(3)

 ★人さらい


 壁と同じ柄、薄暗さも相まって、上手くカモフラージュされているが、そこに扉があると意識していれば、簡単に見つけることが出来た。獣が袖引きをしていると噂を流した当人も同じ理屈を望んでいたのだろうか。噂が広がれば広がるほど、城の中の獣たちは壁の柄に隠れられる。無地の日常に人さらいが起きるのと、獣が蔓延る日常で起きるのとでは、見え方は違うはずだ。


 扉の向こう側は、二手に分かれていた。どちらに進むべきか。左右を見渡しても先は真っ暗で何も見えない。


「どうするおつもりですか?」


 絹織物屋の娘が問いかけてきた。早くここから出たいと言うことだろう。不信感が徐々に増してきたのか、その眉根がゆっくりと下がっていく。


「もう一人、あなたと同じように攫われた女性がいる。私はその人を追いかけて偶然、あなたを見つけた」


「なら、助けて上げなくてはいけません」


「そうだな」


 彼女はいち早く、ここから早く出たいはずだが。承諾してくれたのは、兵士の奥さんがいなければ、自分が今頃どうなっていたかを理解しているからだ。恐怖の中でも冷静で利他的な判断が出来る賢い人だと私は感心する。


 その時、階段の上から声が聞こえてきた。


「地下へ行ったのか?」「そうらしい」「扉が開いていたようだ」「逃がすな」


 どうやら追手が来てしまったらしい。二分の一にかける。迷っている暇はない。私は左の道へ彼女を連れて走り出した。


 走り出してしばらく、選んだ道が正しかったことに私は安堵した。先程と同じ作りの木の扉があったからだ。背後から追手が迫ってきていることもあり、私は勢いのまま扉を開けた。先程のように寸前で助けられると思っていた。彼女を追ってそれほど時間は経っていなかったから。だが、それは淡い期待、願望だった。残酷なことに私の視界に飛び込んできたのは、見るも無残な女性の姿だった。


 わずかに衣を纏ってはいたが、両手は縛り上げられ、男の体液が下腹部に照っていた。涙で濡れた頬は、水滴の痕だけが残り、表情は苦悶のまま固まっている。首には絞められた痕跡があった。ことを終えたあとにつけられたものか、それとも最中か。


 そっと彼女の首元に触れて脈を確認する。それから開いた瞼を私はそっと閉じさせた。顕になっている胸や下腹部を隠してやる。


「……どうしてこんな」


「あまりにひどすぎる」


 こみ上げてきた怒りは、向けるべき場所を見失い。私はぐっと拳を握り込んでいた。部下の奥さんを守れなかったこともそうだが、私の働く真下で、こうして何人もの女性が犠牲になってきたと思うとぞっとした。行方不明者には子どももいたはずだ。――狂っている、狂っている。そんな言葉を叫びだしたい衝動にかられる。怒りで我を忘れかけていた私を現実へと引き戻してくれたのは、絹織物屋の娘だった。


「隊長さん、誰かいます」


 彼女にそう言われて、私は部屋の扉の外へ意識を向けた。確かに人の気配がする。咄嗟に短刀を構えた。けれど、警備兵の雰囲気ではない。殺意を感じなかったから。「誰だ?」と敵意のない優しい声を掛けると、深く帽子を被った男が顔を出した。


「帽子屋か?」


 茶色いハットから長い髪が伸びていた。鍔に指をかけて彼は軽く会釈をする。礼儀正しく悠長にと言うよりかは、こちらの反応を気にして恐る恐るという様子だった。自然と短刀は床の方を向いていた。


「君がどうしてここにいるんだ?」


 そう私が訊ねると、「妻を探しているんだ!」と彼は語気を強めた。


「妻を?」


「そうだ。可笑しなうさぎの耳を着けた女に連れて行かれたんだ」


「何を言っているんだ?」


「数日前から様子が変だった。昼間から出かけることも多くて。浮気かと疑ったが男の気配はない。あとを着けてみたら変な女と会ってた」


 帽子屋の言っていることはまるで分からない。虚言癖か狂ってしまったのかと思ったが、彼は至って真面目な顔で話をしている。


「待ってくれ、何の話をしているんだ」


「妻の話だ。お願いだ! あんた隊長だろ? 妻を連れ戻してくれ」


 涙混じりに帽子屋は私の腕を掴んだ。彼が困惑しているのは、この現場を目撃してしまったせいだろうと思った。自分の妻も同じような目にあっているのではないか、と不安になるのは理解できる。必死に訴えかける帽子屋の目は、暗がりでも分かった。無下に振り払うわけにもいかず困っていると、「獣の袖引きですか?」と絹織物屋の娘が呟いた。


