現在、六月
俺が片桐千花に最悪の醜態を晒してから、はや一ヶ月が経とうとしている。あの日のことを思い出すと、頭を掻き毟ってその場に転げ回りたいような気持ちになる。もちろん俺は理性がある大人の男なので、そんなことをするはずもないのだが。
彼女に連絡をとってみようかとも思ったのだが、アドレス帳に残っている番号に電話をする勇気はなかった。もし電話番号が変わっていたら、たぶん俺は立ち直れない。
同窓会の幹事である隆二にも、詫びを入れるために連絡をした。「おまえあんとき、ベロベロに酔ってたなあ」と苦笑されて、俺は深く深く穴を掘ってその場に飛び込みたくなった。
どうやらあの日の俺は、片桐さんの手をしっかりと握りしめたまま離そうとはせず、困り果てた片桐さんが、「私が送っていく」と言ってくれたらしい。死にたい。死にたいついでに言うが、繋いだ手の感触を覚えていないのが残念だ。
片桐千花の連絡先を知っているか尋ねてみたが、「俺も、人づてに参加するって連絡受けただけだからわからん」と言われてしまった。それ以上深入りする勇気もなくて、俺は「それならいいよ」とあっさり引き下がった。
そうこうしているあいだに、一ヶ月だ。俺はパワーアップして取り憑いた初恋の亡霊を成仏させることができず、慢性的な寝不足である。
毎週水曜日は、我が社の「ノー残業デー」である。少し前までは名目だけのものだったらしいが、ここ数年はかなりしつこく定時退社を促されるようになっている。「俺らの時代は、日付が変わるまで会社に残ることもあったんだぞ」と苦々しい顔をしている上司もいたが、俺は正直帰れるものなら帰りたい。働き方改革、万歳。
十八時を少し回ったところでオフィスビルを出た。六月の夕方はまだ昼間のように明るく、これから何でもできるような気持ちになってくる。いつもならばスーパーで酒と惣菜を買って帰るところだが、少し寄り道しよう、と考えた。
俺はいつも利用している駅とは反対側に歩き始めた。会社の近くといえど、まだ知らない店はたくさんあるものだ。美味そうなラーメン屋を見つけたが、もう少しゆっくりできる店に入りたい気もする。
道の脇に寄って立ち止まり、スマートフォンで周囲の店を検索していると、ふいに小柄な黒髪の女性とすれ違って、俺はびくりと肩を揺らす。怪訝な表情でこちらを向いた女性は、彼女とは似ても似つかない別人だった。不審者だと思われないよう、慌てて目を逸らした。
……一ヶ月前からずっと、この調子だ。片桐千花に似た背格好の女性を見るたびに、必要以上に反応してしまう。
よく考えると、俺は彼女がどこに住んでいるのかも知らないのだ。俺のマンションからタクシーで帰ると言っていたから、それほど遠くはないのだろうが。この広い街で、彼女に偶然出逢う確率は塵ほどしかないだろう。馬鹿馬鹿しい、と溜息をついた。
彼女のことは諦めて、新しい出逢いのひとつでも求めた方が建設的だということはわかっている。それでも俺はきっと、新しい恋人にやっぱり片桐千花の面影を探してしまうだろう。しかも、今度は自覚したうえで。それはさすがに不誠実だ。
グルメサイトと睨めっこをしているうちに、近隣に良さそうな飲み屋を見つけたので、とりあえず行ってみるかと歩き始める。
しばらく歩いたところで、ガラス張りになっているカフェを見つけた。白を基調としたシンプルな内装で、なかなか洒落た店である。そういえば、同じ部署の先輩が「会社の近くに美味しいランチが食べられるカフェがある」と言っていた。
晩飯も食えんのかな、と中を覗き込んだところで――窓際に座っている女性の姿が目に飛び込んできて、息が止まりそうになった。
黒髪のロングヘアは、低い位置でひとつにまとめられている。今日は日本酒ではなくホットコーヒーを飲んでいるらしい。手元に持っているのは文庫本のようだが、カバーがかかっているせいで何の本かはわからなかった。
――俺、片桐さんのこと見つけるの結構得意だよ。
――じゃあ、これからもちゃんと見つけて。
十年前の彼女は何の役にも立たない特技だと笑っていたが、俺は自分の能力に心底感謝した。やっぱり俺は、片桐千花を見つけるのが得意らしい。木製の扉に手をかけて、勢いよく店の中に飛び込んでいた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
若い女性店員に声を掛けられて、俺は「えっ、いや」と挙動不審に口ごもる。小さく咳払いをしてから、「連れがいるので」と答えた。
そうして店員をやり過ごすと、窓際の席に向かってずんずんと歩いて行く。一人掛けのソファ席に座った彼女は、俺に背中を向けていた。短く息を吸い込んでから、口を開く。
「か、片桐さん」
緊張のあまり、かなり「キャタギリさん」に近い発音になってしまった。馬のしっぽのような黒髪を揺らして振り向いた彼女は、俺の姿を認めて目を丸くする。
「佐伯くん?」
「……こんばんは」
俺は平静を装いながら、片桐さんの向かいにあるソファに腰を下ろした。勝手に座るのはまずかったかな、と思ったけれど、彼女に嫌がる様子はなかったのでほっとした。
片桐さんは手にしていたコーヒーカップをソーサーに置くと、やや心配そうに問いかけてくる。
「佐伯くん、このあいだは大丈夫だった?」
一瞬何の話かと思ったが、先日の同窓会のことを言っているのだろう。あのときのことは本当に申し訳ないと思っているが、あまり触れて欲しい話題ではない。できることなら忘れたい記憶だし、彼女にも忘れて欲しい。
「……おかげさまで。迷惑かけてごめん。あ、タクシー代払うよ。あのとき、タクシーで帰ったんだろ」
「気にしないで。そんなに遠くなかったから」
これはもしかして今住んでいる場所を訊くチャンスだろうか、と考えたが、タイミング悪く店員が注文を取りに来てしまった。俺は内心舌打ちしたいような気持ちで、「ホットコーヒーひとつ」と告げる。
「片桐さん、なんでこんなとこにいんの」
「職場が近くなの」
「え、マジで? どこで働いてんの?」
俺の問いに、彼女はとある電子部品メーカーの名前を出した。俺の勤め先から歩いて五分ほどのところに社屋がある。俺は口をあんぐり開けてしまった。こんなに近くにいたのに、今日まで偶然出会わなかったのが不思議なくらいだ。
「……俺の会社もめちゃめちゃ近く」
「そう。偶然だね」
片桐さんは相変わらずクールで、まったく驚いた様子もない。表情筋が死んでいる。
俺は気持ちを落ち着けるように、運ばれてきたホットコーヒーに口をつけた。思いのほか熱くて、「あづっ」と吹き出しそうになってしまう。ああ、どうして彼女の前では格好がつかないのだろう。
「佐伯くんは、どうしてここに?」
「たまたま通りかかったら、片桐さんのこと見つけたから」
正直にそう答えると、片桐さんはコーヒーカップを持ち上げたまま、ぴたりと動きを止めた。大きな瞳でまじまじと見つめれると、なんだかソワソワして落ち着かない。
「……え、何?」
「……佐伯くんは、いつも私のこと見つけてくれるなあと思って」
ありがとう、と彼女は小さな声で付け加えた。買いかぶりだよ、と俺は思う。俺は十年ものあいだ、片桐千花を見つけることができなかった。今日こうして会えたのはただの僥倖だ。ようやく訪れたチャンスを、逃してたまるものか。
「……片桐さん、連絡先教えて」
唐突な俺の申し出に、片桐さんはやや面食らったように瞬きをした。
「私の電話番号、中学の頃から変わってないよ」
「わかった。一応確認させて」
スマホを取り出すと、アドレス帳から片桐千花の電話番号を呼び出す。発信ボタンを押すと、テーブルの上に置いてある彼女のスマホのディスプレイに、「佐伯くん」と表示された。どうやら彼女も、俺の連絡先を消さずにいてくれたらしい。
「今度はちゃんと、連絡するから」
俺の言葉に、片桐さんは唇の両端をゆっくりと持ち上げる。十年ぶりに彼女の見る笑顔はあの頃よりもうんと自然で美しくて、俺は時の流れに打ちのめされてしまった。
――彼女が大人になるまでの十年間を、隣で見られなかったことが心底悔しい。もう絶対に、見逃したくない。
俺はすっかりぬるくなったコーヒーを喉に流し込みながら、どうやって次の約束を取りつけようかと必死で頭を回転させている。
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