十年前、六月

 片桐さんは毎週水曜日の放課後に、旧校舎の音楽室で部活をしているのだという。黴臭い部屋の片隅で黙々と編み物をする行為を、彼女は「部活」と呼んでいたが、俺には今ひとつピンとこなかった。部活って、もっとみんなでワイワイ活動してるイメージだ。本人曰く、「一応、正式な部活動として届出はしてる」らしいが。

 俺は水曜日になると、クラスメイトには内緒で旧校舎に入り浸るようになった。校門で友人と別れた後でこっそり学校に引き返して、誰にも見つからないように旧音楽室に向かうのは、スリルがあってちょっとワクワクした。

 別に何をするでもない。窓際の席に座って編み物をしている片桐さんのそばに座って、他愛もない話をするだけだ。一人で昼寝をしたり漫画を読んだり、勉強をすることもある。相手の顔色を窺わなくてもいい。沈黙が落ちてもまったく苦にならない。片桐さんと一緒にいるのは、なんだかすごく楽だった。

 片桐さんは今日も、長い二本の編み針をせっせと動かしている。連なっていく毛糸は鮮やかは赤色で、彼女にしては結構派手だ。そういえば、何を作っているのか聞いたことがなかった。


「片桐さん、何作ってんの?」


 俺が尋ねると、片桐さんは「マフラー」と簡潔に答える。彼女の言葉にはほとんど無駄がない。すこぶる省エネだ。


「この季節に、暑苦しくない?」


 春は終わり、季節は初夏だ。六月になると、クーラーのついていない旧音楽室はやや蒸し暑さを感じる。片桐さんのセーラー服も夏用になっており、半袖からは棒のように細っこい二の腕が伸びていた。真っ白だけど、ホネホネしくてあんまり柔らかそうじゃない。


「今から編んでたら、冬までには間に合うんじゃないかと思って」


 それはそれは、ずいぶんと気の長い話だ。しかしたしかに、完成にはそれぐらいかかりそうな気がする。彼女は休み時間も暇さえあれば編み物をしているというのに、四月から取り掛かっているマフラーは、せいぜい手首くらいしか巻けなさそうな長さだ。よく見たら編み目もガタガタになっている。


「もしかして、片桐さんってすげー不器用?」


 俺の指摘に、片桐さんは編み物の手をぴたりと止めた。表情は少しも変わらなかったがどうやら図星らしく、悔しそうに下唇を噛む。俺がにやにやしていると、軽くこちらを睨みつけてきた。


「……手芸。一年の頃からずっとやってるのに、全然上達しないんだよね。なんでかな」


 それは、手芸が壊滅的に向いていないのではないだろうか。教室で手持ち無沙汰になるのが嫌なら、他にも読書とか、いろいろ手段はあるだろうに。

 そう思ったけれど、何も言わずにおいた。俺は彼女が編み物をしている横顔が、結構好きだったから。

 俺はなにげなく、机の上にある赤い毛糸玉を手に取ってぽんぽんと弄んでみる。彼女とここで出逢った日に、廊下で拾ったものだ。鮮やかな赤色は彼女のイメージにあまりそぐわない気がして、俺は尋ねる。


「赤、好きなの?」


 片桐さんはどちらかと言うと青とか緑の寒色系、もっと言うなら黒とか灰色のモノトーンを好みそうなタイプだ。俺の予想通り、彼女は首を横に振った。


「ううん。そんなに好きじゃない」

「じゃあ、なんで赤にしたの」

「なんでだろう……」


 片桐さんはそう言って、俺が手にしている赤い毛糸玉をじっと見つめた。彼女の瞳は、吸い込まれそうに深い黒だ。くり抜いて家に持って帰りたい、だなんて物騒なことを考えてしまった。


「たぶん、佐伯くんが拾ってくれたからかな」

「え?」

「佐伯くんが赤い毛糸渡してくれたとき、絶対にこれで何か作ろう、って思ったの」


 片桐さんは俺の持っている毛糸玉に手を伸ばした。指と指が軽く触れ合ったその瞬間に、俺の手からぽろりと毛糸玉が滑り落ちて、床に落ちた。細くて長い赤い糸が、コロコロと床に伸びていく。


「たぶん私、あのとき佐伯くんが見つけてくれて、嬉しかったんだと思う」

「……もしかして片桐さん、寂しかったの?」

「わからない」


 俺の問いに、片桐さんはぴしゃりと素っ気なく答えた。怒っているようにも見えるが、これが彼女のデフォルトであることに俺は知っている。彼女はただ、人付き合いが苦手で不器用な、ちょっぴり寂しがり屋の女の子なのだ。


「……俺、片桐さんのこと見つけるの結構得意だよ」


 彼女が教室のどこにいても、編み物をしている丸い背中を視線で追うようになってしまった。小さくて地味で目立たない彼女の姿を、俺はいとも容易く見つけてしまう。


「無駄な特技だね」

「そうかな? 俺は結構、役に立ってると思うけど」


 俺が言うと、片桐さんは呆れたように歪に口角を上げる。


「じゃあ、これからもちゃんと見つけて」


 相変わらず下手くそな笑顔だったけれど、俺に対してはかなりの攻撃力を発揮した。殺し文句まで加えてくるなんて卑怯だ。彼女はやっぱり一筋縄ではいかない。

 俺は熱くなった頰を誤魔化すように立ち上がると、ピアノの下まで転がっていった赤い毛糸玉を追いかけて拾い上げた。

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