「それは君も被害にあっただろう。獣はこの舞踏会に潜んでいた」


 目の前に悲惨な証拠がある。獣よりも獣らしい愚かなで卑劣な許しがたい行為。それを説話のような噂を流して誤魔化していたに違いない。


 そう思うのと同時に、私はふいに部下たちの話を思い出していた。


 ――うさぎが出るらしいんです。


 確かに部下の一人はそんな話をしていた。良からぬ尾ひれが付きながら、時の流れと共に噂というものは変化して行くものだから、そういうこともあるだろうと気には留めていなかったが。


 舞踏会が噂を利用していたのは違いない。けれど、噂はいつから流れているものなのだろうか。舞踏会は女王が即位してからだ。もし、壁の柄として国が噂を作り出したなら、後発的に流行ったはず。


 残念なことに私は噂の流行時期を知らない。兵士たちに聞けば分かるかもしれないが。もし、噂が先行してあったとするなら、そこには別の正体があるのではないだろうか。もし、そいつが逆に、この舞踏会を壁の柄としてカモフラージュに利用しているならば――――。


「その女の姿を君は見たんだな?」


 その問に帽子屋は頷いた。「うさぎの耳を着けたやつだった。やけに露出の多い格好をしていた、」その時の状況を思い出して、正確に伝えようとしているのが分かった。襟元まで伸びた髪を彼は指先に巻きつけている。


「私は物陰に隠れて話を聞いていたんだ。鏡だって言ってた。そこを通れば別の世界に行けるんだって。こことは違う魅力的な場所らしい」


「どうして君の奥さんが?」


「……分からない。けど、妻は愛想を尽かしたんだと思う。仕事ばかりをしている私に。……多額の富を手に入れて、なんでも手に入るようになった。それが妻や子どもの幸せに繋がると思って頑張っていたのに。けど、私は大切なものを失くしてしまったんだと言われたよ。金を持ってあなたは変わったと」


 よくある話だな、と思った。帽子屋の奥さんの言い分は理解できる気がする。人は変わっていくものだ。それに金とは、最も人を変えてしまうものの一つだというのは自明なこと。だけど、今の彼の必死さを、恐れながらもここまでやって来た姿を見ても、同じことが言えるのだろうか。つまり、変わってしまったのはお互い様なのだろうと思う。それがすれ違いを生んだ。僅かなベクトルのずれが、時間と共に大きな開きを生んでしまったのだ。


 夫婦とは、いや人間関係とは、そういうものだろうと思う。互いを許し合い、ベクトルを再び戻す作業を努力と呼ぶか思いやりと呼ぶか。崩れた絆を取り戻せるかどうかは、その僅かな意識の違いだけのはずだ。


「それで、どうして君はここにいるんだ?」


 様々な事が立て続けに起きて、私もそれなりに動揺していたらしい。彼が確信的なことを話してくれていたのに、上手く飲み込めていなかった。問いかけに答えたのは、帽子屋ではなく絹織物屋の娘だった。


「鏡というものがここにあるからじゃないですか?」


 確かに、この部屋の場所を訊ねた時、貴族は鏡の話をしていた。それがここにあるから石造りの壁で扉を隠しているのだと。


 どうやら私は、まだ壁のカモフラージュに騙されているらしい。この国が隠したかったものが何なのか。本貴族たちが秘密裏に行う性処理などではなく、それこそがその先の秘密に触れさせない為のものだったのではないだろうか。


 獣の袖引きの噂も貴族の強姦も、すべては鏡を隠すための壁の模様だったというわけだ。何重にも掛けられたセキュリティー。それほどまでに鏡というものは隠さなくてはいけないものらしい。


