現在、十月
ノー残業デーといえど、どうしても不可避の残業をしなければならない日というものはあるものだ。そもそも俺は営業職なのだから、時間外労働だろうが先方の都合に合わせないといけないことが多い。むしろこれまで毎週カフェに行けていたのが、奇跡的だったのかもしれない。
取引先から会社に戻ってきて、事務処理を終えて会社を出た頃には、すっかり夜も更けていた。俺は腕時計に視線を落として見ると、時刻は二十二時半を少し回ったところだ。想定していたよりもかなり遅くなってしまった。今日は水曜日だったのに、と舌打ちをしたくなる。
片桐さんに「今日は行けなさそう」と連絡をしようかと思ったのだが、約束していないのにわざわざ伝えるのも変かと思い、結局連絡しなかったのだ。「別に待ってない」とか言いそうだし、そんなことを言われたらちょっと落ち込んでしまうだろう。
結局片桐さんがデレたのは結局あの雨の日の一度きりで、それからデレの片鱗すら見せてくれない。毎週のように足繁くカフェに通う俺に対しても、相変わらず絶対零度の視線を向けてくる。よって、俺と彼女のあいだの進展は皆無だ。もしかしてあれは俺の幻だったのだろうか。いやいや、そんなまさか。
あのときの片桐さんの、真っ赤に染まった顔を思い出すと、俺の頰はだらしなく緩んでしまう。誤魔化すように足早に歩き出したところで、「佐伯くん、ちょっと待ってよー」と呼び止められた。
「なに急いでんの? もしかして、なんか用事あった?」
「いや、そういうわけでは……」
「あ、そう。はー、つっかれたあ。ビール飲みたーい」
俺の隣で首をポキポキ鳴らしたのは、みっつ歳上の先輩である
江本さんはとびきり美人というほどでもないが、どことなく色気のある顔立ちで結構スタイルも良い。十人に聞いたら七人は「是非とも一晩お付き合い願いしたい」と答えるだろう。念のために言っておくが、俺は残りの三人の方である。
「ねえ佐伯くん、今からちょっと飲みに行かない?」
「え、今からすか? 今日まだ水曜ですよ」
「今から家帰ってごはん用意するの面倒臭くない? 日付が変わる前に解散すればセーフでしょ!」
ねえ行こうよー、と江本さんは気安い仕草で俺の肩をガクガク揺さぶってくる。この人は年上なのに、結構子どもっぽいところがある。
たしかに今から帰ったところで、コンビニ弁当を食って缶ビールを飲んで、日付が変わるまでダラダラ起きているに違いない。多少遅くなろうが、店で飲んだ方が余計なゴミが出ないだけマシかもしれない。
俺の頭には片桐さんの顔がチラリとよぎったが、この時間だしさすがに帰っているだろう。今週会えなかったのは残念だが、また明日メールでもしておこう。
「そうですね、わかりました」
「よしよし。こないだ、日本酒が美味しそうな店見つけたんだよねー」
「ビール飲みたいんじゃないんですか」
こっちだったかな、と江本さんは歩き出す。そういえば、こっちはいつものカフェがある方向ではないか。あそこは二十三時閉店だったはずだし、今から行っても入れないだろうが。
カフェの前を通りかかったところで、俺はいつもの癖で窓際の席に視線を向ける。そこに座っている人物を見て、息が止まりそうになった。
長い黒髪を垂らした女性が、やや背中を丸めてテーブルの上に頬杖をついている。まるで、誰かを待っているみたいに。
「佐伯くん、どしたのー?」
突然立ち止まった俺を不審に思ったのか、江本さんは俺の腕を軽く引いてきた。そのとき、タイミング良く――悪く、と言うべきか――片桐さんが黒髪を揺らしてこちらを向いた。街の灯りに照らされた俺の姿は、明るい店内にいる彼女の方からもはっきりと確認できただろう。彼女の大きな目が、さらに大きく見開かれるのがわかった。
