ、アリス!」


 ピエロは涙を流していた。それは目元のメイクじゃなく本物の涙だ。うるうると綺麗な瞳が潤んでいる。よく観察すれば、ピエロの顔や声は、私と同じくらいの年齢ものに見えた。二十歳くらいの男の子の頭だ。


「あなたは、どうして喋っているの?」


「あー、そうだよね。不思議だよね。あのあと、女王に捕まって首をはねられちゃったんだ」


「首をはねられたら死ぬものでしょ?」


「普通はね? でも、少しは平民への情けっていうものがあったらしい」


 情けがあれば首をはねても死なずに済むものなのだろうか。そんなはずはない。それに女王とは。あのあととは。首だけのピエロが喋っているだけでも、おかしくなってしまいそうなのに。困惑していると、ママが手元にあったガラスの灰皿を鷲掴みにして、カウンターに投げるように置いた。ドスンと重厚感のある音が鳴る。眉根を下げて、ピエロの首とこちらを交互に睨みつけた。


「この子がアリスだってのかい?」


「大人になっているけど間違いない。声、それに瞳の色は変わっちゃいないさ」


「あんたがそう言うなら間違いないね。ようやく見つけた!」


 険しく皺を寄せていたママの眉根がゆっくりと下がっていく。微笑を浮かべながら、彼女は灰皿にタバコの灰を落とした。


「これで十数年の苦労が報われる。国王様も喜んでくださることだろう」


「国王が喜ぶって、もしかしてアリスを連れて帰るつもり?」


「当たり前だろ! なんのために探していたと思ってるんだい」


 ママがピエロの頭をまた叩いた。今度は力が込められている。首だけの彼は抵抗することは出来ない。けど、「アリスを連れて帰るのはダメだ!」とピエロは少しばかり可愛らしい声を荒げた。


 それを聞いて、ママは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。ピエロの顔に指を突きつけて、吐き捨てるように言葉を放つ。


「首だけのお前に何が出来るっていうんだい? そもそもアリスを探すために、お前は生かされているんだ。その意味をしっかりと理解出来ていないようだね」


 ピエロがくるっと踵を返す。かかとはないのだけど。器用に首の筋肉を使って、彼はカウンターから椅子へと飛び移った。


「アリス、帰っちゃダメだ!」


 彼は明らかに私に向けて言葉を発している。それに最初に現れた時から、彼は私のことをアリスと呼んでいた。……確かに私の名前はアリスなのだけど。


「待って、どうして私の名前を知ってるの?」


 ピエロに問いかけたのに、答えたのはカウンター越しのママだった。あっけらかんとした声が店内に響く。


「どうしてもって知っていて当然じゃないかい」


「当然って、……人違いです」


「人違いなわけないね。このピエロがあんたをアリスだって言っているだから。ははぁーん。誤魔化そうたってそうはいかないよ?」


 こちらの考えを読み解いたと言いたげに彼女は顎をさすった。おかしな勧誘を受けている気分になって、私は声を荒げてしまう。自分から店に入ったというのに。


「誤魔化すもなにも、私はあなた達のことなんて知らないです!」


 語気を強めた私に二人はすっと黙ってしまった。すぐに、しくしくとすすり泣く声が聞こえて、私は椅子の方へと視線を下げる。「なんでそんなこと言うの?」とピエロが描かれた眉を悲しそうに下げていた。


「……そんなこと言われても。知らないものは仕方ないじゃない」


「アリス、僕だよ? 本当に僕のことを覚えていないの?」


 私の名前を何度も繰り返しながら、覚えていないという事実を否定するように彼は首を何度も振った。首しかないから、彼は全身を震えさせていたのかもしれないけど。


「どういうことだい? この子がアリスだったんじゃないのかい?」


「そのはずだよ! 声も瞳も何もかもアリスにしか見えないから。だって君は自分で名前はアリスだって言ったじゃないか」


 記憶をいくら遡ってもピエロの知人は一人もいない。せめて化粧を落としてくれれば思い出す可能性はあるけど。「素顔は?」と私が訊ねれば、彼はうなだれるように、椅子のクッションに倒れ込んだ。


「僕はピエロだ。素顔なんてないよ。……それも知らないなんて。君は本当にアリスじゃないのか」


 本当に残念そうにする彼を見ているといたたまれない気持ちになった。けど、嘘をついてまで彼を喜ばせようとするのはあまりにも残酷だ。私がこれまでこの現実で受け入れてきた悲痛な出来事たちのように、彼にもまた事実を受け止める責任がある。目の前にいるのは、非現実的な話す生首だけど。


