(3)


 ★私


「ねーねー、お母さん。絵本を読んで」


「摩耶は本当に絵本が好きだね」


「見たこともない世界に沢山行けるでしょ! だから私は絵本が好き」


 微笑んだ母は、私の頭を撫でて、そっとベッドの縁に腰掛けた。本棚へ手を伸ばしながら「今日は何を読んであげようか」と本の背表紙を優しい手付き撫でる。


「『不思議の国のアリス』がいい!」


「またアリス?」


「だって、あのお話が大好きなんだもん」

 


 ☆私


「御伽の国?」


 バカみたいにオウム返しをした私に、「そうさ、御伽の国だとも」とママが頷く。


「聞いたことがない」


「こっちの人間は知らないだろうね。わざわざ知らせていないし。知られちゃ不味いっていうのもあるけど」


 手元からタバコのケースを取り出して、ママはマッチで火を点ける。灰色の煙をモクモクと口から吐き出した。ママの顔が副流煙に包まれる。


「御伽の国って一体なに?」


「まぁそうなるのも仕方ないね。行けば分かる、としか言いようがない。この世界では無い何処か別の世界さ」


「ここじゃない別の世界……」


 その言葉に、私は妙に惹きつけられた。自分の好奇心が釣り針に引っ掛けられたような感覚になる。


「そこにはどうやって行くの?」


「穴を通るんだよ」


「穴?」


「そうさ。古くから不思議の国に行くには穴へ落ちる決まりだろ?」


 私が知る限りそういう童話は少なくはない。頭に浮かんだのは、『おむすびころりん』だとか『不思議の国のアリス』だとか。まさか身体が小さくなってしまったりしないだろうか、と心配していると、


「けど童話じゃない、これは現実のお話だからね」とママが口端を吊り上げた。隙間から細く煙草の煙が漏れてくる。


「その御伽の国に私を連れて帰ろうとしているってことは、あなたたちの言うアリスは御伽の国の住人なの?」


「理解が早いね。そうともさ」


 つまり、この人たちが言っているのは、どこかに御伽の国というものがあって、私はそこで生まれ育ったということだ。けど、さすがに御伽の国だなんて言われて、すんなり「はい、そうですか」とはいかない。私にだって常識はあるのだ。けど、目の前には確かに奇妙なピエロがいるのも事実で……。


「さぁ、一緒に御伽の国に帰ろうじゃないか」


 ママは口にタバコを加えて、手をこちらに差し伸べた。――悪くないかもしれない。私はふいにそう思う。もしかしたら、御伽の国へ行けば、お姫様になれるんじゃないだろうか。御伽噺や童話のようなシンデレラストーリーが頭を過る。彼女の手を取れば、暗く楽しくなかった私の人生が華やぐ気がした。


「ダメだよ!」


 私が掴もうとしたママの手に、ピエロが唾を吐き捨てた。


「何するんだい! 汚いじゃないか!」


「アリス! 戻っちゃだめだ」


「どうして?」


 ピエロの言いたいことが分からずに、私が不思議そうな表情を浮かべると、彼は悲しそうに視線を下げた。歯がゆさを噛みしめるように顔を左右に振る。


「アリスは御伽の国に戻っちゃダメなんだよ。君は忘れてしまっているのかも知れないけれど、君はあの国から逃げ出したんだ」


「私が御伽の国から逃げ出した?」


「そうさ」


「余計な口出しをするんじゃないよ」


 おしぼりで手を拭いて、ママはピエロの首を掴み持ち上げた。その顔にタバコの煙を吹きかける。ゴホゴホとむせながらも、「説明もせずに無理やり連れて帰るのは良くないことだ」とピエロは眉根に皺を寄せながら声を張り上げた。


「仕方ないだろ? そういう命令なんだ。あんただってそれに従って着いてきたはずだ。もちろん、本当にそのつもりがあったかは定かじゃないけどね。それに、この子は帰ることに吝かじゃないように見えるよ?」


「アリスは記憶を失っている。そう言うのも仕方ないさ。でも、記憶が戻ればアリスは帰りたくないと思うはずだ」


 必死なピエロを見て、私は何も知らない御伽の国へ行くことが少しだけ怖くなった。もとより、全く知りもしない場所に行くことに恐怖を感じていなかったことが不思議だけど。それほど、御伽の国というフレーズが私を魅惑させていたらしい。


