一年後、四月

 薄桃色の花弁が、ひらひらと風に舞っている。今年は暖かくなるのが早かったせいか、桜の見頃はやや過ぎてしまった。花見をするには遅いかもしれないが、彼女と散り際の桜を楽しむのも悪くないだろう。常夏の国にいる彼女は、今年はまだ桜を見ていないと言っていた。

 彼女がシンガポールに渡ってから、はや一年が経とうとしている。お互いに連絡を取り合ってはいるものの、社会人がそうやすやすとまとまった休みが取れるわけもない。念願叶って付き合い始めたものの、実際に顔を合わせたのはまだ数回だ。正直、かなり寂しい。

 しかし、今日はそんな彼女が久しぶりに帰国してくるのだ! 俺はまるで飼い主を待つ忠犬のようにそわそわとした気持ちで、国際線の到着ロビーに立っていた。

 ちょうどそのとき、どっと人の波が押し寄せてくる。外国からのツアー客もいるようだ。周りに埋れてしまいそうなくらい小さな彼女の姿を、俺はすぐさま発見することができた。――ああ、俺はやっぱり彼女を見つけるのが得意だ。


「千花!」


 名前を呼ぶと、千花は重そうなスーツケースをゴロゴロと転がしながら、こちらに駆け寄ってきた。


「迎えにきてくれてありがとう。……久しぶり」


 そう言ってはにかんだ彼女を、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られたが、すんでのところで堪えた。今回はまだまだ一緒にいられるのだ。再会して早々、恥ずかしがり屋の彼女を怒らせることはない。


「荷物持つよ。とりあえず俺んち向かおっか」

「私ホテルとってないけど、ほんとに佐伯くんの部屋、泊まっていいの?」

「いいよ。むしろ、泊まってって」


 というか別々に寝るなんてありえねーだろ、と思ったが、口には出さずにおいた。あまりガツガツしているところを見せてしまうと、経験の少ない彼女は怖気づいてしまう。だからといって、この絶好のチャンスを逃すつもりは毛頭ないが。スーツケースを引きながら、彼女と並んで歩き出す。


「佐伯くんの部屋行くの、同窓会の日以来だね」

「……あの日のことは忘れてくれ」

「どうして? かわいかったよ」


 そう言ってくすくすと笑みを零す千花の方が、俺よりもうんとかわいい。そう思ったので正直に口に出すと、彼女は真っ赤になって「佐伯くんはやっぱり趣味がおかしい」と唇を尖らせた。そうかな、俺は結構いい趣味してると思うんだけど。

 それにしても、彼女もこの一年でずいぶんと表情豊かになったものだ。笑ったり、怒ったり、拗ねたり、たまに泣かせてしまったり――今までは知らなかった彼女の顔を見つけるたび、どんどん好きになってしまう。未だ俺に取り憑いたままの初恋の亡霊は、日々最新型にアップデートされているのだ。このまま、一生取り憑いていてほしいと思う。


「……そんなことより、千花」

「なに」

「俺のこと、いつまで『佐伯くん』呼ばわりする気?」


 俺の指摘に、千花はかっと頰を染めた。小さな声で「そのうちに」と呟いて、ふいと視線を逸らす。

 彼女に「佐伯くん」と呼ばれるのは嫌いではないけれど、いずれ同じ苗字になるのだから――彼女が佐伯になるにせよ、俺が片桐になるにせよ――そろそろ呼び方を改めてほしい気もする。

 俺はジャケットのポケットに突っ込んだ、四角い箱に右手で触れた。今日「これ」を用意していることは、千花にはまだ秘密である。

 なにせ、彼女がいつ日本に帰ってくるのかもわからないのだ。何の担保もなく待てるほど、俺は気の長い男ではない。互いの左手の小指に赤い糸を巻きつける代わりに、薬指に銀色の輪っかを填めてやるのだ。


「佐伯くん、なにニヤニヤしてるの」


 そんな呆れたような、温度の低い視線さえ心地良い。頰が情けなく緩んでいくのを感じながら、俺は彼女が隣にいる幸せを噛み締める。誤魔化すように、ひらひらと片手を振った。


「結構人多いから、ちゃんと手繋いどこ。千花は小さいから見失いそう」

「佐伯くんは私のことちゃんと見つけてくれるから、大丈夫だよ」


 そう言った彼女は上手に微笑んで、俺に向かって左手を差し出してくる。ようやく探して掴んで手繰り寄せた赤い糸が、もう決して途切れてしまわないように――俺は愛しい彼女の手を取ると、しっかりと握りしめた。




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