「勘違いかい。ぬか喜びしてしまったじゃないか」


 ママはひどくがっかりした様子で、タバコの火を消した。乱暴な手付きで長い髪をまとめ、ヘアゴムで一つに縛り上げる。そのままシンクの方を振り返り、皿洗いを始めた。


「どう見てもアリスなんだけど……。僕がアリスを見間違えるはずないよ」


 ピエロは身体を起こして、こちらの顔をじっと見つめる。笑顔とも泣き顔ともとれる表情を浮かべながら、彼は目を細めた。綺麗な双眸には暗い自分の顔が写り込んでいる。


「そう言ったってあの子は否定しているじゃないか。それに、思えば自分からのこのこと現れるはずがない」


 こちらに顔も向けずにママがそう返した。


「それはそうなんだけど」


「あっちの世界が嫌でアリスは逃げ出したんだ。自ら現れた時点で気づくべきだった」


 やっぱり二人が何の話をしているのかまったく分からない。私が戸惑っていると、急にピエロが声を上げた。


「……そうだ!」


「どうしたんだい?」


 声に驚いたのか、ママが慌てて振り返る。手は泡だらけだ。


「アリスは、記憶を失くしてるんじゃないかな」


「記憶を? そんな都合のいいことがあってたまるかい」


 呆れた様子で彼女は再びシンクの方を向く。手に付着していた泡を洗い流すと、蛇口をひねって水を止めた。濡れたシンクの周りをタオルで拭き取り、もたれかかるようにそこに腰を落とす。


「本人が違うって言ってるんだから違うんだ。諦めが悪いね、あんたは」


「だって、……僕は……」


 声が可愛らしいのもあるけど、このピエロには不思議と惹きつけられるものがある。彼が持っている本質的な人の良さだろう。生まれながらに可愛がられる人間とそうじゃない人間がいる。それは二十一年間生きてきて、私が痛感したことの一つだ。


 摩耶には周りに沢山の人がいて、私はそうじゃない。それは生まれ持った運命が違うからだ。たとえ努力をしたってそれが覆ることはない。キラキラと輝く舞台の上に立つ人間とそれを客席から見つめる人間。その差は永遠に埋まることはないのだ。手を伸ばして届かないなら、伸ばすだけ悲しい思いをする。


 たとえば、高校二年の文化祭。私は珍しく躍起になっていた。押し付けられるように回ってきた文化祭の実行委員の仕事に精を出していたのだ。


 別にクラス全体が文化祭に向けてやる気が無かったわけじゃない。それなりにみんな楽しみにしていたし、盛り上がりもしていた。ただ、二年生という時期は大学受験を意識し出すタイミングで、会議に出席する時間を割けなかったらしい。


 都合よく引き受けてしまったことは分かっていたけど、ここで頑張ってみんなが楽しめる文化祭を提供出来れば、輪の中へと入っていけるのでないかと私は期待した。客席から舞台脇の階段を登り、ステージに途中参戦出来るのではないかと思ってしまったのだ。


 結果から言えば、私にスポットライトの光が差すことはなかった。当たり前のことだ。スポットライトは、常に主役の方を向いている。脇役ですらない客席にいるだけの私は立ち上がることすらはばかられる。


 ホームルームの最初の会議で、私は人気の映画を題材にした演劇を提案した。しっかりと魅力を伝えられるように企画を練り、人前で話すのは得意じゃなかったけど、頑張ってプレゼンも成功させた。けど、採用されたのは、ふいに出た摩耶の意見だった。


「今年はみんなで踊らない?」


 ダンス自体が悪いわけじゃない。多くのクラスメイトが参加出来るし、一体感だって出る。だから摩耶の意見がおかしかったというつもりはない。けど、企画に向けられた熱量は違っていたはずだ。私は一週間も熟考してしっかりとした企画を練ってきたのに、摩耶は思いつきで提案をした。もし摩耶も同じだけ熟考して同じようにクラスのみんなの前でプレゼンをしたのなら、仕方のないことだと受け入れられただろうけど。悲しいことに、努力は必ずしも結果には結びつかない。


 これがスポットライトの当たる者と当たらない者の差だ。言うなれば、向日葵と月見草、太陽と月。私はせめて夕月になりたかっただけなのに。それすら私には許されなかった。


 そんな風に思っているくせに、私はまた期待をしてしまっている。スポットライトへの憧れは消し去ったつもりでも、心の隅の宝箱に大切に仕舞ってあったらしい。客席から舞台へ上がれるチャンスがあるかも知れない。二人の話を聞いて、私の胸はワクワクと騒ぎ出した。


