現在、五月②
乾杯の音頭と共に、あちこちでカチンカチンとジョッキやグラスがぶつかる音が響く。生ビールの泡は、隆二の長い挨拶のあいだに萎んでしまった。
ややぬるくなったビールをごくごくと喉に流し込みながら、テーブルの上の料理に手を伸ばす。と、紺色のワンピースを着た女子が、俺の隣にすとんと腰を下ろした。
「こんばんは佐伯くん。お久しぶり」
そう言ってニッコリ笑ったのは、元女子バレー部の酒井美由紀だった。
明るくて愛想が良くて、うちのクラスでは一番人気のあった女子だ。焦げ茶色の長い髪はふわふわしていて、なにやら甘い匂いが漂ってくる。まるで女優のように整った顔立ちは化粧の力もあるのだろうが、彼女はほぼすっぴんだった中学時代から美人だった。順当な成長を遂げたと言えるだろう。
「あー、久しぶり」
「成人式以来かな? あのときは全然喋れなかったから嬉しいな」
酒井さんは足を崩すふりをしながら、次第に距離を詰めてくる。
彼女はあれやこれやと雑談を交えながら俺に質問を繰り返し、ちゃっかりと俺の個人情報を取得していた。婉曲に恋人の有無も確認された。油断も隙もない女だ。
「えっ、
俺の勤め先を聞いたとき、酒井さんの瞳の奥にほんの一瞬打算的な光が見えた。
互いに子どもではないのだから多少の打算が混じるのは仕方ないが、値踏みするような視線を向けられるのはあまり気分の良いものではない。俺は苦笑混じりにビールジョッキを傾ける。
それからもべたべたと腕や肩を触られて、俺はだんだんうんざりしてきた。
「佐伯くんと美由紀ちゃん、サラダ食べる?」
俺たちの前に、アボガドとトマトのサラダの大皿が回ってきた。酒井さんは僅かに鼻をひくつかせると、サラダの上に乗った緑色の葉っぱを見て顔を顰めた。
「やだ、これパクチー乗ってる。わたし、パクチー苦手なんだ。なんかカメムシの匂いしない?」
「え、そう? 俺わりと好きだけど」
俺はエスニック料理が好きだし、トムヤムクンとかスパイスカレーなんかもめちゃくちゃ好きだ。酒井さんはサラダの皿を遠ざけながら、やや含みのある口調で言った。
「そうなんだ……佐伯くんって、かっこいいのに昔からちょっと好み変わってるよね」
その瞬間に、俺の頭に十年前の記憶がフラッシュバックした。
――佐伯くんって、変わった趣味だね。
変わっていると言われたのに、あのときよりも全然嬉しくない。ただ単に俺が成長したせいなのか、それとも。とにかく今はどうしようもなく、あのぎこちなくて下手くそな笑顔がもう一度見たかった。
「……じゃ、俺このサラダ引き受けるわ。持って行ってもいい?」
「え」
きょとんとした酒井さんをよそに、俺はサラダとビールジョッキを持って立ち上がる。
そのまま座敷の奥まで歩いて行って、不自然にスペースの空いた片桐千花の隣に腰を下ろした。日本酒の入った徳利と小さなお猪口を手にした彼女は、こちらを向いて固まる。
「……片桐さん、パクチー好き?」
唐突な俺の問いに、片桐さんは何度か瞬きをした。言葉を選ぶように口ごもった後で、「まあまあ」と短く答える。
「これ、一緒に食べよう」
テーブルの上にサラダを置く。
片桐さんは戸惑ったように一瞬目を伏せて、おそるおそる、といった様子で尋ねてきた。
「……罰ゲーム?」
俺が片桐さんと話したかっただけだよ、とは言えなかった。うまく言葉が出てこずに、俺はへらへら笑ってみせる。おそらく今の俺は、真剣味の足りない表情をしているのだろう。
周りに座っている奴らがやや面白がるように俺たちのことを見ていることはわかっていたが、俺はそれを無視した。
「片桐さん、何飲んでんの」
「日本酒」
「……へー、意外」
日本酒を飲んでいる片桐さん、という現実を脳が処理し切れずにエラーを起こしそうだ。俺は動揺を押し隠すように、ビールジョッキを呷って空にした。彼女も俺も大人になったのだ、と嫌でも思い知らされる。
「せっかくだから、一番単価が高そうなものを選んだの。飲み放題だし」
そう言って片桐さんは、タブレットに表示されたメニューと睨めっこをしている。ぽんぽんと指で画面をタップしてページを送りながら、「もう一回日本酒頼んで、その次は赤ワインにする」と呟いた。
「……俺も、それ飲みたい」
俺は普段ビールかハイボールくらいしか飲まないが、たまにはいいだろう。なんだかやけに気持ちがふわふわと浮ついていて、多少強めの酒で酔ってしまいたい気分だった。片桐さんと並んで酒を飲んでいるという非日常に、既に酔っ払っているのかもしれない。
片桐さんは「じゃあお猪口もうひとつ頼むね」と言って、注文を送信した。
「片桐さん酒強いの?」
「比較対象がいないからわからない」
そう即答した彼女には、一緒に酒を飲むような友人や恋人はいないのだろうか。彼氏がいるのかと尋ねようかと思ったが、どうしても下心が滲み出てしまいそうだ。いや、下心ってなんだよ。別に俺、片桐千花とどうこうなるつもりはないっての。
現在の片桐千花を間近で見ると、中学時代とまったく同じ、というわけでもないことに気付く。顔や身体のパーツひとつひとつは大人の女性のものになっているし、うっすら化粧もしているようだ。飛び抜けて幼い印象があるわけでもない。それでも全体に纏う雰囲気は、あの頃と少しも変わっていない。
それから俺たちは小さなお猪口でささやかに乾杯をして、日本酒を飲みながらぽつりぽつりと昔話をして、赤ワインの後には芋焼酎のロックを頼んで……そこから後のことは、あまり覚えていない。いや、思い出すことを脳が拒否しているかもしれない。
気付いたら俺は、真っ暗な部屋の中で仰向けになってぶっ倒れていた。
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