(3)

 ★アリス


 話をしてしまったせいで、理髪店からの帰りはすっかり遅くなってしまった。陽は沈んで、ガス灯が灯っている。僕の袖を引こうなんて獣はいないはずだけど、ちょっとだけ怖いので、煉瓦畳の人通りの多い道を進んでいた。


 僕が住んでいるのは一番街の路地裏にある小さな家、父と暮らしていた時は狭く感じていた家も、一人になってしまうと広く感じてしまう。アリスを連れてきて二人で暮らす。なんてことも考えはしたけど、雨の日にはジメジメとして、晴れの日だってさして陽の差さないここへ彼女を連れてくるのは申し訳なかった。


 馬車が行き交う大きな交差点を超えてすぐの路地を曲がる。ポツポツと道を照らしているのは、密集する小さな家々の窓から漏れる明かりだけ。街頭は整備されておらず、地面も舗装されていない。


 見窄らしさは隠せないが、母が生きていた頃から貧乏なわけではなかった。十年ほどで街が発展したのだ。戦争中も御伽の国は、戦場になることはなかったから。当時のこの辺りは、一般的な庶民の家々が並ぶ通りだった。


 そもそも、父は軍人だからそれなりの報酬は得ていた。子どもが生まれるからと、贅沢は避けて蓄えに回していたみたいだし、僕が生まれれば、広い家に引っ越すつもりだったらしい。母がいなくなったことでそれは叶わず、今の家に居座ることになったが。


 そのおかげで、僕は一人になっても、こうして露頭に迷うことなく暮らしていけている。もちろん、父が残してくれた貯金を崩すだけじゃいつか底が尽きるので、アリスの世話係として働いているけど。


 自宅に着き、鍵を開けようとしたところで、僕は声を掛けられた。


「ピエロさん」


 急だったが、聞き馴染みのある声だったので、さほど驚きはしなかった。振り返れば、薄暗い玄関前の段差下にボストンバックを持ったシルクハット姿の男が立っていた。帽子屋だ。


「なに?」


 僕は怪訝な顔をしていたはずだ。けど、帽子屋はさほど気に留める様子もなく、返事をした。


「用というほどのことはない」


「なら呼び止めないでよ」


 鍵に付けた鈴がなる。鍵穴に刺そうとしたところでまたもう一つ返事が来た。


「気をつけた方がいい」


「何にさ」


 僕は鍵をポケットにしまい彼の方を振り返った。段差のせいで僕の方が、少しだけ背が高い。彼は帽子の鍔を少し指で持ち上げて、僕を視界に捉えるように見上げる。


「危険なことをしようとしているんじゃないか?」


「危険なこと?」


「思い当たるフシがあるはずだ」


 確かにないわけじゃない。あのうさぎの耳の彼女の指示に従うことは、危険なことに当たるはずだから。けど、そのことを帽子屋は知らないはずだ。


 それに僕は正直驚いていた。帽子屋がこうしてまともに口を聞くやつだと思っていなかったから。


 彼は若くして帽子売りで財を成し、多額の富を手に入れたらしい。らしいというのは、その面影などなく、今はすっかり落ちぶれてしまっているからだ。妻と娘がいたというが、どういうわけか今は独り身。噂は色々ある。金を持って逃げられただとか、別の男に取られただとか。どうも家族を失くしてから、彼は精神的に参ってしまったらしい。朝から晩まで街を徘徊しながら、怯えた様子でホラを吹き歩いているという。ボストンバッグを持って歩き回る様は、彼が商売を始めた頃の姿と重なると、街の人は言っていた。懐かしい思い出に浸りたいのだろう、と。


「……あんたに話す必要はないだろう」


「そうかもしれないが、そうということもある」


 せっかく成立していたと思った会話が怪しくなってきた。帽子屋は急に鍔を深くする。見たくないものを拒むような仕草だ。視線を落としてボソボソと呟き始める。


「……また誰かが攫われる、……また誰かが攫われる」


「何をブツブツ言ってるんだ!」


「街のどこからか足音が聞こえないか? コツコツ、コツコツ、と。恐ろしい獣の足音だ。やつらは袖を引こうとしているんだ。狙いを定めている。淑女の? お前の? いや、私の? 違う……あの子のだ。私の大切なあの子の袖を。あぁ……、聞こえるだろう……? ほら耳をすませ、よく耳をすませ」


 さっきまでまともに話していたのが嘘のように、彼は身体を押さえて震え出す。


「足音なんて何も聞こえないよ」


「聞こえるだろう……? お前には聞こえないのか。この恐ろしい足音が。…………また連れ去る気なのか? なぁ!」


 まるで威嚇するように語気がじわじわと強くなっていく。「近所の迷惑になるからやめるんだ」と僕が怒鳴れば、恐怖に支配されていた彼の表情は、まるで水がスポンジに吸収されていくみたいにすっと引いていった。


「私を嘘つきだと思うかね?」


 まるで別の人物と話しているみたいだと思った。二重人格というやつだろうか。僕は医者じゃないからそういう類の判断はできないけど。彼自身に直前の記憶がないなら、そういうことになるのかもしれない。確認する意味も込めて、僕は「さっきまで怯えていたのも嘘でしょ?」と訊ねてみる。


「嘘じゃない」


 淡々と帽子屋は答えた。記憶はあるらしい。それじゃこれは二重人格には当たらないものだろうか。けど、嘘つきの帽子屋だから、この発言すらも嘘である可能性はある。結局のところ何も信用できないのだ。


「けど、君は嘘しかつかないって評判だ」


「嘘か」


「この間もアリスにおかしなことを吹き込んでいただろ」


 アリスの名前を出すと、帽子屋はやけに悲しそうな表情をした。帽子の鍔を指先でぐっと握り込む。


「おかしなことじゃない」


「おかしなことだ。それに理髪店の嘘を流すのは営業妨害や名誉毀損になる」


「シャム猫は見てくれていただろうな」


「え?」


「あの日は逃げ出さずに大人しくしていたから。もしかしたら寝ていたのかもしれないが。あいつが喋ってくれたら」


 猫が人間の言葉を話せる訳がない。そんなの絵本の中の出来事だ。まさか帽子屋は、猫は話すものだとでも言いたいのだろうか。「猫が話せるものか」と僕が言えば、「そりゃそうだ」と帽子屋は笑った。


「誰も私の話を肯定してくれやしない。だから嘘ということになる。たとえ、私が本当のことを言っていてもだ」


「どうだろう?」


「それじゃ私は本当のことを言わないと?」


「そうだね。君は嘘つきだから」


「では、これはどうだろう。――私は嘘をつく」


「そうだね」


「これは本当のことか? 嘘なのか?」


 僕はつい黙ってしまった。確かに、嘘つきは嘘しかつかないわけじゃない。時には本当のことを話すことだってあるはずだ。それでも、今の発言が彼のこれまでの言動をすべて肯定する材料になるわけではない。彼が嘘しかつかないわけじゃない、という証拠にはなるだろうけど。


 ただ、僕が想像していた彼という人間の評価の基盤を揺さぶるには十分なものだった。


「私が嘘つきなのは、誰も私の話を嘘だしてと疑わないだけだ。何を言っても信じて貰えない。笑われてしまう。どうしてか分かるか?」


「……さぁ?」


「その方が、都合がいいからだ」


「都合がいいって一体誰にとってさ?」


 帽子屋は急に振り返った。どういう意図だろうか。その疑問と同時に、僕の直感は、彼は城の方を向いているのだと思った。


「……どうして、お城を?」


「君にはそれを知る権利がある」


「僕にどうしてその権利があるのさ」


 帽子屋はこちらを見る。少し上を向いて僕の目を見つめた。真っ直ぐな帽子屋の双眸は薄暗くてもはっきりと分かった。ひどい隈に覆われて、疲れ切っているが、瞳はとても澄んでいる。嘘つきの目には見えなかった。


