十年前、十二月

 吐く息が白くなり、朝布団から出るのが辛い季節になっても、片桐さんの赤いマフラーは完成しなかった。今日も片桐さんは旧音楽室で、せっせと編み針を動かしている。そして俺は毎週毎週、飽きもせずにそれを見ている。

 ろくな暖房器具のない旧音楽室は、外とほぼ変わらないくらいに寒い。申し訳程度のストーブに当たりながら、俺は身体を震わせていた。


「片桐さん、寒くねーの」

「寒いよ」


 きっぱりとそう答えた片桐さんは平然としていて、やっぱり全然寒くなさそうだ。暑さ寒さに強いのか、あるいはまったく表情に出ないだけか。おそらく後者なのではないか、と俺はこの短い付き合いの中で判断できるようになっていた。

 編み針を動かす指が、かじかんでいるのか赤くなっている。彼女の手の温度が気になったが、温めてあげようか、だなんて言えるような関係でもない。

 俺は渋々ストーブから離れると、机の上にある問題集へと向き合った。そろそろ冬休みに入ろうとしているが、年末年始のイベントに浮かれてはいられない。受験生にとっては追い込みの時期だ。


「あー。早く受験終わんねーかな……」


 はーっと吐き出した溜息も白い。片桐さんはせっせと手を動かしながら、「そうだね」とそっけなく答える。


「……このマフラーが完成したら、私も部活引退するから」


 片桐さんが、唐突にそんなことを言い出した。俺は内心動揺しつつも、「あ、そう」と頷く。ただ一人きりの部活に引退も何もあるものか、と思ったけれど、彼女なりに区切りが必要だったのかもしれない。

 俺は改めて、彼女が編んでいる赤いマフラーを見つめた。全然上達しないと嘆いていた彼女だったが、最近は編み目を飛ばすことも少なくなったように思う。かなりの長さになっているようだし、完成は間近だろう。もしかしたら今年中に完成してしまうかもしれない。そうすれば、俺は――毎週水曜日にここに来る理由が、なくなってしまう。


「まあ、受験とかあるもんな」


 正直俺はかなりショックを受けていたけれど、なんてことのないふりを装って言った。片桐さんの表情も少しも変わらなかった。まるで氷の仮面をつけているみたいだ。


「うん。本番まであと二ヶ月しかないし」

「……二ヶ月? え、もしかして片桐さん、私立受けんの? どこ?」


 高校の入試日程は、私立はおおむね二月、公立は三月の予定だ。同級生の大半は、地元の公立高校を受験する。俺だってそうだ。片桐さんもおそらく同じだろう、進学したってそんなに遠く離れることはないだろうと、高を括っていたのだが。

 片桐さんが告げたのは、ここから電車で四十分ほどのところにある、私立の女子高だった。


「めちゃくちゃ遠いじゃん」

「うん。でも、英語科がある高校だから」

「……英語、得意だったっけ」

「そこまで得意じゃないけど、好き」


 彼女の話を聞きながら、俺はシャーペンを握る指先がどんどん冷たくなっていくのを感じていた。きっと、寒さのせいだけではない。

 俺は何も知らなかった。彼女が私立の高校を受験することも、英語が好きなことも。四月からずっと、こうして毎週顔を突き合わせていたのに、彼女は俺にそんな話を一言もしてくれなかった。俺がそばで受験勉強をしているときも、俺が志望校の話をしているときも、チャンスはいくらでもあったはずなのに。


「そうなんだ。全然知らなかった」


 そう言った俺の顔は、きっといつものようにヘラヘラしている。こんなことでみっともなく傷ついているところなんて、絶対に知らせたくない。


「教えてくれたらよかったのに」

「聞かれなかったから」


 感情の乗らない声に、ぴしゃり、とまたシャッターを閉じられたような気がした。

 思い返してみれば俺たちは、放課後の旧音楽室でいろんな話をしたけれど、俺は彼女のことをほとんど知らない。俺が何かを質問すれば、ちゃんと答えてくれる。それでも彼女が積極的に、自分の話をしてくれることはなかった。

 結局、その程度の関係だったのだ。彼女にとって俺は、ただ週に一回、二人きりで顔を合わせるだけのクラスメイト。一人で居るのもつまらないから、相手をしていただけの存在。

 彼女と過ごすこの時間を大切にしていたのは、俺だけだったのだろうか。


「……そっ、か」


 年が明けて冬休みが終わる頃には、彼女の赤いマフラーはきっと完成しているだろう。もちろん教室では毎日顔を合わせるけれど、こうして二人きりでゆっくり話すことはきっとなくなる。そして彼女は、俺とは違う高校に行って、もしかしたらそこで新しい人間関係を築いて――俺の彼女の薄っぺらい関係なんて、簡単に切れてしまう。

 そのとき、机の上から赤い毛糸がコロンと転げ落ちた。コロコロと転がって、長く伸びていく赤い糸の行方は、俺にはもう見えなかった。

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