 幼い頃の懐かしさや憧れがくすぐられるような感覚。現実世界に絶望した末、別世界の自分に期待するのは不思議なことでない。幼稚で安易な発想かもしれないが、そこにしか助けを見いだせないことだってある。誰もがここじゃない何処か、自分の知らない未知なる自分を探している。


 だから、御伽の国がどんなところなのか私は知りたかった。


「それなら、ピエロさんの知っているアリスのことを私に聞かせてください。それで私の記憶が戻るかは分かりませんが。それで御伽の国に戻りたいか戻りたくないのか判断するというのはどうでしょうか?」


「ほら、本人からの提案だ!」


 ピエロは顔の筋肉全てを震えさせて、ママの手から逃れた。くるりと反転して、こちらを向く。短い紫色の髪がふさっと揺れた。


「アリス、僕が話して上げるよ。君がどんな場所にいて、どうしてこの世界にやって来たのかを」


 ママは拒むかと思ったけれど、「そうかい。それなら話してやりな」とこちらの提案をあっさり承諾した。国王の命令で来ていると言っていたから、「望んでいない者を無理に連れて行きたくない」と思っているわけではなさそうだけど。


 話を聞いても、私が拒まない自信があるのか。はたまた、私が望めば、ピエロは諦めるだろうし、それで私が拒むようなら無理やり連れて行けばいいと思っているのかもしれない。不機嫌そうな彼女の顔を見たところ、ピエロが騒がしいことが煩わしく、黙らせるチャンスがあるならそれでいいと踏んだだけのように思えた。彼らは十年も待っているらしいから、ピエロの思い出話を聞くくらいわけないはずだ。


「まずはどこから話そうか……、」


 ――あれは十一年前のこと……。アリスは九歳、僕はその一つ下だった。


 まるで、昔に読み聞かされた絵本を思い出すように、ピエロは優しい口調で話し始めた。



 ★アリス


「それで僕が代わりにシャム猫を捕まえてあげたってわけさ」


「ふーん」


 アリスは僕の話をつまらなさそうに聞いていた。いつものことだから気には留めなかったけど。ウッドデッキのチェアに座り、青い空をぼんやりと眺めては、何処か違う世界を見ているみたいにアリスは上の空。綺麗な花を詰んで来ても、美味しいお菓子を持ってきても、あまり笑顔をみせてはくれなかった。


「今日も一日ここにいるの?」


「たぶんね」


 アリスはちらっとこちらを一瞥してから頷いた。視線は僕の手元を見ている。僕がシャム猫を抱いていたからだ。「その猫どうしたの?」と言って、アリスは椅子の肘置きに手を着いて立ち上がった。スカートのフレアが風を吸い込み膨らむ。


「だから、逃げ出したのを僕が捕まえてあげたんだ」


「へぇ、あなたが捕まえたの」


「そうさ。僕が捕まえたんだ!」


「どこのシャム猫なの?」


「理髪店だよ!」


「理髪店? あの髪を全部そいじゃうっていう?」


「そういう話は聞いたことないけど」


「先週、帽子屋が言ってた」


「あいつは嘘つきだから信用しちゃだめだ」


 帽子屋は嘘つきとして有名で、町の人からいつも指をさされていた。どういうわけか、アリスの傍に現れることが多く、僕の知らないところで色々と吹き込まれているらしい。


「あまりあいつには関わらない方がいい」と僕が口酸っぱく言っても、「あの人の話はまだ聞いていられるから」とアリスは僕の言うことを聞いてはくれなかった。


「理髪店の人が髪の毛を全部そっちゃったって話は嘘だってこと?」


「そうだよ。髪を全部そがれた人をアリスは見たの?」


「見てない。けど、帽子を被って隠している可能性だってあるわ」


「そりゃ、帽子をかぶれば隠せるかもしれないけど。でも、よく考えてみてよ。そもそも髪を全部そぎ落とすなんてしたら大問題だ。騒ぎになる。なっていないってことは嘘だってことだよ」