 さらに、それを利用しているかもしれないのが、本物の獣の袖引き……。帽子屋が見たといううさぎの女は、兵士たちが話す噂話と一致する。――何が壁の模様で、何が扉なのか徐々に分からなくなってきた。混乱する脳を単純な目的に切り替える。


「帽子屋、」


 私は彼の肩を掴んだ。警備兵はすぐそこまで来ているはず。それなのにこちらに来ないということは――。ここよりも向かうべき場所があるということだ。「な、なんだ?」と彼はおずおずと答える。


「私は逆の方へ向かう。恐らく警備兵たちはそちらに向かっているはず。そこに鏡があるからだ。それに君の奥さんもそっちにいると思う」


「……妻を連れ戻してくれるのか」


「もちろんだ。だが、君たちがいても足手まといになる。……民間人を二人もかばいながらでは、君の奥さんを無事に連れ戻すことは約束出来ない。分かってくれるな?」


 帽子屋は理解が早い。すぐに頷いた。


「彼女を連れて逃げろ。上にいる一番若い兵士に声をかけるんだ。信じられる私の部下だ。……君の奥さんを連れてすぐに追いかける」



 *


 帽子屋たちは螺旋階段を登って上へと向かった。それを見送り、私は反対側の通路を進んでいく。すでに警備兵がやって来ているかもしれない。なるだけ足音を立てないように、けれど出来るだけ早く走った。


 正面に光明が見えて広場に出た。舞踏会の会場よりも広いかもしない。異様な明るさに目がくらむ。光源はなんなのか。蝋燭やガス灯の明るさでは無かった。天井から降り注ぐ、昼間のような強い日差し。黄色やピンクのカラフルな光が混ざりあっている。遠くにいくつかの長い影が伸びているのが見えて、警備兵の姿だと思い、私は通ってきた通路の影に身を隠した。


 私は正直に驚いていた。城の地下にこのような場所があることもそうだが、これまで誰にもバレずにいたことが不思議でならなかった。単純にこの場所の話を誰かが話していても信じないのもあるだろうけど。この場所の存在を知ってしまったらどうなるのか。情報が漏れていないということは、口封じが行われているはずだ。


 広場の中央には、大きなガラスの板が置かれていた。芸術的な彫刻がされた木枠に収まっている。警備兵たちは、それを取り囲むようにして立っていた。透明ではあるが、水面に映り込むよりも、はっきりと周囲の景色を写し出していて、警備兵たちの数を私に誤認させようとしてくる。あれが鏡というものなのかもしれない。


 私はその鏡の方へ視線を向けながら、自分の姿が映らないように注意して、壁沿いに広場を迂回した。辺りには、あんぐりと口を開けた石像や松明を持った女性の像など、いくつかのモニュメントのようなものが置かれていて、その影に身を隠す。


 帽子屋の話では、あの鏡というものは、ここでないどこかへ繋がっているらしい。繋がっているということは、あれ自体が扉になっているのか、水のように飛び込むことが出来るのか。帽子屋の奥さんは、すでに通り抜けてしまっている可能性もあるが、警備兵の警戒の雰囲気から、まだ見つかっていないのだろうとも思った。いるとすればこの辺りに身を潜ませているかもしれない……。そんな思考を遮ったのは、わずかに背後から聞こえた声だった。


「……どうしたの?」


「娘が気がかりで」


「残していくのが?」


「そうです。幼子ですし。あの子も連れて行くべきなのかもって」


 姿は見えないが、女性二人の声だった。帽子屋の奥さんとうさぎの耳を着けた女だろう。どうやら、私の存在には気づいていないらしい。恐らく背後の石像の裏に潜んでいる。距離的に警備兵たちにその声は聞こえていないはずだ。


「それは、その子自身に判断させるべきなんじゃないかしら?」


「そうですかね?」


「だって、その子が向こうの世界に行きたいかどうか分からないじゃない? それなのに連れて行くのはかわいそうよ」


 ――向こうの世界。やはり、鏡というものが、ここでないどこかに繋がっているというのは本当らしい。二人はそこへ行くことを目的としているようだった。


「それじゃ……、あの子が大きくなったらお願い出来ますか? 私にしたように、向こうの世界のことを伝えてあげてください」


「もちろんよ。あなたの子が十歳になったら、世界の秘密を教えてあげる」


「ありがとうございます。……アリスをよろしくお願いします」


「えぇ。それじゃ、私の合図で飛び出すわよ」


 その言葉を聞いて私は咄嗟に構えた。向かうのは鏡の方向だろう。すぐに警備兵たちが取り押さえにかかるはずだ。その隙きをついて、帽子屋の奥さんを助け出すしかない。


「行くわよ!」


 その声と同時に、私の斜め後ろほどから女性が二人飛び出した。ドレスを着ているのが帽子屋の奥さんのはずだ。となると、見たことのない黒い服を着ている方が、獣の袖引きの犯人だ。帽子屋が言っていたように、頭にうさぎの耳を着けている。