「そうとは言い切れませんよ」


 私は、ピエロが乗っている隣の席に腰掛けて、二人を交互に見遣った。どういうことだと言いたげにママが小首を傾げる。


「……私は幼い頃に一度、記憶を失くしているんです」


「記憶を? それじゃこのピエロの妄言が正しいってのかい」


「はっきりとそうだとは……。それにアリスって名前も里親が名付けてくれたものですから。だから偶然だとは思うんですけど――」


「やっぱりそうだ! 君はアリスなんだよ!」


 私の言葉を遮って、ピエロが嬉しそうに声を上げた。椅子の上からジャンプして、私の目の前のカウンターに上手く着地する。


「記憶を失くしているなら、僕のことを忘れたのも無理ない。……そうか、やっぱりアリスなんだ。良かった……元気に生きていてくれて」


 ピエロの顔があまりに嬉しそうになったものだから、私はなんとなくむずがゆさを覚えた。覚えの無いことで感謝されるのは不思議な感じがする。


「待って。……私はただ記憶を失くしたことがあるという事実を伝えたかっただけで。本当に自分がそのアリスっていう人なのかどうか自信はないです」


「自信もなにも、僕から見れば君はアリス以外の何者でもないよ!」


 キラキラとした双眸が私を見つめる。その瞳に写り込んでいるのは、紛れもない私という人間だ。


 私は本当に彼らの探しているアリスなのだろうか。記憶を失った自分を探してくれる可笑しな二人組。彼らは私が覚えていない過去の私を知っているかもしれない。そんな夢みたいな展開が心臓の鼓動を早めさせる。スポットライトの照明の眩しさを私は初めて認識出来た気がした。

 

「どこで記憶を?」


 コツコツ、とママがカウンターを指先で叩いて、ぼーっとしていた私に注意を向けさせた。「記憶ですか?」と私が慌てて返すと、「いつどこで失くしたんだ、と聞いているんだ」と、美人な造形を担保するシャープな鼻がツンと跳ねた。


「十一年前にバスで事故に遭って。乗っていたバスがトラックとぶつかって横転したんです。幸い私も含め乗客の怪我は大したことなかったんですけど。そこから過去の記憶がぱったりなくなっていて。自分がどこの誰でどこへ向かおうとしていたのか。家の場所も住んでいた地域も自分の名前さえ、何もかも分からなくなってしまっていたんです」


「この国の警察は、お前のことを調べなかったのかい?」


「もちろん調べてくれました。捜索願が出ていないかだとか、バスの路線図近辺の学校で私のことを知っている人がいないかだとか。あらゆることを調査してくれたはずです」


「それでも見つからなかったと」


「はい。でも、一人で生きていくことも出来ないので、私は孤児として里親に引き取られました。名前も分からなくなっていたので、そこでアリスという名前を頂いたんです」


「なるほど」


 ママの眉がぐっと持ち上がった。嬉しそうに「ぐっふふ」と声が漏れる。


「存外、ピエロの言うことも間違っていなかったみたいだね」


「そうだとも! 何度も言ってるだろ。僕がアリスを見間違えるはずがないんだ!」


 えっへんとピエロの鼻孔が少し膨らんだ。手があれば、腰について胸を張っていたことだろう。


 けど、やっぱり自分が彼らの話しているアリスと同一人物だとは思えない。もちろん、そうであることは吝かではないけど。名前の件を彼らは偶然で片付けるのだろうか。それを私が訊ねれば、ママは「偶然ということもあるし、必然ということもある」と答えた。


「よく分からないです」


「よく分からなくて良いんだよ! 僕がアリスを見て、アリスだと言ってるんだから、君はアリスなんだよ!」


 ピエロの自信はどこから来るのだろうか。私の問いかけは中途半端に終わり、ママは満足そうに手を打った。 


「そうと分かれば、さっそく戻ろう」


「やっぱり連れて帰るつもりなの?」


「そりゃそうさ。だから、そのために私はアリスを探していたんだよ」


 ピエロが私をかばうようにママの前に立つ。「どきなと」とママが手を振り上げたのを見て、私は「待ってください」と声を上げた。ママの手は上がったまま止まる。


「なんだい?」


「連れて帰るとかダメだとか。私にはさっぱり分からないんですけど、……一体、何処へ私を連れて帰ろうとしているんですか」


「そんなの決まっているじゃないか。御伽の国だよ」


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