(4)

 ★アリス


 スーツの男を追いかけて、僕は石造りの螺旋階段を下っていた。前にいる彼と僕の後ろに迫る兵士の距離は同じくらい。前後で鳴る足音が円柱の形をした空間へと降り注ぎ、何重にもなって返って来る。徐々に鼓膜を揺すっているのが、自分のものなのか、兵士のものなのか、曖昧になり、その距離すらも掴めなくなっていった。


 水の音に足音がかき消され始めた頃合いで、階段は終わりを告げた。どうやら下水か地下水が足元に流れているらしい。道が二手に分かれている。真っ直ぐ奥へ続く鉄柵の道と石造りの扉の方だ。わざわざ開いているのだから、アリスたちはそちらに向かったのだろうと思った。その先は、また二手に分かれていたが、遠くに足音が聞こえたのと、薄暗く開いていたから見えづらかったが、そちらの方には扉があり、迷いはしなかった。


 扉には南京錠がついているのが確認できた。普段はこちらも閉ざされているらしい。


 やがて広場にたどり着く。異様な明るさに目がくらんだが、僕は瞼を閉じることは無かった。アリスたちの姿を探さなくちゃいけないから。だだっ広い空間を見渡せば、中央に木枠に収められた巨大なガラスを見つけた。


 あれが鏡と呼ばれるものだろうか。ただのガラスのように透けているだけのように見えたけど、その鏡と呼ばれるものは確かに辺りの景色を写していた。


 部屋の周辺には奇妙な形のオブジェが点在していた。追ってくる兵士たちから身を隠すため、その後ろに回る。アリスたちも同じように隠れているのかもしれない。そう思ったのは、鏡の周辺にスーツの男がいたからだ。


 彼はアリスたちを探している様子だった。うさぎの耳の彼女は鏡がここではないどこかへ繋がっていると話していたから、あの鏡の中へと入るんだと思う。アリスたちが鏡を抜けたなら、スーツの男もそれを追いかけるはずだ。そうしないのは、まだこの辺りにアリスたちがいるからじゃないだろうか。


 僕が身動きを取れないでいると、入り口の方から兵士たちがやって来た。それを見て、スーツの男も身を隠す。兵士たちの隣には女王の姿もあった。


「まだ鏡の中には入っていないようだね」


「探します」


「早く見つけな」


 三人の兵士がバラバラに僕を探し始めた。オブジェの影に隠れながら、僕はさらに奥の方へと進んでいく。あんぐりと大きく口を開けた円形のオブジェの奥から話し声が聞こえて、僕は思わず声をかけてしまう。


「アリス?」


 ドレスを着たアリスがひょっこり顔を出した。兵士たちに見つかっちゃ大変だ。そう思ったのと同時に、うさぎの耳の彼女の手がアリスの頭を抑えた。僕はバレないように回って、二人の方へ向かう。


「良かった無事だったのね」


「うん!」


「それに危険を犯して騒ぎを起こしてくれたんでしょ?」


 僕はどんなもんだいと胸を張ってやる。やる時はやるんだぞ、と。「ありがとう」とアリスが頬を赤くしたのを見て、僕の胸には熱いものが広がっていた。ソワソワとするけれど、気持ちの良いものだ。こみ上げてくるそれを舌の上で転がせば、ほろ苦く甘い味が広がった。


 幸せな気持ちを噛み締めながら、淡々と状況を把握しようとしているうさぎの耳の彼女を見て、僕も平静を取り戻し始めた。ドキドキと脈を打つ心臓を無理にでも落ち着かせる。


「どうするつもりなの?」


「中央に見えているでしょ? あれが鏡よ。あの中に入るの」


「そうすれば、アリスの望む世界に行けるんだよね?」


「そういうことよ」


「でも、鏡の近くにはスーツの男がいるんだ」


「分かっているわ。彼にはいつも邪魔されているの」


 ということは、僕のしなくちゃいけないことは明白だ。混乱を引き起こす役割はまだ終わっていない。ここから鏡までの時間を僕が稼いでやれば、アリスは無事に鏡の中に入れるはずだ。


「こっちに兵士が近づいているわ」


 アリスが僕らの背中を叩いた。もちろん、僕も彼女も承知している。けれど、タイミングを間違っちゃいけない。分かれた兵士の動き、それにスーツの男の動向も同時に追いかけなくてはいけない。好機は少ない。一度かもしれない。それを逃さないように。草原の中で獲物の警戒心が解けるのを待つ獣のように息を殺して待つ。その時はなんの前触れもなく訪れる。


「今よ!」


 うさぎの耳の彼女の合図で僕らは一斉に飛び出した。アリスの手はうさぎの耳の彼女が握っている。それがどういうことなのか、僕は理解しているつもりだ。だから、僕は二人に一歩だけ遅れて飛び出した。僕の決意は変わらない。こちらに気づいた兵士が「いたぞ!」と声を上げる。


「あのガキだけじゃなかったのかい」


 女王の舌打ちが響いた。連れてきた兵士の少なさを嘆いたのかもしれない。追いかけてくる兵士の姿にアリスの足が少しもつれる。「足を止めないで!」とうさぎの耳の彼女が倒れそうになるアリスの腕をぐっと引いて小さな身体を持ち上げた。アリスはバランスを取り戻す。


 時を同じくして、鏡の影からスーツの男が顔を出した。彼のことを見えているのは僕らだけらしい。兵士や女王の方はこちらを注視している為、彼の存在に未だに気づいていない。あの男もこの騒ぎに加わればと思ったのだけど。兵士は僕らの正面に一人、背後に一人、女王の方に一人。正面は、うさぎの耳の彼女がなんとかするはずだ。だとすれば、……僕が出る幕はここしか無いじゃないか。


「二人はそのまま突っ込んで!」


 僕は、目一杯つま先で床を踏ん張って、進行方向を変えた。視界の端のアリスたちが遠ざかる。アリスの姿を見るのはこれが最後かもしれない。そんな思いが視界を潤ませる。ちゃんと目に焼き付けておきたいのに。拒もうとする足を無理やり動かして、目指したのは女王の方だった。


 僕は武器なんて何も持っていない。けど、人は見てくれで騙されるものだ。だから、懐に手を忍ばせた。短刀でも持っていると誤認してくれればいい。それで、兵士たちの反応が一瞬でも遅れてくれればそれで良かった。


「私に構わず、あんたたちはそいつらを止めな!」


 僕の目論見は予想以上に上手くいったらしい。三人の兵士は、足を止めて、こちらに向かおうとしていた。女王はアリスたちを捕まえるよう命令するが、一国の長が狙われているのだ。たとえ命令であっても、すぐに決断するのは難しいはず。


「アリス、彼に構わず走るのよ!」


 背後からそんな声が飛んだ。アリスも気づいてしまったらしい。僕がそちらに向かうつもりがないことを。けど、本当はアリスと共に行きたいのだ。いつだって傍にいたい。幾歳月が流れようとも、消えない思いがあるから。


 女王に傷を負わせたいなど、もちろん思っていなかった。けど、ハッタリだけでは限界がある。兵士たちの気を最大限にこちらに向ける為には、仕方のないことだった。本気で殴りかかるつもりで行こう。そう決めて、僕は懐に入れた手をギリギリまで隠し、女王に飛びかかった。


 次の瞬間、激しい衝撃が僕の側頭部を襲った。視界が九十度倒れている。床に倒れてしまったらしい。頭をぶつけた痛みはあるが、身体に衝撃はなかった。すぐに起き上がろうとするが、力が入らない。手を動かそうとしても、足を動かそうとしても、言うことを聞いてくれない。まるで、そこに何もないような感覚がした。


 視線だけで辺りを見渡す。ここからでは鏡のところが上手く見えなかった。アリスは上手く逃げられただろうか。スーツの男に阻まれていないだろうか。


 巡る思考を遮ったのは、女王に髪を掴まれた痛みだった。彼女は無理やり僕を起き上がらせる。いや、正確にはが正しい。僕が状況を理解したのは、髪を掴む手とは逆の手で握られていた剣と、床に転がる僕の身体を見たからだ。


「随分、暴れてくれたね」


 女王は眉根に皺を作る。不機嫌に鋭さを持った双眸が僕を見つめた。瞳には、あの鏡のように景色が映り込んでいる。首から下のない僕、弱く力のない僕、涙のメイクがわずかに崩れた僕の姿だ。


「また逃げられちまったじゃないかい」


 女王はそうボヤいた。逃げたのはアリスのことだろうか。持ち上げられたはずみで鏡の方への視界が良好になっていた。石を水面に投げ込んだように鏡が揺れている。大きな波紋が広がっては閉じて、を繰り返し、穏やかな静寂へと戻りつつあった。


「…………、僕の身体は?」


 息を切らした僕の問いに、女王がふんと鼻息を荒くした。


「心配しなくても死にはしないよ。命を取らなかっただけ感謝しな。身体を切り落とす罰さ。ガキを殺して面白がるほど私は悪趣味じゃないんだ」


 殺されないと聞いて、僕は安心していた。いや、アリスが無事に逃げ切れたことを安心していたのかもしれない。


 乱雑に僕を抱えたまま、女王は鏡の傍にいた兵士たちの方へ歩み寄って行く。まだわずかに揺れる鏡の波紋を見つめながら、僕は心の中で「さよなら」と呟いた。


「取り逃がしたかい?」


 そう彼女が訊ねれば、兵士たちは急に剣を構えた。どうして女王に武器を構えるのかと僕は焦ったが、すぐに背後にスーツの男が忍び寄って来ているのだろうと思った。もしかすると、彼は獣の袖引きの犯人かもしれない。「そいつは怪しい男だ! アリスに近づいていたんだ」と僕がそう言うと、兵士の一人が不思議な顔をした。


「両手を上げてください」


 その言葉が女王に向けられていたものだと、僕は彼女が手を上げてから気がつく。彼女の手にいた僕の視線も自然と上がった。兵士たちの向こう側にスーツの男が立っているのが見えた。兵士たちが彼に敬礼をする。


「素直に聞き入れてくれました」


「そうだな。良かった。……いや、彼女は馬鹿な我儘女王なんかじゃない。間違った状況判断はしないんだ。昔からな。……だが、あなたはこれでお終いだ」


 スーツの男が悲しげにそう呟いた。兵士たちは彼のことを「隊長」と呼んでいた。

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