 なんだつまらないの、と吐き捨てて、アリスは家の中へと入っていった。僕は、「それよりも」と言って、彼女のあとを追いかけた。


「理髪店が閉まるまで預かることになったんだ。アリスのうちに放していていい?」


「構わないけど。どうして理髪店が閉まるまでうちに置いておく必要があるの?」


「お客さんが来るたびに逃げ出しちゃうんだ」


「お望み通り野生に返してあげればいいんじゃない? もしくは別の飼い主を探したいのかも?」


「リードを着けたが良いよ。頼んでいたリードが今日、届くらしいし」


 僕がそういうとアリスは肩をすくませた。前髪を指に巻き付けながら、つまらなさそうにため息を漏らし、ソファーに腰掛けた。


 丘の上の赤い屋根の小屋みたいに小さな家。アリスはそこで義母と二人で暮らしていた。この家の主人は去年の春先に亡くなった。戦死だった。七年ほど続いていた隣の国との大きな戦争。峠の向こうで雌雄を決する大きな戦いがあって、そこに駆り出されていたらしい。我らが御伽の国は、見事に敵国を倒して多くの土地と財産を得た。つまり、この家の主人は名誉の死だったというわけだ。


 それもあって、アリスの家には国からそれなりの支援金が出たらしい。だけど、アリスの義母は「あなたといると息が詰まる。働いていた方がお互いの為だから」と言って、町に働きに出ている。


 気持ちは分からなくはない。夫が戦死をして入ってきた金なのに、血の繋がっていない子どものせいで、その価値は半減してしまっている。それなのに、育児を放棄せず、食べ物と寝るところを与えてくれているだけ良く出来た人間だ。昼間に家からいなくなるのは、自分に懐かないアリスに苛立ちを覚えたくないからだ、と僕は考えていた。


 シャム猫から手を離すと、「にゃー」とご機嫌に声を上げて、僕の手を飛び出していった。窓から差し込む陽光の傍に寄って、小さく丸まりながら大きなあくびをする。


「呑気なやつだなぁ」


「猫だけじゃないでしょ。この国の人はみんな呑気よ」


「そうかもしれない」


 戦争はあったけど、この国に直接的な被害はそれほど多くなかった。若い男性が数多く死にはしたけど、それに見合うだけの物を戦争で手に入れた。自国の領土に火が放たれることも、金品が奪われることも、農作物を枯らされることもなかった。安全地帯で暮らしてきた僕らにとって、戦争というのはまるで御伽噺のような出来事だった。


「あなた今日はどうするつもりなの?」


「夕暮れにはシャム猫を返しに行かないと」


「もっと楽しいことは何かないの?」


「そう言われても」


「あなた、ピエロなんだから楽しませなさいよ」


 アリスの唇がつんと尖る。いつも無表情だけど、こうして彼女が違った表情を見せてくれることが僕は少しだけ嬉しい。出来れば笑って欲しいんだけど。でも、アリスの言う通りだ。僕が楽しませてあげなくちゃいけない。アリスが笑えないのは僕の力不足なのだ。


「僕はピエロだけど、面白いことは……」


 床に転がっていたアヒルのぬいぐるみを手にとって、アリスはくちゃりと顔を握り潰す。可笑しな音を出して、アヒルのおもちゃはゆっくりと元の形に戻っていった。


「ここは毎日が退屈だわ。どうして、こんなつまらない世界に生まれてしまったのかしら」


「面白そうなことは色々起きているよ。シャム猫が逃げ出したのもそうだし、お菓子屋で新人の子が美味しくなる魔法を間違えて、レンゲのジャグジーが出来ちゃったんだって、隣町では狼に食べられたはずのお婆ちゃんが猟師に助けられたとか、それに……」


「どうでもいいわ、そんなこと。よくある話じゃない」


 ごろんとソファーに寝転がり、アリスはクッションで顔を覆った。艷やかな髪が潰れたクッションの隙間からつんとハミ出している。


「お茶会に出席してみたらどう? 同い年くらいの子が集まっているだろ? みんなアリスが来るのを楽しみにしていると思うよ」


「お茶会なんて行ったって意味ないわ。どうせみんな退屈な話しかしていない。誰かが私を

 別の世界へ連れ去ってくれればいいのに」


「そんなこと言うもんじゃないよ」


 そのクッションに籠もった声を聞いたきり、僕はその日アリスの声を聞くことはなかった。



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