現在、五月③

 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかわからなかった。ぐるぐると回っている天井には見覚えがある。しばらく考えた後、俺の部屋だ、となんとか理解した。どうやら自室のベッドの上に寝転がっているらしい。なんだか頭がくらくらする。

 ……そうだ俺、同窓会行ってて……どうやって帰ってきたんだっけ。

 とにかく現状を確認しようと、ゆっくりと首を動かす。と、ビー玉のようなふたつの瞳が暗がりの中に浮かんでいるのが見えて、俺はぎょっとした。何故か俺の部屋にいる元クラスメイトは、カーペットの上でお行儀良く正座をしている。


「か、かたぎり、さん」


 カラカラになった喉から声を絞り出すと、片桐さんは平然と「あ、起きた?」と首を傾げる。


「水、飲む?」


 差し出されたミネラルウォーターのペットボトルを、俺はなんとか受け取った。上体を起こしてペットボトルを傾けると、飲み切れなかった水が唇の端から零れ落ちる。どうにも手元が覚束ない。想像以上に酔っているらしい。

 冷たい水を喉に流し込みながら、未だにぐらぐらと揺れる頭の中をなんとか整理する。

 十年ぶりに再会した片桐千花は、とんでもないザルだった。飲み放題なのをいいことに、単価の高そうな酒ばかりあれこれ注文して、顔色ひとつ変えずに飲み干していったのだ。それに付き合っていた俺は、どうやら見事に酔い潰れたらしい。彼女と交わした会話の内容さえ、ろくに覚えていない。


「……なんで?」


 初恋の女の子が俺の部屋にいる、という事実に頭が追いつかない。よく考えると、ここ最近は仕事が忙しくてまともに掃除もできていない。ビールの空き缶や弁当のガラがテーブルの上に置きっぱなしになっている。見られてまずいものは目につく場所にはないはずだが、どうか妙なものを見られていませんように。


「佐伯くん、酔い潰れてまともに歩けなくなったから。無理やりタクシーに乗せてきた。ベロベロだったけど、ちゃんと自分で運転手さんに住所も伝えてたよ」


 やっぱり帰巣本能があるのかな、と片桐さんが言った。その声には微かに笑みが含まれている気がしたけれど、電気がついていないせいでよく見えない。部屋が明るければよかったのに、と俺は思った。


「……なんで、片桐さんがここに」


 ずっと気になっていた疑問を口にすると、片桐さんはやや気まずそうに目を伏せた。くるくると指先で長い髪を弄っている。さらさらとした黒髪が白い指に絡まるのを見て、俺も触ってみたいな、とぼんやり考えた。


「……佐伯くんが。私の手、離してくれなかったから」


 俺はその場から逃げ出したくなった。ここは俺の部屋なのだから、逃げ場なんてどこにもないのだけれど。

 酔っぱらった挙句、初恋の女の子の手を引いて部屋に連れ帰ってしまうなんてクズにもほどがある。最低の男だ。誤解なきように言っておくが、普段の俺は酒の勢いで女性をお持ち帰りするようなタイプではない。

 土下座せんばかりの勢いで「ごめん……」と呻くと、片桐さんはふるふると首を横に振った。


「無視して、帰ってくれたらよかったのに」

「そういうわけにもいかないでしょ。寝覚めが悪いよ」

「男の部屋にホイホイついてくるなよ……」

「大丈夫。私、何もしてないから」


 だから安心して、と片桐さんが続ける。

 ……それはふつう、こっちのセリフじゃないのか。俺はますます死にたくなる。

 そのとき胃の底からムカムカとしたものがせり上がってきて、俺は「うっ」と呻いて両手で口を押さえた。慌てて立ち上がると、便器に向かって盛大に嘔吐した。アルコールの匂いがあたりに立ちこめて、余計に気分が悪くなる。


「佐伯くん」


 片桐さんがいつのまにか俺の背後に来ていた。小さな手が背中に触れる感触がして、俺の心臓はびくりと跳ね上がる。胃の中も頭の中も全部、ぐちゃぐちゃだ。どれもこれも全部、片桐さんのせいだ。


「大丈夫?」


 アルコールを吐き戻している俺の背中を、彼女が優しく撫でた。あまりの情けなさに、勘弁してくれと言いたかったが、悔しいことに心地良い。こんなシチュエーションでなければ、もっと素直に喜べただろうに。

 散々吐いてしまうと、多少気分がすっきりしてきた。俺が吐瀉物を流して洗面所で口をゆすぐのを、片桐さんは無表情のまま見ていた。俺が再び「ごめん」と謝ると、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくる。受け取ったときに僅かに触れた指の温度はひんやりしていた。


「いっぱい水分摂った方がいいよ。脱水症になるから」


 そう言った片桐さんの顔を、真正面からまじまじと見つめる。雰囲気がちょっとだけ元カノに似ているな、と考えたところではっとした。片桐さんが元カノに似ているのではない。元カノが片桐さんに似ているのだ。

 ……俺はずっと、自分でも意識していないところで、片桐千花に似ている女の子を探していた。


「……あー」


 俺がずるずるとその場にしゃがみこむと、片桐さんも身体を屈めて視線を合わせてくる。俺は十年前からずっと、この子のことしか見ていなかったのだ。


「平気そう?」

「……うん。大丈夫……」

「じゃあ、私タクシーで帰る。おやすみなさい」


 片桐はそう言って、拍子抜けするくらいにあっさりと、俺の部屋から出て行った。送っていくよとも言えないままに、無情な音を立てて扉が閉まる。しんと静まり返った一人きりの部屋の中で、俺は酒臭い溜息をついた。


「……せめて、ありがとうぐらい、言わせろよ……」


 ひとりごちた声が、虚しく響く。

 十年前の初恋に別れを告げるつもりが、想像以上の拗らせっぷりを思い知らされただけだった。背中に残る優しい手の感触を反芻するだけで、どうしようもなく胸が苦しくなる。部屋を出て行った彼女のことを追いかけて、腕を掴んで強引に連れ戻したいくらいだ。

 一人で編み物をしていた、ショートヘアの初恋の亡霊。それは日本酒をごくごくと飲み干すロングヘアの女にアップデートされただけで、ちっとも消えてなくなってはくれなかった。

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