 すぐに警備兵たちがそれに気がついた。「いたぞ!」と彼らは一斉に剣を構える。私は彼女たちに遅れて飛び出した。警備兵はまだこちらに気がついていない。だが、それも一瞬だけのはずだ。鏡までの距離は決して遠くない。五秒も駆け抜ければ辿り着く。


「止まれ!」


 警備兵が二人に向かい叫んだ。武器を持つ兵士を前に、慄くかと思ったが、うさぎの耳の女は怯むこと無く、網目に覆われた足を振り上げた。頭部まで上がった足は、剣士の剣を弾き飛ばす。それから一瞬のうちに彼女は兵士の頭部に踵を落とした。


 中々の手練だと思った。むしろ怯んでいたのは警備兵たちの方だ。露出の多い女性に剣を向けることへの躊躇もあるはずだが、それ以上に彼女の手際に圧倒されている。二人、三人と意図も簡単に大柄の男を彼女は倒していく。


 いくら彼女が強いと言っても警備兵を相手にするのはやはり時間がかかる。彼女が警備兵に気を取られている今が、帽子屋の奥さんを奪取する好機だと思った。


 また一人、警備兵が倒される。私は足を止めない。スタートは一歩遅れを取っていたが、警備兵を相手にしている二人に追いつくことは難しくはなかった。帽子屋の奥さんに私は手を伸ばす。その刹那、警備兵の一人が私の姿を捉え、視線をこちらに向けた。同時に、鏡に私の姿が写り込んでしまう。彼女がどちらで私に気づいたかは定かではない。けれど、恐ろしい速さで私の顎に蹴りが入った。


「思わぬ邪魔が入ったわ」


 くらくらと視界が揺れる。彼女の声が二重に聞こえた。咄嗟に受け身を取ったおかげか身体への負担は最小限に抑えられたらしい。痛みを堪え、無理やり身体を起こす。揺れる視界のせいで、持ち上げている方向が正しいのか分からない。バランスを崩しまた倒れないから間違ってはいないようだった。


 短刀を彼女に向け構える。


「お前が獣の袖引きか?」


 私の問いかけに彼女の口端が緩んだように見えた。輪郭が曖昧だから確証はないけど。まだ数人残っている警備兵とこちらを交互に眺めてから、吐息混じりの言葉を吐いた。


「そう言われている自覚はないし、名乗った覚えもないわ」


「彼女たちは、お前たちも承知していないことなんだな?」


 私が問いかけたのは警備兵に対してだ。彼らは未だにうさぎの耳の女の方へ意識が向いている。彼女は国にとっても邪魔な存在なのだろう。つまり、彼女とこの国の間で、獣の袖引きを行い貴族の強姦をカモフラージュするような根回しは行われていないということだ。


 これではっきりしたことは、獣の袖引きは偶然にも二つの事件が重なっていたということ。うさぎの耳の女が利用していた可能性は否定しきれないが。うさぎの耳の獣と欲望に塗れた人間の獣。流れていた噂は、この二つが錯綜していたらしい。


 ようやく視界と聴覚が安定してきた。歪んでいた輪郭が徐々に鮮明になっていく。うさぎの耳の女の口元は確かに緩んでいた。


「いきましょう」


 警備兵の返答を待たずに、うさぎの耳の女は帽子屋の奥さんの手を引き、鏡に向かい駆け出した。


「待つんだ!」


 追いかけようとした瞬間、私の腕に痛みが入った。咄嗟に矢がかすめたのだと気づく。血が滲む腕を抑えて振り返れば、弓を構えた兵士と女王が立っていた。


「女を連れていたのはその男かい? 逃がすんじゃないよ!」


 どうやら女王からは、うさぎの耳の女の姿は見えていないらしい。女王の言葉に、うさぎの耳の女の方に向いていた警備兵の意識が私に集中した。


 もう一本矢が放たれる。私は倒れるように身を屈め、射線を消すように近くの石像の影に身を潜めた。視界の端は、うさぎの耳の女と帽子屋の奥さんを捉えていた。既に鏡の目の前にたどり着いている。その手前で警備兵が私の方に向かい剣を振り上げていた。


