現在、一月
年末年始の休みを、俺は実家でダラダラと無益に過ごしていた。久々に帰省した息子を、母は最初こそ歓迎していたものの、何日経ってもコタツから動こうとしない俺にほとほと嫌気がさしたらしい。「ボーッとしてるなら買い物でも行ってきて!」と家から叩き出されてしまった。
クリスマスイブから一週間と少しが経ち、年が明けても俺は相変わらず抜け殻のようだった。無駄なことだとわかっていても、ぐるぐると片桐さんのことばかり考えてしまう。
失恋、というほど大袈裟なものではない。ただ数回デートをして手を繋いだだけ。キスのひとつさえしなかった。そんな男女の関係に、どんな名前をつければいいのだろうか。
――それでも、大きな瞳に涙を溜めた初恋の亡霊は、今も俺に取り憑いたまま消えてくれない。
俺は右手に持ったエコバッグを左手に持ち替えて、小さく溜息をついた。ここぞとばかりに重いものばかり買わされたせいで、腕が痛い。
久しぶりに帰った地元は、知らぬ間に景色が変わっていた。見覚えのないコンビニができていたり、昔通っていたラーメン屋がなくなっていたりする。学校帰りによく遊んだゲーセンは、パチンコ屋になっている。母校である中学の前も通ったが、懐かしい旧校舎は取り壊されて跡形もなくなっていた。
世界はこうして変わっていくのに、俺だけがいつまでもあの頃のまま、旧音楽室で編み物をしている女の子を想い続けている。
「佐伯くん?」
出し抜けに声をかけられて、俺はぴたりと足を止めた。見ると、見覚えのある女性がこちらを凝視している。焦げ茶色のロングヘアをひとつにまとめた――中学時代のクラスメイトである、酒井美由紀だった。同窓会で見たときよりも化粧は薄く、赤い縁の眼鏡を掛けている。おそらくオフモードなのだろうが、それでも美人だった。
「酒井さん。何やってんの?」
「ここ、わたしの家」
そう言って、酒井さんはそばにある一軒家を顎でしゃくってみせた。彼女も正月で帰省しているのだろうか。彼女はパタパタと駆け寄ってくると、気安く話しかけてきた。
「同窓会ぶりだねー。ほんと、あのとき佐伯くんベロベロに酔ってたから、面白かった」
俺にしてみれば、あまり蒸し返されたくない話である。俺はぶすっとして「あ、そう」と答える。荷物も重いし寒いし、こんなところで長話をするつもりはない。早急に立ち去りたかったのだが、酒井さんはケタケタと楽しそうな笑い声をたてている。
「わたし、中学の頃ちょっと佐伯くんのこと好きだったのになー。あんなの見たら、百年の恋も覚めちゃうよ」
さらりとそんなことを言われたが、俺の心はぴくりとも動かなかった。酒井さんの気持ちについては、俺も薄々そうなんじゃないかと思っていた。今更そんなことはもうどうでもいい。それよりも「あんなの」呼ばわりまでされるとは、あの日の俺はどんな醜態を晒していたのだろうか。
「あ。淡い初恋の告白ついでにさ、もいっこだけ懺悔してもいい?」
酒井さんはそう言って、小さく首を傾げた。相変わらずあざとい仕草だが、以前会ったときよりもざっくばらんな印象だ。俺に幻滅して猫をかぶるのをやめたのだろう。彼女のことはまったく好みではないが、妙に媚びられるよりもこちらの方が話しやすくていい。
彼女は「ちょっと待って」と言って、家の中へと入っていった。数分ののち、小さな包みを持って出てくる。俺に向かってそれを差し出した。
「……なに、これ」
しぶしぶ受け取ったそれは、綺麗にラッピングされたプレゼントのようだった。片手で持てるくらいの大きさで、中身は何やらふわふわしていて、とても軽い。俺が怪訝に思っていると、酒井さんはぱちんと両手を胸の前で合わせた。
「ほんとにごめん! わたし中三のバレンタインに、佐伯くんの机の中からそれ持っていっちゃったんだ」
「……え?」
「そのプレゼント、片桐さんが佐伯くんの机の中に入れてたの。わたし、たまたま見ちゃって……なんか悔しくて……なんでこの子ばっかり、佐伯くんに構われてるんだろうって。それで、思わず持って行っちゃって……」
それってつまり、要するに――十年前のバレンタインに、片桐さんは俺にこれを渡そうとしていた?
