現在、十二月

 街にはひと昔前に流行ったクリスマスソングが流れ、葉の落ちたイチョウの木にはイルミネーションがピカピカと輝いている。吐く息も凍る寒さだというのに、隣を歩く片桐さんは顔色ひとつ変えない。それでも繋いだ手は氷のように冷たかったので、俺は彼女の手をぎゅっと強く握りしめた。


「なんか、雪降りそうだな」

「電車が止まったら嫌だな。明日も仕事だし」

「まあ、たしかに」


 眉を寄せて心底嫌そうに呟く彼女に、俺は苦笑混じりに頷く。悲しき社会の奴隷である俺たちは、素直にホワイトクリスマスを喜べない年齢になってしまった。

 あれから何度かデートを重ね、俺は勇気を出してクリスマスイブに片桐さんを誘ってみた。平日ど真ん中だったので断られても仕方ないと思っていたのだが、彼女はふたつ返事で了承してくれた。

 俺が選んだイタリアンの店を、片桐さんははいたく気に入ってくれたようだ。赤ワインのボトルを一本空けた彼女はいつもよりほんの少しだけ饒舌で、「佐伯くんの教えてくれる店はハズレがない」と嬉しそうに言ってくれた。こればかりは、グルメな先輩に感謝だ。


「片桐さん、今日の服かわいいね」


 彼女が身に纏っているニットとロングスカートは、俺が初めて見るものだった。俺の言葉に、片桐さんは気まずそうに視線を逸らして、怒ったように「ありがとう」と言った。もしかして、今日のために新しい服を着て来てくれたのだろうか。クリスマスの浮かれたムードにつられて、俺の心もなんだかふわふわしてしまう。

 彼女とのひどく健全な関係は変わらず、恋人とも友達とも言えない曖昧な距離のまま平行線をたどっていた。終電までには帰路について、彼女をマンションまで送り届けるのが恒例になっている。未だ彼女の部屋の中に足を踏み入れたことはない。入っていいとは言われなかったし、入っていいかとも訊けなかった。

 果たして彼女は俺のことをどう思っているのだろうか。嫌われてはいないはずだが、なにせ彼女の鉄面皮からは本心が読み取りづらいのだ。だからこそたまに見せる笑った顔や照れた顔が魅力的なのだが――もう少し感情を小出しにしてくれてもいいんじゃないか、とは思う。

 いつものように、駅から彼女のマンションまでの道を二人肩を並べて歩く。頰を刺す北風も、アルコールで火照った頬には心地よく感じられた。

 握りしめる小さな手の感触と温度には、もう随分慣れた。その次の段階には、どうやって進めばいいんだろうか。こと彼女のことに関しては、俺はどうしても二の足を踏んでしまうのだ。

 そうこうしているうちに、彼女のマンションの前に来てしまった。俺は名残惜しい気持ちで手を離す。コーヒーでも飲んでいけば、なんて言ってくれねーかなあ。そんな期待をこめて見つめてみても、彼女はいつもクールに「それじゃあまた」とあっさり背を向けてしまうのだ。そしてその場には、欲情を持て余した俺だけが残される。それがお決まりのパターンだった。


「……寄っていく?」

「はっ?」


 ただ、今日ばかりは違った。想定外のセリフに、俺は間抜けな声を出して固まってしまう。ちょっと待て片桐さん、今なんつった?


「え? なに? なんて?」

「……部屋、あんまり片付いてないけど」


 片桐さんは下を向いてスカートを弄りながら、ボソボソと呟くように言う。やっぱり聞き間違いじゃなかったらしい。俺が呆然と立ち尽くしているうちに、片桐さんは鍵を取り出してオートロックを解除する。スタスタと歩き出す彼女の小さな背中を、俺は慌てて追いかけた。


 初めて入ったワンルームの部屋は、本人が言うほど片付いていないわけではなかった。というよりは、物が極端に少ない。必要最低限の家具しかないし、無駄なものがほとんど置かれておらず、まるで引っ越し直前のようだ。見ると、部屋の隅に梱包された段ボールがいくつか置いてある。


「コーヒーでいい?」

「あ、おかまいなく」

「私が飲みたいから」


 狭いキッチンに立った彼女は、二人分のインスタントコーヒーを入れてくれた。マグカップはひとつしかなかったらしく、自分の分は湯呑みにコーヒーを入れている。ローテーブルの上にトレイを置くと、俺の隣に腰を下ろした。

 ……部屋に誘われたということは、つまり「そういうこと」だと思っていいのだろうか。妙に意識してしまって、俺はぎくしゃくとマグカップを持ち上げる。想定していたよりもコーヒーが熱くて、思わず「あづっ」と噎せてしまった。


「大丈夫?」


 ゲホゲホと咳き込んでいる俺の背中を、片桐さんが優しく撫でてくれる。ようやく落ち着いて見ると、つり目がちな大きな黒目が、驚くほど間近にあった。まるでブラックホールのようで、このまま吸い込まれそうだ。ふわりとほのかな石鹸のような匂いが漂ってくる。


「……片桐さん」


 名前を呼んで、白い頰におそるおそる手を伸ばしてみる。彼女の瞳の奥が戸惑ったように揺れたけれど、目は逸されなかった。俺の手が冷たいのか、それとも彼女の頬が熱いのか。かじかんだ指が溶かされていくのが心地良くて、俺はしばらくそのままでいた。


「……今日、なんで部屋入れてくれたの」


 俺の質問に、片桐さんはゆっくりと口を開いた。


「……離れたく、なかったから」


 私、佐伯くんと一緒にいたい。

 眼前にある黒い瞳が潤み、華奢な肩は小刻みに震えている。どうして彼女は、こんなに泣きそうな顔をしているのだろうか。胸のうちにどす黒い欲を抱えた、目の前にいる男が恐ろしいのだろうか。怖い思いをさせたくはないけれど、そろそろ我慢の限界だ。俺は両手で彼女の頬を包み込むと、ゆっくりと顔を近づけていった。


「……だめ」


 と、唇が重なり合う寸前で、小さな手が俺の口を塞いだ。


「やっぱり、だめ」


 今にも消え入りそうな小さな声で、繰り返される。見開かれた瞳には、大きな涙の粒が溜まっている。瞬きをした瞬間、それは彼女の目から溢れ落ちた。ぽたりぽたりと、ロングスカートに染みをつくっていく。


「……なんで?」


 当然俺だって、彼女が嫌がるなら無理強いをするつもりはない。心の準備ができるまでもう少し待って、と言うならばいくらでも待つ。

 しかし彼女の様子はどうにもおかしかった。吐息がぶつかるほどの距離で、彼女はぽろぽろと涙を流し続け、まるで子どものように小さくしゃくりあげている。


「……最後の、思い出にしようと思ったの。でも、やっぱり、無理だった。余計に、辛くなる」

「……最後?」


 俺が訊き返すと、片桐さんはごしごしと乱暴に涙を拭って、ゆっくりと口を開いた。


「私、もうすぐ日本からいなくなる」

 

 俺は一瞬、彼女の発した言葉の意味が理解できなかった。いや、理解することを無意識に拒んでいたのかもしれない。は、と間抜けな声で聞き返す。


「四月にはもう、辞令が出てた。来年の一月に、シンガポールにある関連会社に異動になるの。いつ日本に戻ってくるかは、わからない」


 彼女の言葉が、ぐるぐると頭の中で回っている。俺はそのときふと、彼女がカフェで読んでいた本の内容を思い出していた。俺には読めなかったが、あれはマレー語で書かれてはいなかっただろうか。

 あの頃には、いや、同窓会で再会したときにはもう既に。彼女は俺の前からいなくなることがわかっていた。

 ふつふつと、怒りにも似た感情が湧き上がってくる。こんなにも大事なことを、彼女は俺に一言も教えてくれなかった。来年公開の映画を、一緒に見に行こうと指切りをしたときも。一人で浮かれている俺のことを、どんな思いで見ていたんだろうか。

 ――十年前から、まったく変わっていなかった。結局俺は片桐千花にとって、その程度の存在だった。


「……わかった」


 シンガポールなんて近いよとか、すぐに会いにいくよとか、帰ってくるまで待つよとか、そんな心にもないことは言えなかった。腹の底は煮えたぎるように熱いのに、頭はすうっと冷え切っている。未だ泣きじゃくっている彼女をチラリと一瞥してから、俺は立ち上がった。


「俺、帰るよ」


 そう言い放って、俺は振り向きもせず彼女の部屋を後にした。彼女は引き留めなかったし、追いかけてもこなかった。彼女は昔から、いつだってそうだった。

 マンションの外に出た途端に、チラチラと白い粉雪が舞い落ちてくる。ホワイトクリスマスだ、とはしゃぐカップルを横目に、俺は舌打ちをしたいような気持ちになる。びゅうっと冷たい風が吹き抜けて、耳がひりひりと刺すように傷んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る