 彼女たちは足を止めることはない。躊躇や迷いはなく、ガラスへとその身を飛び込ませた。静かな着水だった。水面に雫を垂らしたように、鏡の表面が波紋を打つ。音もなく、衝撃もなく、ただ穏やかに。彼女たちの身体はガラスの中へと吸い込まれていった。


 私は立ち上がる。短刀を構え、警備兵の剣を受け止めた。


「あの鏡は何だ!」


「私が知っているとお思いですか?」


 嫌味な言い方だったが正論だと思う。あの女王が部下に情報を漏らすとは考えづらい。それが機密なら尚更だ。


 痛む腕に無理を言って、私はありったけの力を込めた。警備兵の剣を振り払う。倒れ込むようにして、鏡の方へと私は身体を飛ばした。


 私は鏡の前に倒れ込んだ。映りこんだ自分はやけに間の抜けた顔をしていた。水面に写り込んだのを見たことはあったが、生まれて初めてマジマジと見つめ合うことになった。一国の軍の隊長としてあまりに勇ましくない面構えだ。滲んだ血が手を赤く染めていた。どくどくと脈を打つのが分かる。


「馬鹿な真似をしてくれたね」


 弓を構えていた警備兵を静止して女王がため息混じりに漏らした。


「国民を守るためです」


「国民は守られているよ」


「犠牲の上でですか?」


「綺麗事じゃ国は収められないんだ」


 言い返すことは出来ない。恐らく私の計略が失敗に終わって、多くの国民の命が救われた。けれど、代わりにこれからも犠牲が生まれてしまう。


「それと他に誰かいたようだったけど?」


「若い女性が二人おりました」


 答えたのは剣を構えている警備兵だ。


「女を連れていたのはそっちだったか。鏡の向こうに行ったのかい?」


「おそらくは……」


「まぁいい。出ていったものは仕方ない。それと帽子屋も忍び込んでいたと聞いたけど?」


 帽子屋が地下へ入るところも目撃されてしまっていたらしい。ただ、後続の女王たちが帽子屋に接触していないということは、二人は上手くここを抜け出せたらしい。若い兵士に無事保護されているといいのだが。


「すみません、鏡の方を優先しろという命令でしたので」


 女王は眉を潜めたが、「いいだろう」と渋い声を出した。


「殺すのか?」


 帽子屋がこちら側にいないということは、鏡のことはまだ知らないと思われているはずだ。けれど、同時に、貴族の強姦の方は見てしまっているということを暗示している。口封じをするのが定石に思えた。


「わざわざ手に掛ける必要もないだろうさ。殺人に見せることは容易いが、最近は獣の袖引きの噂で人出が減ってしまっているからね。あまり使いたい手段じゃない」


「随分、優しいな」


「そうかい? 何事もバランスが大切なんだ。天秤が傾かないようにね。それに、殺さなくても富を奪うことが出来る。落ちぶれて、みすぼらしくなるだろうさ。そうなれば、やつの話なんて誰も信用しなくなる。財産を失い、狂っちまったと人々は指を差すだろうね。そもそも、帽子をこうして舞踏会で使ってやっていたっていうのに、私たちの秘密を探ろうなんて薄情な話だ」


 女王の高笑いが明るい部屋に響く。殺すよりも悪趣味だと思った。けど、帽子屋には娘がいるらしいから、命を奪われないのは救いだろうとも思った。妻を失い、富をすべて奪われたとしても、生きていく灯火になるはずだ。 


 警備兵がゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。負傷をしているせいで分が悪い。それに捕まれば、帽子屋のように生かされることはないだろう。待っているのは見せしめの死だ。


 哀れな自分の姿が写り混む鏡の方を振り返る。私は意を決して、その中へ飛び込むしか無かった。

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