衝撃的な事実に、頭をぶん殴られたかのように脳がぐらぐらと揺れている。エコバッグを持つ手がじんと痺れてきた。
「年末に大掃除してたら、それ出てきたんだよね。捨てるのも怨念こもってそうで嫌だし、どうしようって困ってたんだ。佐伯くんに渡せてよかった」
じっと黙りこくっている俺の顔を覗き込んで、酒井さんは申し訳なさそうに眉を下げた愛想笑いを浮かべる。
「……十年も前の話だし、時効だよね?」
――時効だなんて、そんなわけねーだろ。俺の片桐さんへの想いは、淡い初恋の思い出と片付けられるようなものではないのだから。
よっぽど怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、今の俺には怒る元気すらなかった。上目遣いでこちらを見つめる女に蔑むような視線を向けてから、「じゃあな」と吐き捨てる。小さな包みを大事に抱えて、足早に歩き出した。酒井さんは俺を呼び止めたりはしなかった。俺のことなんて、もうどうでもいいのだろう。
俺は帰宅するとエコバッグを母親に押しつけ、早々に自室へと戻った。茶色の包み紙に真っ赤なリボンがかかっている。酒井さんは中身を開けることはしなかったらしく、テープはぴったりと貼りついたままだった。……彼女のしたことは許されることではないが、勝手に捨てられなかっただけ感謝すべきなのだろうか。
十年経ってやや劣化したらしいテープは、いとも簡単に剥がれた。ガサガサと包装紙を開いて見ると、中から出てきたのは――見覚えのある、赤い毛糸のマフラーだった。
――佐伯くんが赤い毛糸渡してくれたとき、絶対にこれで何か作ろう、って思ったの。
心臓がどくどくと、うるさいくらいに高鳴っている。あの頃片桐さんが編んでいたマフラーだ。絶対に見間違えようがない。だって俺は、彼女の一番近くでそれを見ていたのだから。
彼女が編み続けていたマフラーの完成品を見るのは、今日が初めてだった。まじまじと見つめると、ところどころ網目が飛んでいる。
「……片桐さん、ほんっと不器用……」
思わずひとりごちた声は掠れていた。マフラーの上にぽたりと落ちた滴が自分の涙だと気付くのに、数秒かかった。
十年前の彼女はずっと、俺のためにマフラーを編んでくれていたのだ。春から冬まで、何度もやり直しながら、一生懸命丁寧に編み針を動かしていた。胸の奥から熱の塊がこみ上げてきて、喉が詰まる。
マフラーと一緒に、シンプルな白い封筒が入っていた。かわいいレターセット、ではないところが片桐さんらしい。俺は震える手で封筒から便箋を取り出す。封筒と同じく真っ白い便箋には、短い数行の文章が書かれていた。
「佐伯くんへ
赤い毛糸を拾ってくれたあの日、私のことを見つけてくれてありがとう。
下手くそなマフラーだけど、よかったらもらってください。
佐伯くんがいてくれたおかげで、私はこの一年が中学三年間の中で一番楽しかった。
卒業して離れ離れになっても、また私のことを見つけてくれたら嬉しいです。
片桐千花より」
再び瞳から溢れた雫で、彼女の名前が滲んだ。
……絶対、見つけるよ。君がこの世界のどこに行ったとしても、俺はどこまででも追いかけて探し出して、今度はもう手を離したりしない。
そのとき俺の頭に浮かんだのは、旧校舎の廊下に伸びた一本の赤い糸だった。俺の運命の糸の先は、今も彼女に繋がっているのだろうか。今度こそちゃんと掴めるようにと、俺は赤いマフラーをぎゅっと胸に抱きしめた。
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