夕月色のバニーガール

伊勢祐里

一章「御伽」

(1)

 俯きがちな私が珍しく顔を上げていた。


 ギラギラと眩しい初夏の日差しが視界を遮ってくる。商店街のアーケードの隙間から差し込んだ細い光にすらやられてしまいそうなほど、この双眸は久しく真っ直ぐに光を見つめていない。くすんだアスファルトが反射する鈍い陽光が、私にとっての精一杯なのだ。だから、無意識だったのだと思う。気がつくと目の前を通り過ぎたチェック柄の制服のスカートを目で追っていた。


 相変わらず綺麗な子だ。眼球から飛び込んで来た光に焼き焦がされた脳みそは、そんな呑気な思考を巡らせていた。私と同い年である摩耶まやが制服姿だったことを不思議に思ったのは、そのあとだったから、すっかり機能が低下してしまっているらしい。


「お酒の匂いは嫌いじゃない。育った街がそういう匂いに溢れていたせいかもしれないけど。好きとか嫌いとかじゃなく、親しみに近い感情を抱いてしまっているんだと思う」


 停止したはずの脳みそはどういうわけか、高校の時、摩耶に向けて放った言葉を思い出していた。話の流れは覚えていない。どうして彼女と会話していたのかすら曖昧だ。はっきり記憶しているのは、この会話が昇降口で行われたということ、夕暮れの空に白く輝く三日月が出ていたこと、私の言葉に「あなたの人生は素敵だね」と彼女が返してきたことだけだ。


 鮮明に思い出したほんの一瞬のクリアな景色は、眩い光に飲み込まれて、やがてカメラのフラッシュが消えていくように目の前には、京橋きょうばしの雑踏が戻ってきた。


 私は肩から下げたショルダーバックの紐を握り締める。緊張しているらしい。それもそのはずで、尾行地味た真似をするのは生まれて初めての経験だからだ。「久しぶり」なんて声をかける間柄じゃない。だからと言ってあとをつけていい理由にはならないけど。少し離れて追いかけても、摩耶がこちらに気づく気配はなかった。


 真っ昼間とあって京橋駅前の繁華街に人通りは少なかった。居酒屋なんかはどこもまだシャッターを下ろしている。それでも静寂とは程遠いのは、近くに国道一号線が走っていること、パチンコ屋の扉が頻繁に開閉しているせいだ。いま思えば、この街には酒だけじゃなく様々な匂いが混沌としている。私が酒に親しみを覚えていたというのは嘘だったかもしれない。一つ特徴的なものを具体例としてあげただけで、この街の匂いは身体にすっかり染み付いて取れなくなってしまっているのだ。


 摩耶が入っていったのは、JR京橋の北口を出てすぐ、自由の女神像がちょこんと鎮座しているビルを右に曲がったところにある商店街の入り口、グランシャトーというレジャービルの斜向いに建つ古めかしい雑居ビルだった。入り口横にはピンクの看板が何枚も張り出されていて、制服やバニーガール姿の女性の写真と共に、三十分いくらだといういかがわしい謳い文句が並んでいる。


 そこでようやく、高校を卒業してから三年も経っているのに、摩耶が制服を着ている理由に気がついた。そもそも大学生にもなって街中で制服を着る理由など、あとをつけなくとも分かりそうなものなのに。やはり私の脳みそは、太陽の陽にすっかり焦がされてしまったらしい。


 吹き抜けになった正面入口の左右に半円状の階段が設置されていて、摩耶はそこを上がっていく。短いスカートからは下着が見えそうになっていた。誰もいないからなのか、彼女はそれを気にする様子はない。綺麗で程よい肉付きの太腿を見つめながら、私が考えていたのは、どうして彼女がこんな仕事をしているのかということだった。


 そもそも私と彼女では住む世界が違っていたはず。容姿端麗な摩耶はクラスの男子からも人気が高く、その上成績まで優秀だった。それに比べて、陰鬱で目立たない私はカースト制度の最下層にいた。だから、あの時、昇降口で言われた言葉を素直に受け取れば、嫌味だったんだろうと思う。腹が立たなかったのは、嫌味を自覚していたからだろう。私は自分自身の立場をちゃんと認識した上で、それに抗うことをしていなかった。馬鹿にされて至極当然だ。


 入り口のそばで身を隠していた私の真横を中年の男性が通り過ぎていく。いやらしい目つきが私の全身を舐め回すように見てきた。つま先から下半身、そして胸へと。男性はエレベーターの方に向かっているのに、顔だけが定点になって上下にしか動かない。どこの店の子だろうと思われているのだろう。こんなところに立ち止まっているのだから、「そんな目で見るな」という方が常識はずれな発言だ。ここはそういう欲望に満ち溢れた場所なのだ。


 やって来たエレベーターに中年の男性が乗り込んだ。私の視線は思い出したように摩耶を探していた。彼女の足音はまだ三階から聞こえている。


 半身だけビルの中へと身体を入れて上を覗き込む。恐怖と恥じらいを打ち負かしたのは、恐らく安心が欲しいといういやらしい心だ。どれだけ容姿端麗に生まれ、満ち足りていても、幸せというものは簡単には手にできないものだと。彼女の今を見て、自分とさほど変わりはしないじゃないか、落ちぶれた、と笑いたいのかもしれない。やはり、私はこの街の匂いが染み付いた欲望まみれの人間なのだ。


 足音がパタリと止まった。ついで、エレベーターの到着音が響き、先程乗った男性が出てくる。コツコツ、と足音が再開した。だけど、いま聞こえているのは中年の男性の足音のはずだ。客引きの声が三つほど、それからまたパタリと静かになった。摩耶は何処へ行ったのか。卑俗な動機は、気がつけば純粋な好奇心に変わっていた。彼女を馬鹿に出来る立場でないことくらいわきまえていたつもりだ。いまの彼女が知りたい。人通りが少ないのも相まって、私はもう一歩ビルの中へと踏み入れる。薄暗いビル上階に目を凝らす。同時に足音が鳴った。それも二つ。


 摩耶が一瞬だけ見えた。四階で奥へと消えていく。そのすぐ後ろをバニーガール姿の女性が追いかけていた。


 だらんと垂れ下がった片耳。網タイツ越しに晒された足が大きな歩幅を刻む度、胸が激しく揺れる。このビルの中でもその存在は異様なもののように思えた。まるで金魚すくいの水槽の中で泳ぐ出目金みたいな。バニーガールの風貌は、出目金というよりも美しい鯉のようだったけど。


 存在感に唖然としていると、バニーガールの視線が急にこちらを向いた。初めからこちらの存在に気づいていたように、無言のまま表情も変わらない。私を視界に捉えていたのはほんの数秒だったはず。それでも、「着いて来て」と言われている気がした。どうしてかは分からないけど。


 心臓の音がバクバクと鼓膜を揺らす。四階に向かうだけなら……。別に足を踏み入れたからといって、拘束されて無理やり働かされるわけじゃない。


 罠のような誘いに私は惹きつけられて階段を上っていく。四階には当たり前のようにいくつかの店が並んでいた。口に出すのも恥ずかしいような店名。その前にはスーツ姿の男性が客を待ち構えている。その一番奥で、バタリと扉が閉まる音がした。


『御伽』


 オレンジ色のネオンを放つスタンド看板にはそう書かれていた。どうやらここは、スナックらしい。摩耶はあの店へ入って行ったのだろうか。見渡せば、学生をモチーフにした店は何軒かある。それともこのどれかに……。私の意識は、ふいに客引きの男性の視線に向いた。全員がこちらを見つめている。さっき一階で通り過ぎた中年の男性のようないかがわしいものじゃないけれど、これはこれで別の痛さを伴っている。


 引き返すべきか。それとも……。逡巡した結果、無謀にも私の足は前へと踏み出していた。きっと踵を返すのが煩わしかったのだ。いや、単純に怖いもの見たさだったのかもしれない。退屈な日常の中で、不意に湧いてきた非現実的な場所。そこで私の心は舞い上がってしまったのだ。それでいて求めているものは、摩耶の現実的な成れの果てだから笑える。入る場所はただのスナックだ。ならば何も問題はないはず。私はワインレッド色の扉を開けた。

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