十年前、十月
終業のチャイムが鳴ると同時に、廊下側最前列に座っている片桐さんは立ち上がり、そそくさと教室を出て行く。今日は水曜日、彼女の「部活」の日である。彼女はこれから旧音楽室に行って、赤いマフラーを編むのだろう。そろそろ秋も深まってきているし、そろそろ完成させないと冬に間に合わないのではないだろうか。
俺はいつも友人と一緒に帰るふりをしてから、こっそり旧音楽室へと向かっている。みんなにからからかわれるのは恥ずかしいし、片桐さんと二人で過ごす時間を邪魔されたくないからだ。旧音楽室で編み物をしている片桐さんのことは、俺が独り占めしていたい。
今日も同じように、友人数人で連れ立って校門へと向かう。じゃあ俺はこれで、と別れようとしたところで、工藤が呼び止めてきた。
「コウ、今からみんなでカラオケ行かねー?」
「え」
予想外の提案に、俺は一瞬固まる。工藤はたまたま通りかかった同じクラスの女子グループにも、「なあなあ、カラオケ行こうぜー」と声をかけている。どうやら彼女たちも乗り気らしく、「行く行くー!」とはしゃぐ声が帰ってきた。
「いやいや、俺ら受験生じゃん。いいの?」
俺がやんわりそう言うと、工藤はバシンと俺の背中を叩いてくる。ビリビリと痺れるほどに痛い。手加減しろよな、ゴリラ野郎。
「真面目か! たまには息抜きさせろよなー! コウ、今日塾ねーんだろ?」
「ないけど……」
俺が口籠っていると、隆二が「いいじゃんコウ、行こうぜ」と肩を抱いてくる。行きたくないわけではないが、俺の頭に浮かんだのは片桐さんの顔だった。彼女は今も旧音楽室で編み物をしているはずだ。
「ねえねえ、佐伯くんも行こうよー」
そう言って俺の袖を引いたのは、クラスで一番人気のある酒井さんだ。こちらを見つめる上目遣いがかなりあざとい。自分がかわいいと理解していないとできない仕草だ。大抵の男ならばコロッと騙されるのだろうが、俺にとっては片桐さんの絶対零度の視線の方が魅力的に思える。
「コウ、ノリ悪ぃぞ。片桐なんかとつるんでるから、真面目ちゃんが伝染ったんじゃねーの」
彼女を馬鹿にするような工藤の口調に、俺は少なからずカチンときた。とはいえ、ここで言い返すのは得策ではないことはわかっている。俺だって自分の身がかわいいし、下手に逆らって片桐さんに妙な火の粉がかかるのも嫌だった。
「……わかった、行くよ」
俺が頷くと、工藤が満足げな笑みを浮かべた。別にどうしても俺を連れて行きたいわけではなく、自分の思い通りにならないことが嫌なだけだろう。典型的なガキ大将だ。
「やったー、嬉しいな。佐伯くん、何歌うの?」
「なんか、適当に……」
馴れ馴れしく腕を絡めてくる酒井さんをあしらいながら、俺はチラリと旧校舎に視線を向ける。三階の一番奥、旧音楽室の窓が開いているのが見えた。風に吹かれて、クリーム色のカーテンがはためいている。その向こうにいるはずの片桐さんの姿は、どれだけ目を凝らしても見えなかった。
その翌日、俺はいつもより少し早めに登校した。昨日のことを、片桐さんに謝るためである。
今朝は一段と寒さが厳しく、冷たい風がひしひしと頬を打つ。足早に教室に入ると、既に片桐さんは自席に座って編み物をしていた。
「おはよう、片桐さん」
昨日カラオケでさんざん歌わされたせいで、声が少し掠れていた。片桐さんは目線だけをこちらに向けて、「おはよう」と返してくれる。再びマフラーに視線を戻したときに、編み目を飛ばしていることに気付いたらしい。溜息混じりにほどき始めた。
「片桐さん、昨日は――」
ごめん、と言いかけて、はたと我に返る。そもそも、彼女に謝る必要があるのだろうか?
俺は毎週のように旧音楽室に行っているが、別に彼女に頼まれたわけではなく、勝手に押し掛けているだけである。邪魔ではないと彼女は言ったが、歓迎すると言われた記憶もない。約束しているわけでもないのだから、行けなかったことを謝るのもおかしな話ではないか?
そんなことを考え込んでいると、ちょうど教室に酒井さんが入ってきた。薔薇色に染まった頬を緩めて、「佐伯くん、おはよう!」と挨拶をしてくる。片桐さんの百倍は愛想の良い「おはよう」だ。
「あ、おはよ」
「昨日楽しかったねえ。佐伯くん、すっごく歌うまくてびっくりしちゃった」
ベタベタと腕を触りながらそんなことを言う酒井さんに、俺は引きつった笑顔で「ウン」と答えることしかできなかった。
別にやましいことなど何もないのに、どうしてこんなに気まずい思いをしなければならないのだろうか。まるで浮気現場を見られた男のようだ。いや、俺は今まで誰とも付き合った経験がないし、当然浮気もしたことないけど。
「また行こうね、佐伯くん」
酒井さんはニッコリ笑ってそう言うと、ほんの一瞬だけ片桐さんに目線をやってから、自席へと歩いて行った。残された俺と片桐さんのあいだに、重苦しい沈黙が落ちる。無言で編み針を動かしている彼女の横顔は真っ白で、何の感情も読み取れない。
「ええと……あの、俺」
「まだ何か用?」
片桐さんは俺を一瞥もせず、いつもよりオクターブ低いトーンでそう言った。ぴしゃりとシャッターを下ろすような声に、俺は「なんでもないです」とすごすご引き下がるしかなかった。
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