現在、九月
九月も後半になると空気がずいぶんと秋めいてきて、日中の気温は高くとも過ごしやすい気候になってきた。
夏が終わって秋になっても、俺と片桐さんの関係は、少しも進展が見られなかった。このままではいけないとわかってはいるのだが、距離の詰め方がとんとわからない。
今までの恋人とはどうやって付き合い始めたんだっけと考えてみたけれど、大抵は向こうからさりげなくアピールされて始まるパターンがほとんどだった。こちらから攻め込んだことは一度もないのだ。よって俺は、いつまでたっても堅く閉じた城門の前で槍を持ってウロウロしているのである。
せめて片桐さんがもう少し好意を表に出してくれれば、もう少しやりようがあるのだが。こちらから連絡をしてもそっけなく、返事は大抵「はい」の二文字だ。会って話せばそれなりに盛り上がるが、デートに行こうだなんて話も出てこない。
嫌われてはいないと思う。それでも、特別好かれている自信はまったくない。
今日は木曜日。片桐さんには昨日もいつものカフェで会ったばかりだ。また一週間会えないのか、なんてことを考えてしまってから、いやいや恋する乙女かよと自分に突っ込みを入れる。
「うわ、雨降ってる……」
仕事を終えて会社を出たところで、俺はひとりごちた。しとしとと降り注ぐ冷たい雨が、アスファルトを濡らして色を変えていく。ジャケットがなければ肌寒いくらいの気温だ。
秋の天気は変わりやすい。天気予報もあてにならないものだ。傘を持たないサラリーマンが、鞄を頭に乗せたまま走っているのが見えた。ちなみに、今日の俺も傘を持っていない。
いつもは鞄に折り畳み傘を入れているのだが、そういえばベランダに干したまま出てきてしまった。コンビニまで走ってビニール傘を買いに行くか。それならいっそ、駅まで走った方がマシだよなあ。
そんなことを考えながら立ち尽くしていると、ふいに声をかけられた。
「佐伯くん?」
少し掠れた、甘さの足りないハスキーな声。弾かれたようにそちらを向くと、赤い傘をさした片桐さんが立っていた。彼女も仕事終わりらしく、大きめの黒いトートバッグを肩から提げている。
「あれ、片桐さん! 偶然だね」
そう答える声が思いのほかはしゃいでいて、俺はちょっと恥ずかしくなった。今のはちょっと露骨すぎる。片桐さんを目の前にすると、俺は思春期のガキに逆戻りしてしまうのだ。誤魔化すように、軽く咳払いをした。
「えーと。片桐さん、今帰り?」
「……うん。たまたま通りかかって」
「俺の職場、ここなんだ」
「前に聞いたから知ってた。……傘、持ってないの?」
「ああ、うん……忘れた」
「じゃあ、入っていく?」
「え」
予想外の申し出に、俺は目を丸くした。片桐さんは、右手に持った赤い傘をほんの少し持ち上げてみせる。
「佐伯くんも地下鉄でしょ。駅まででよければ」
「助かる。駅の売店で傘買うわ」
「どうぞ」
「……おじゃまします」
そう言ってから、俺は腰を屈めて傘の下に入った。このままではどう考えても腰を痛めそうな体勢だったので、彼女の手から傘を奪い取る。
「俺が持つ」
「たしかに、そっちの方が合理的だね」
片桐さんは素直に頷いて、俺たちは二人で肩を並べて歩き出す。最寄駅までの道のりは歩いて五分ほどだ。もう少し遠ければよかったのに、と俺は歯噛みした。
彼女の持っている傘は大人二人が入るにはやや小さい。数メートルも歩くと、俺の右肩は次第に冷たくなっていった。見ると、彼女が着ているラベンダー色のカーディガンの肩も濡れている。
「片桐さん。もうちょっとこっち来ないと濡れるよ」
そう言って華奢な肩を抱き寄せると、小さな身体がぴたりと密着する。どきりと跳ねた心臓の鼓動を悟られないように、俺は彼女から視線を逸らして前を向いた。
ぱらぱらと傘を叩く雨の音。左側に感じる体温。漂ってくるシャンプーの匂い。そのすべてがどこか懐かしくて、そういえば昔似たようなことがあったな、とぼんやりとおぼろげな記憶が揺り起こされる。当時の自分は隣にいる彼女の横顔をまともに見ることができず、肩を抱き寄せることなど到底できなかった。