やべ、と思う間もなく、彼女はすっと目を伏せる。色を失って真っ白になった頰が、僅かに震えた。――表情に乏しい彼女だが、その横顔は確かに傷ついているように見える。
なんで、片桐さんがそんな表情してるんだ。俺たちは週に一回だけ顔を合わせて他愛もない話をするだけの関係で、それ以上でもそれ以下でもない。俺が他の女の人と一緒に居たところで、彼女が傷つく道理はないはずだ。……彼女が俺のことを、なんとも思っていないならば。
俺は反射的に、江本さんの手を振り払った。
「江本さん、すみません」
「え?」
「俺、用事思い出して――この埋め合わせはまた!」
俺はそう言って、唖然としている江本さんを置いて店内に飛び込んだ。カランコロンと扉のベルが鳴ると同時に、店員が申し訳なさそうに駆け寄ってくる。
「お客様、申し訳ありません。当店、二十三時閉店でして……」
「あ、いや、注文しません! すぐ出ます!」
「あっ……お客様!」
俺は店員の静止を振り切り、足早に片桐さんの元へと向かう。そそくさとテーブルの上を片付けている彼女の腕を、俺はやや乱暴に掴んだ。
「片桐さん!」
目を伏せたままの彼女の肩が、びくりと震える。じっと黙り込んだまま、何かに耐えるように下唇を噛み締めた。俺は彼女のそんな様子に構わず、掴んだ腕にぐっと力を籠める。
「今日もしかして、俺のこと待ってた?」
ずるい質問だと思ったが、俺には彼女の気持ちを慮る余裕さえなかった。片桐さんは俺の問いには答えず、ゆっくりと唇を震わせる。
「別に、約束してたわけじゃないから。佐伯くんが毎週ここに来る必要なんてない」
そう、彼女の言う通りだ。俺は彼女に果たすべき責任も何もない。連絡をする義務も、嫉妬をする権利だってない。ただその義務と権利が、俺は心の底から欲しくてたまらないのだ。
「今日、来れなくてごめん」
片桐さんは無言で首を振る。俺は手を離すと、両手で彼女の頬を挟んで、強引にこちらを向かせた。黒くて大きなつり目がちな瞳には、必死な男の姿が映っている。いつものヘラヘラ顔はどこへやら、我ながらやけに真剣な面持ちだった。
「約束する。俺は片桐さんに会いに、毎週水曜にここにくる。もし来れないときは、ちゃんと連絡するから。……約束、させて」
触れた箇所の温度がじわじわと上がっていく。表情は少しも変わらないのに、次第に赤くなってく頰は驚くほど素直でかわいい。どうしようもなく好きだ。
「……重荷にならない?」
不安げな片桐さんの声に、今度は俺がかぶりを振る番だった。そんな重荷なら、喜んで背負わせてほしい。
「あと俺、水曜日以外も片桐さんに会いたい。ちゃんと約束して待ち合わせして、二人で遊びに行こうよ」
片桐さんの瞳が戸惑ったように揺れたけれど、やがて「……うん」と頷いてくれた。やや無理やり言わせた感は否めないが、言質は取ったぞ。俺はほっと胸を撫で下ろす。
「……メシ食った?」
「食べてない」
俺は心底申し訳なくなった。やはり、俺のことを待っていてくれたのだろうか。俺の落ち込んだ様子に気付いたのか、片桐さんは慌てて「おなかすいてなかっただけ」と言い訳した。
「でも、今急におなかすいてきた」
「じゃあ、ラーメンでも食って帰ろうぜ。遅くなったし、送ってく」
「いいよ、そんなの」
「よくない」
彼女を無事に家まで送り届ける義務も、俺が欲して止まないものである。……もちろん、部屋に上がり込む勇気は「まだ」ないが。
「……じゃあ、甘える。ありがとう」
そんな俺の下心などつゆ知らず、彼女は笑った。唇の端を引きつらせるような不器用でヘッタクソな笑みは、十年前のそれによく似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます