現在、十一月②
映画館を出た俺たちは、ぶらぶらとショッピングモールを冷やかした後、適当な居酒屋に入った。安くて美味いが信条の、ガヤガヤと騒がしいチェーン店だ。男女が二人で入るには色気がないが、片桐さんが「今日は焼き鳥とビールの気分」と言ったのだから仕方がない。
カウンター席に並んで座り、目の前にビールジョッキがふたつ運ばれてきた頃には、俺はかなり肩の力が抜けていた。片桐さんの表情も、いつもカフェで向き合っているときよりリラックスしている気がする。こうして真横から見つめる角度の彼女も、なかなか良いものだ。
ビールジョッキの中身をごくごくと一気に飲み干した彼女は、ぷは、と小さな息をついた。忘れかけていたが、彼女はかなりの酒豪だった。今日こそは彼女のペースに飲まれないようにしなければ。
早くも二杯目を注文した彼女は、未だちびちびと泡をすすっている俺を見て、やや申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん、私が勝手に店決めちゃって」
「え? いいよ別に。俺も焼き鳥食いたかったし。ま、あんまりデートっぽくはないけど」
「……デート?」
心底不思議そうに首を傾げた片桐さんに、俺はちょっと傷ついた。いやいや、これしきのことでへこたれていては片桐千花の相手はできまい。折れかけた心をなんとか立て直して、俺はへらへらと笑ってみせる。
「俺は今日ずっとデートのつもりだったんだけど、違った?」
片桐さんはぽかんと口を開けた後、カッと頬を赤く染めた。誤魔化すようにビールジョッキを持ち上げたけれど、中身は空である。完全にデートだと認識されていなかったのは悲しいが――彼女のとびきりかわいい反応が見れたので、とりあえず良しとしよう。
二杯目のビールと一緒に、料理が運ばれてきた。待ちわびていたかのようにビールジョッキを両手で持ち上げて、片桐さんは言う。
「ご、ごめんなさい。私今日、ちゃんとできてた?」
「は? なにが?」
「デートの作法とか、わからなくて……したことないから」
その瞬間に俺の心に湧き上がったのは、あまり純粋とは言えない感情だった。あえて誤解を招く言い方をするならば、男を知らない彼女の「はじめて」を奪ってやったという優越感。俺はそんな歪んだ愉悦を誤魔化すように、笑って枝豆に手を伸ばした。
「いや、別に作法とかなくね? ふつーに遊びに行くだけだから」
「……佐伯くんは、中学の頃からいろんな女の子とデートしてたんだろうけど」
片桐さんは軽く目を細めて睨みつけてくる。ヤキモチじみた言葉に、俺はますます浮かれてしまう。
「いやいや、俺中学の頃はデートするような相手いなかったってば」
「そうなの? 佐伯くん、すごくモテてたのに」
片桐さんの言葉を、俺は否定しなかった。まあ、それなりにモテていた自覚はある。中学生というのは、そこそこ見目がよくて、クラス内でもそこそこ地位のある、そこそこ立ち回りがうまい男というのがモテるものだ。俺はそのあたりの要領をきっちり押さえていた。
「……まあ、デートしたかった相手はいたけど」
俺がぽつりと白状すると、片桐さんはぎょっと目を剥いた。今日の彼女はずいぶん表情豊かだ。いつもの仏頂面も俺は好きだが、普段は見せないレアな表情のすべてを大事に切り取って、保存しておきたいような気持ちになる。
「……できなかったの? デート」
「うん。当時の俺、ヘタレだったからなー。あ、今もか」
「佐伯くんみたいな人でも、うまくいかないことあるんだ……」
「それ、俺のこと過大評価しすぎじゃねー? 片桐さんにそう思われてるのは嬉しいけどさあ」
俺は中身が半量ほど残ったジョッキを持ち上げると、彼女のジョッキとカチンと重ね合わせる。
「だから今日は、十年越しの悲願」
かんぱーい、とおどけて言うと、片桐さんはぱちぱちと瞬きをした。しばらく俺の言葉の意味を考えていたようだったが、やがて理解が追いついたのか――再び真っ赤になって、ぐいぐいとジョッキを空にした。店員さんを呼び止めて、「おかわりください」と注文する耳も赤い。
「佐伯くんの冗談は、心臓に悪い」
やはり俺の言葉には、今ひとつ真剣さが足りないらしい。へらへらしながら言ったのは失敗だったか。この「へらへら」が俺のデフォルトなのだが。頰に力を入れて、できる限り表情を引き締めてみる。
「冗談じゃねーっての」
「だって佐伯くん、あのとき……」
片桐さんは言いかけて、はっとしたように口を噤んだ。いつものポーカーフェイスに戻って、「なんでもない」と首を振る。続きが気になったが、妙に深追いをしてこの空気を壊すのも嫌だ。またの機会にしよう、と俺もビールを呷った。
酒が進むにつれて、俺はなんだか少し感傷的な気分になってきた。初恋の相手が隣にいる、というのも手伝ってか、ほろ酔いになった口からポロポロと感情が零れ落ちる。
「俺、卒業した後、何回も片桐さんに連絡しようと思ったんだよ」
片桐さんはもう何杯目かもわからないビールを傾けながら、情けない男の告白を黙って聞いている。黒々とした大きな瞳は、逸らされることなくまっすぐに俺を見据えている。
「でも、理由が思いつかなかった。今日こんなことがあったとか、今日何食べたとかじゃ、連絡する理由にならねーよなって」
そんなくだらないことで、とりたてて連絡するほどでもない。俺と彼女は所詮その程度の関係だと、勝手に諦めてしまっていた。ずっとずっと、旧音楽室で編み物をしている女の子のことを、忘れられずにいたくせに。
「連絡、すればよかった。理由なんて、俺が片桐さんに会いたいっていう、それだけでよかったんだよな」
馬鹿げたプライドなんてかなぐり捨てて彼女に会いに行っていれば、もう少し違う関係もあったのだろうか。それでも、もう遅い、とは思わない。今の俺の隣には、片桐千花が居てくれる。
「……私は。またこうして、佐伯くんと会えて嬉しい」
少し掠れた、耳に心地良い小さな声で。片桐さんは囁くように言った。歪に唇の端を上げた彼女に、俺の気持ちはどのくらい届いているのだろうか。もっと踏み込んでいいのかどうか、俺は未だに彼女との距離感を測りかねている。
「何度離れても巡り合う、運命の相手だっけ?」
俺が茶化して笑うと、片桐さんは「映画の話?」と首を傾げた。残念、俺と君の話だよ。
俺はただ笑って、カウンターの上に置かれた白い手に、そっと自らのそれを重ねてみる。彼女は僅かに身動ぎをしたけれど、振り払われたりはしなかった。
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