「……そういや昔も、こんなことあったな」
俺がぽつりと呟くと、片桐さんが首を回してこちらを向いた。あの頃とは違う、長い黒髪が揺れる。
「よく覚えてるね」
「うん、まあ……片桐さん、あのときほんとに帰り道だった? もしかして俺のために遠回りしてくれたんじゃねーの?」
自分でもずいぶん古い話を蒸し返すものだと思ったけれど、どうにも気になってしまった。彼女は何も答えず、ふいと目線を逸らしてしまう。図星だったのかもしれない。やっぱりあれは、彼女の優しい嘘だったのか。
結局互いにほとんど言葉を交わさないまま、駅に着いてしまった。駅の構内に入ったところで、俺は赤い傘を畳む、彼女と俺は路線が違うので、ここでお別れだ。
「ありがとう、助かった」
「どういたしまして」
せっかく偶然会えたのに、このチャンスを流してしまうのは惜しい。勇気を出して飯にでも誘ってみるべきかと逡巡しているうちに、彼女は「それじゃあ、また」と言った。そうなると俺はなすすべもなく「うん」と頷くしかない。
ホームへと向かう階段を降りていく背中が、どんどん小さくなっていく。彼女が持っている鞄が少しだけ濡れているのが見えた。ああ、もっと傘を傾けてあげればよかった。
姿が完全に見えなくなってしまう前に、彼女はぴたりと足を止めた。黒髪を揺らして振り向くと、ずんずんと勢いよくこちらに戻ってくる。どうしたんだろうと思っていると、俺の目の前で立ち止まった。
「片桐さん? 忘れ物でもした?」
「佐伯くん」
「あ、ハイ」
俺の質問をスルーした片桐さんは、眼光鋭くこちらを見つめてくる。黒々とした大きなつり目には、妙な迫力がある。全体的におとなしそうな印象を与える彼女のパーツの中で、この瞳だけが異質だ。
「私、あなたに嘘ついた」
「え?」
「私の家、ほんとは佐伯くんの家と反対方向だったの」
「あ、そうなんだ……」
妙に真剣な表情でそんなことを言い出す片桐さんに、俺はたじろぐ。別にいまさら、そんなこと白状しなくてもいいのに。
「あと、もうひとつ」
「なに?」
「……私が今日佐伯くんに会ったの、偶然じゃない」
片桐さんは傘の柄をぎゅっと握りしめている。指先が真っ白になるくらいに。
「私、今日佐伯くんのこと待ってたの。佐伯くんがあそこで働いてるの、知ってたから。もしかしたら、会えるんじゃないかなって思って――」
そう捲し立てるあいだも、片桐さんは俺から視線を逸らさない。彼女の大きな瞳には、呆気に取られている間抜けな男の顔が映っている。
「嘘ついて、ごめんなさい」
長い黒髪の隙間から、ほのかに赤く染まった耳が見える。それに気付いた瞬間、俺は顔面に熱が集中するのがわかった。ちょっと待って片桐さん、もしかしてそれって――。
「それだけ。じゃあ、また」
そう言って片桐さんがくるりと踵を返した瞬間、俺は衝動的に彼女の手を掴んでいた。白くて細い指を追いかけて、きつく絡める。
「片桐さん、それってどういう意味――」
にわかに繋いだ手の温度が上がる。俺が最後まで言い終わらないうちに、片桐さんは勢いよく俺の手を振り払うと、茹で蛸のように真っ赤な顔でこちらを睨み付けてきた。
「し、知らない! 私、もう帰る!」
……こんな風に動揺している片桐千花を、俺は初めて見た。十年前には、知らなかった顔だ。
俺に背中を向けた片桐さんは、猛ダッシュで階段を駆け下りていく。パンプスが脱げてしまわないか心配になるスピードだった。
その場に残された俺は彼女を追いかけることもできず、へなへなとその場にしゃがみこむ。
「……なんだ、あれ……かっわいい」
なんなんだ、今のかわいい生き物は! 俺は両手で顔を押さえて、人知れず悶絶する。すれ違った女性が訝しげな視線を向けていることに気付いたけれど、それどころではなかった。
しばらくして復活した俺は、スマートフォンを取り出して彼女へのメールを作成する。「今日はありがとう」というメールの返事が「はい」のたった二文字だろうが、今の俺にとっては些末なことだった。
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