現在、十一月①

 エンドロールが流れると同時に、俺は詰めていた息を一気に吐き出した。知らずぐっしょりと汗をかいていたらしく、背中がやや気持ち悪い。隣にいる彼女にチラリと視線をやると、微動だにもせずスクリーンを見つめていた。エンドロールを待たず席を立つ人間はそれなりに存在するが、彼女はそうではないらしい。俺ももうひとつ息をついて、ゆっくりとスクリーンへと向き直った。

 会場が明るくなると同時に、彼女はすっと立ち上がった。まだ座っている俺を見下ろして、小さく首を傾げる。


「顔色悪いね。腰抜けちゃった?」


 ……余計なお世話だ、このやろう。バカにしているニュアンスがないのが、余計に腹立たしい。

 すっかり秋も深まり、冬の足音さえ聞こえてきた十一月の半ば。俺は念願叶って、片桐さんをデートに連れ出すことに成功した。

 いつものカフェで「見たい映画がある」と言い出したのは彼女の方だった。唯一無二の好機にここぞとばかり食いついた俺は、ようやく約束を取りつけたのだ。勢いに乗じて「遊びに行こう」と口走ってから、すでに一ヶ月が経っている。俺が根性なしなのか、彼女が難攻不落なのか。もしかすると両方かもしれない。

 ……しかしまあ、彼女の「見たい映画」とやらがホラー映画だとは思わなかった。

 俺は正直、ホラーが大の苦手だ。映画館に行ったときに流れる不可避の予告映像には、心底辟易している。誰が好き好んで見るんだこんなもん、と思っていたジャンルの作品を、まさかこうして金を払って見る日がくるとは。

 彼女が見たいと言っていたのは、かなりグロ寄りのホラーだった。情けない話、肝心なところはほとんど目を瞑ってやり過ごした。しかし流れてくる不気味なBGMや、グシャッとかゴリッとかいう物騒な効果音は防ぎようもない。かなりどぎつい描写も多く、精神的にも削られた。


「佐伯くん、大丈夫?」


 映画館のロビーにふらふらと座り込んだ俺の顔を、片桐さんが覗き込んでくる。今日の彼女は黒っぽいワンピースを着ていた。水曜日に会うときはパンツスタイルが多いから、スカートを履いているところを見たのは同窓会ぶりだ。


「まだ顔青いね。ちょっと休もうか」


 心配そうに彼女が言って、俺の隣に腰を下ろした。よほど酷い顔をしているのだろう。再会してからこっち、彼女にかっこわるいところばかり見せている気がする。

 上映中、ほぼ手付かずだった烏龍茶の氷は溶け切っていた。ぬるくなった烏龍茶を喉に流し込むと、ようやく人心地つく。


「ごめん。佐伯くん、ホラー苦手だったんだね」


 言ってくれたらよかったのに、と片桐さんはこともなげに言う。嫌だなんて言えるわけがない。こちとら、降って湧いたチャンスを掴むのに必死だったのだ。これを逃したら次の機会はいつになるかわからない。片桐さんとのデートのためなら、百二十分の上映時間くらい耐えてみせよう。そう意気込んできたのだが、このざまだ。

 通りかかった中学生くらいの男子が、青い顔で項垂れている俺にチラリと視線をやる。ふっと馬鹿にしたような笑みを浮かべると、連れらしい女の子の手を引いて歩き出した。なんだよいい大人がだっせーの、とでも言いたいのだろうか。くそ生意気な。俺が中学の頃なんて、隣にいる彼女の手ひとつ握れなかったというのに。


「まだ気分悪い?」


 押し黙っている俺を心配してか、片桐さんがそろそろと背中を撫でてくれた。グロ映像は苦手だが、吐くほど嫌というわけでもない。それでも優しい手の感覚が離れるのが惜しくて、俺はいつまでたっても「もう大丈夫」とは言えなかった。

 しばらく無言で背中をさすっていた片桐さんが、ようやく手を止めた。名残惜しく思いながらも、俺は「ありがとう」と礼を述べる。


「……片桐さんが、ホラー好きだったなんて知らなかった」

「特別好きなわけじゃないけど、好きな監督の作品だったから気になってた。ラブストーリーとかも普通に見るよ」

「マジ? こーゆーのとか?」


 俺はロビーの壁に貼られているポスターを指差す。来年公開予定の恋愛映画で、「何度離れても巡り合う、赤い糸に繋がれた運命の男女がナントカカントカ……」とかいうあらすじが書いてある。運命の赤い糸、ねえ。俺の脳裏に、廊下に伸びる一本の糸の記憶が蘇った。……あの糸の先には、一体誰が居たんだっけ?


「うん。私、この俳優さんわりと好き」


 素直に頷いた片桐さんに、俺は驚愕した。彼女が好きだと言ったのは、今若い女性に人気の若手俳優だ。言っちゃあなんだが、俺の中の片桐千花はどこか浮世離れしているというか、そういう俗っぽいことに興味がないイメージだった。

 俺がぽかんとしているのに気付いたのか、片桐さんはちょっと頬を染めて「……なにかおかしい?」と睨みつけてくる。照れ隠しのような表情が珍しくてかわいくて、俺はぶんぶんとかぶりを振る。


「……や、意外だけど……おかしくは、ない」


 十年前の俺は、本当の片桐千花のことを理解しているのは自分だけだと自惚れていた。とんでもない。俺だってクラスの他の連中と同じだった。自分の中の勝手な枠に彼女を当てはめて、理解したつもりになっていただけだ。

 ずっと俺の心の片隅に居座っていた初恋の亡霊の姿が、どんどん塗り替えられていく。それでも、失望したりしない。今の彼女を知れば知るほど、気持ちは膨らんでいくばかりだ。


「結構イケメンじゃん。片桐さん、もしかして面食い?」

「そういうわけじゃないけど、顔の良い人を見るのは普通に好きだよ」

「それはどうもありがとう」

「別に今、佐伯くんの話はしてない」


 俺の軽口に、片桐さんは僅かに口元を綻ばせる。十年前よりもずっと自然になった笑顔。それを今こうして間近で見ることができるのが、何より嬉しい。


「……じゃあさ、今度はこの映画見に来ようぜ。来年、一緒に」


 俺の誘いに、片桐さんはやや困ったように瞬きをした。その仕草に、俺の胸にざわりと黒い不安がよぎる。しかしそれも一瞬のこと、彼女は薄い笑みを浮かべて頷いてくれる。


「うん。いいよ」


 俺はほっとして、彼女に向かって左手の小指を突き出す。彼女がキョトンとしているので、軽く小指を振って「指切りだよ、指切り」と促した。自分でもクサいことやってると思うけど、スルーされると余計に恥ずかしいだろ。じわじわと頰が熱くなるのを感じた。


「え、ああ、うん」


 ようやく俺の意図を理解したのか、片桐さんはおずおずと俺の小指に自らのそれを絡める。ぶんぶんと二、三度振った後、俺はそのまま彼女の手を取って立ち上がった。そのままぐいと強く引くと「わっ」という戸惑った声が背中から聞こえてくる。


「まさか、このまま解散とか言わねーよな?」


 時刻はまだ十七時。このままはいさようならと別れるには、あまりにも早い。せっかくの彼女との初デートを、こんなに情けない姿を晒したまま終わらせるわけにはいかないのだ。

 背後にいる彼女が「今日は丸一日空けてた」と答えた。俺は幸せを噛み締めながら、握りしめた手にぐっと力を籠める。

 どうだ見てみろ、十年も経てば俺だって、好きな女の子の手を握ることくらいできるのだ。別にさっきの中学生に張り合ったわけではない、断じてない。

 誰にでもなくそんな言い訳をしながら、振り返って彼女の表情を確認する余裕さえない自分が中学生以下であるという事実には、見て見ぬ振りをしている。

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