六章「夕月色」
(1)
★アリス
テーブルの上に立つと、頭一つ分抜きん出た。会場の端までよく見える。大人の視界というものはこういうものなのか、と僕は感心してしまう。けど、そんなことを悠長に考えている暇はない。アリスの傍にスーツの男が近づいているのが、マジマジと見えたから。並べられていた皿やコップを足で弾いて床に落としてやる。食べ物が入っているのが心苦しかったが、騒ぎを起こすためには仕方なかった。
急に暴れ出した僕に驚いて、近くにいた人たちは一歩後ずさった。「急にどうしたの」「子どもが暴れだした」「テーブルの上よ」と言葉がまるで伝言ゲームのように口々に広がっていく。遠くにいるせいで事態が飲み込めていない人もいたのだろう。皿の割れる音を聞いて悲鳴を上げる女性もいた。
「ピエロが狂ったぞ!」
そう声を上げたのは兵士の一人だった。それを聞いて、会場の入口そばで警備していた兵士が三人ほど、こちらに向かってやって来るのが見える。人混みをかき分けながら、手には棍棒が握られていた。僕は暴れることを続けながらも、冷静にアリスとうさぎの耳の彼女の動向を追っていた。
「そのピエロを取り押さえろ!」
狂ったなんて兵士に言われたが、残念ながら至って平静を保っている。簡単に捕まるわけにはいかないと、机から飛び降りて、今度は踊りを続ける会場の中央の方へと駆け出した。
というのも、僕が騒ぎを起こしてしまったことで、うさぎの耳の彼女が動き出してくれたからだ。彼女がアリスの手を引いて奥の方へ消えていくのが見えた。恐らく鏡はそちら側にあるのだろう。警備の目は完全に僕に向いている。なるだけ長く、騒ぎを起こし続けなければいけない。
先程まで踊っていた男女が手を繋いだまま、呆然と僕の方を見つめている。その男女の間を猫のようなすばしっこい動きで逃げ回った。淑女たちの長いスカートに足を取られそうになりながらも、小さな身体を上手く利用して、兵士たちに追いつかれないように駆け抜けていく。
時折、真っ白なテーブルクロスを引っ張って、盛大に皿を撒き散らした。床に散らばったトマトのスープがクロスを赤く染めていた。血と勘違いした人たちが青ざめているのが、少しだけおかしかった。
「何をしてる! 早く捕まえな!」
叫んだのは女王だった。彼女の一声で、沢山ある会場の入り口から兵士がどっと流れ込んで来た。僕は咄嗟に、会場の中央に左右から半円状に続いている階段を駆け上がった。
階段の先にいるのは女王だ。まだ随分と若い。即位したのが十代の頃だと聞いたから、まだ三十前後のはずだ。当たり前だが、彼女の傍にも兵士はいた。登ってくる僕に向けて彼らが身構える。これはいけないと、振りかえれば、後ろからも兵士が階段を登って来ているのが見えた。僕は一瞬だけ逡巡して、階段の欄干に手をかけよじ登る。少し離れたところで吊るされているシャンデリアへ、サーカスのブランコ乗りさながらに飛び移った。
僕がしがみついた拍子に、ガシャンと音を立てて、シャンデリアのガラスの一部が下へ落ちていく。キラキラと雪の結晶みたいな瞬きが、真っ赤な絨毯の上に降り注ぐ。グラグラと揺れるシャンデリアは八の字を書くようにして揺れていた。
「こら! 何をしてるんだい!」
女王が激しい口調で僕に叫んでいた。綺麗な藍色の瞳が気色ばっている。彼女にとっては大事な舞踏会なのだろう。それをぶち壊しにしていることは確かに申し訳ない。けど、アリスのためなのだ。アリスの望みを叶えるために、今日だけは我儘を言わせて欲しい。それが叶えば、どんな罰でも受けるから。
そうやって暫くの間、シャンデリアに捕まっていると、兵士たちは長い棒のようなものを用意し始めた。どうやら、それを使って、僕をシャンデリアから叩き落とそうという寸法らしい。落ちてきたところを捕まえようと、真下にも、うじゃうじゃと兵士たちが集まっていた。
どうしたものか、と悩んでいると、アリスたちが抜けていった方向へ、スーツの男が消えていくのが見えた。「私の邪魔をするあの人よ」。うさぎの耳の彼女の言葉が過る。どういうわけか、スーツの男はアリスとうさぎの耳の彼女を止めようとしているらしい。
ここまでやって来て、失敗するわけにはいかないと、僕は身体を激しく揺すってシャンデリアをがるんがるんと揺らした。
するとまた、砕けたガラスの破片が下に向かって降り注いだ。上を向いていた兵士たちの視界を一瞬奪うくらいには十分だった。僕はすぐさまシャンデリアから飛び降りて、破片に苦しむ兵士たちの傍を駆け抜けていく。
「逃げたぞ! 城の奥へ行く気だ!」
兵士たちの怒号が響く。長い棒を持っていた兵士たちはすぐに動き出すことが出来ない。滑稽だ。思わず、笑いが零れそうになる。けど、失礼なのでぐっと堪えた。僕は道化師で笑われるのが仕事だ。人を小馬鹿にすることは許されない。次いで「そっちはマズイ、絶対に捕まえな!」と女王が叫んだ。
確かに会場をめちゃくちゃにはしたが、そこまで必死になる意味はなんなのだろう。僕はふいにこっちに鏡があるせいだろう、と思った。御伽の国が秘密にしているものがバレてはいけないと、彼女は慌てているらしい。それはつまり、うさぎの耳の彼女が言っていたことが本当だということだ。今の今まで疑っていたわけではないけど。心のどこかでそんなものないのかもしれない、という疑念があったのは事実だった。ただ、アリスが信じているから僕も信じていただけだ。それが確信に変わったからか、あまりに暴れすぎたためか、僕の心臓はどくどくと激しく脈を打ち始めた。
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