「それは、私は君の母が――」


 帽子屋がそこまで言ったタイミングで大通りを馬車が横切った。轟々と地面が揺れる。そのせいで、帽子屋の言葉の後半を聞き取ることは出来なかった。


 帽子屋はこちらに言葉が伝わったと思ったのか、やけに満足げな表情をしていた。人間味の溢れるその表情に、思わず彼の言葉を聞き返したくなった。けど、脳裏にアリスの顔が浮かぶ。僕の母の話、そして危険な真似をするなという忠告。なんとなく彼の話を聞けば、アリスと一緒にうさぎの耳の彼女に着いていくことが出来ないような気がした。


「嘘つきの話はこれ以上聞きたくない」


 僕は慌てて鍵を開けて、家の中に入って扉を閉めた。帽子屋は、しつこくすることもなく、すぐに扉の前からいなくなった。伝えたのだから、拒まれたら仕方ないとでも思ったのだろう。僕の耳には、彼の言葉のすべてが届いていたわけじゃなかったのに。


 僕は力が抜けて、ゆっくりと床に倒れ込んだ。ただ静かに、街のざわめきだけが、照明の点いていない寂しい部屋に響いていた。




 ★私


 青色のクレパスがパキッと折れてしまった。丁寧に塗り進めていた空の一部に不格好な濃い線が入ってしまう。


「あーあ、」


 余計な力を入れてしまったせいだろうか。私は折れたクレパスを握った手をじっと見つめる。その手にふと細い影が落ちた。


 私は驚いて振り返る。というのも、平日の緑地公園は人も少なく、誰かが近づいてくることはまずない。それに母は飲み物を買いに行ってくれているので、影の主が母ではないことはすぐに分かったからだ。


「綺麗な絵ね」


 淡麗な顔立ちの女性が、私の絵を覗き込み微笑んでいた。近づいて来たのが女性だったことで私は少しだけホッとした。先日、見知らぬスーツ姿の男性から声を掛けられたことがちょっとしたトラウマになっていたらしい。意識していなかったが、当然といえば当然だった。


「でも失敗しちゃった」


「そうなの?」


 彼女は不思議そうに首を傾げる。そこでようやく彼女の頭にうさぎの耳が着いていることに気がついた。それにやけに肌を露出した格好をしている。確かバニーガールと呼ばれる服装だ。昼間の緑地公園には、ふさわしくない格好であることくらい私にも理解できた。


「私には十分、素敵に描けていると思うけど」


「ほら、ここの空。クレパスが折れたせいで、余計な線が入っちゃった」


「あ、本当ね」


 彼女は私の隣にひょっこり腰掛けた。それから優しい手付きで、私が失敗した空の箇所を彼女の指先がなぞった。


「統一感のある世界でポツッと浮いてしまうのは美しくないってことね」


「そういう言い方も出来るかもしれないけど、」


「あなた自身はこの空みたいに同じ色に染まりたいの?」


「どういうこと?」


「この世界に生きるっていうことは、同じ色に染まるっていうことでしょ? それぞれの特徴を打ち消しあって、塗り潰し合う。決められた空の色になるまでね。あなたはそういう生き方をしたいと思ってるの? 違うでしょ?」


 私には彼女の言いたいことがよく分からなかった。それは彼女の比喩表現が理解できなかったというわけではなく、単純に同意出来なかったというニュアンスに近い。


 彼女は、この世界を私が描いた青い空に例えて、同じ色に染まらなくちゃ生きていけないものだ、と皮肉を言いたいらしい。つまり、私がこの絵を不格好だと思ったのは、そういう思想があるからだ、と。


「あなたは、別の世界へ行くことだって出来るのよ」


「別の世界?」


「そう、」


 彼女の指が絵から離れた。不思議なことに、そこにはあの不格好だった線はなくなって、綺麗な統一感のある青に変わっていた。


「こういう風にならなくていい世界。あなたはこっちにいるべきじゃない人よ。別の世界で、自分らしい色になれるはず。そういう素敵な世界があるの。行ってみたいと思わない?」


 私は彼女とは分かり合えないと思った。もちろん彼女の言いたいことは分かる。この社会ははみ出し者を笑うものだ。歌を歌う時間に絵を描けば指を差され、和を乱していると注意される。時として同じ色に染まらなくちゃいけない場面もあるはずだ。でも、それは個性を否定しているわけじゃない。空は決して同じ色だけではないから。私が描いたこの絵だって、どの瞬間も違う青で出来ている。その瞬間だけ似た色が集まっているかもしれないけど、確かに違った色なのだ。だから、歌う時間に絵を描きたいなんていうのは我儘な子どもの言い訳なのだ。与えられた色で個性を出せばいい。


 そもそも、世界は空の青だけではないじゃないか。緑があって黄色があって赤があって、それが折り重なって、世界が作られている。青に染まらなくちゃいけないなんていうのは思い込みだ。だって、赤色の花が咲いているのを見て、指を差す人はそれこそおかしな人だから。


 けど、赤い花が咲いて指をさす人もいれば、空に染まらないことを怒る人もいる。それは、細やかな色彩の差を理解しようとしていない人たちなのだ。彼らは分かっていないと割り切れれば楽だけど。そう簡単にはいかないし、そんな人を見ると居た堪れなくなるのも理解できる。


 だけど――。


「私はそういうふうには思えない」


 意外なセリフじゃなかったのか、彼女は表情を変えなかった。網タイツの太腿を腕で掴みながら、三角座りをする。膝に胸を押し付けて、彼女はため息をついた。


「それじゃ、どうしてあなたは線の入った空を不格好だと思ったの?」


「それは……、」


 世界が多様性に溢れているなら、この不格好な線も良しとしなくてはいけなかった。それは彼女の言う通りだと思う。


 けど、理由ならある。この絵自体が自己投影だったからだ。どんな自分で在りたいか、どんな自分になりたいか、その理想を目指して失敗をした。失敗に後悔はつきものだ。だから、時として不格好な線が出来てしまうことだってある。でも、その後悔はやがて糧となる。目を背けてはいけないものなのだ。この青であるべきだと、他人に強要しているわけじゃない。


「私は今の自分自身を描いたんだと思う。あなたの言う世界を描いたわけじゃないの。だから、あなたにこうして直して貰う必要はなかった」


「そう。それは余計なお世話だったわね」


 そう言って彼女は立ち上がる。


「けど、私はそういうあなたが好きよ。あなたの生き方がね。きっと気にいるわ」


「私はあなたが言う理想の世界に興味はないの」


 拒絶のニュアンスが伝わらなかったのだろうか、と私は率直に行くつもりがないことを伝えた。私の想像に反して、彼女はかぶりを振る。


「気にいるのはあなたじゃないわ」


「私じゃない?」


「いいのよ。こっちの話だから。……時間を取らせちゃったわね。お詫びにこれを上げる」


 そう言って、彼女は胸元から紙切れを一枚取り出した。どうやら何かのチケットらしい。


「絵が好きなんでしょ? 美術館のチケットよ。一枚しかない上に、日付が決まっているけど」


「貰っていいの?」


「もちろん。あなたの絵に余計なことをしちゃったから。それにその日、私は舞踏会でいけないの」


「舞踏会?」


「えぇ」


 貰うのは申し訳ないと思いつつ、私は美術館の展示に引かれるものがあった。チケットに書かれていたタイトルが、『不思議の国のアリス展』だったから。どうやら様々な画家がアリスの世界を描くという内容のようだ。アートに振ったものや原作に忠実なもの、ポップになったものや水彩画や版画まで、多岐に渡る展示が行われているらしい。


 ちょっとだけ逡巡して私は有り難く貰っておくことにした。せっかくくれると言うのだ。断るのも申し訳ないし、彼女が行けないならチケットが無駄になるよりよいだろうと思った。


「ありがとう……、」


 そうお礼を告げて顔を上げると、そこにはもう彼女の姿は無かった。


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