十年前、九月

 夏期講習に追われた中学三年の夏休みは、一瞬で過ぎ去ってしまった。新学期になり久々に顔を合わせたクラスメイトの中には、それなりに変容している奴もいた。クラス内でもかなりませた女子が、年上の彼氏と初体験を済ませたという噂も聞こえてくる。

 そんな中、片桐さんはやっぱりと言うべきか、少しも変わっていなかった。セーラー服の袖から覗く腕は生白くて、日焼けすらした気配がない。本人の言う通り、「ずっと家にいた」のだろう。彼女は筋金入りのインドア派なのだ。

 俺は相変わらず、水曜日になると旧音楽室に向かう日々を送っている。片桐さんは今日も、いつまで経っても完成しない赤いマフラーをせっせと編んでいた。夏休み前よりも、少しは長くなったみたいだ。


「片桐さん、勉強しねーの?」


 俺は机の上に問題集を広げていた。夏休みの模試では志望校はA判定だったし、それほどガリガリ勉強しているわけではないが、それでも一応受験生である。ここ最近は、編み物をしている片桐さんのそばで勉強をしていることが多かった。


「今は部活の時間だから。勉強は他のときにしてる」


 そういえば最近の片桐さんは、休み時間は編み物をせずに勉強していることが多い気がする。二学期になっても彼女に話しかける人間は俺以外に存在せず、完全にクラスから浮いた存在になっていた。クラスメイトたちは、彼女のことをすっかり「一人が好きな変わり者」だと認識したようで、むしろ浮いた状態が自然になっている。

 彼女が本当は寂しがりやで一人が苦手な女の子だと知っているのは、俺だけだ。


「あ、やべ。雨降ってきた」


 灰色の空から降り注ぐ雨が窓ガラスを濡らしていくのを見て、俺は顔をしかめた。先ほどからやけに空がどんよりして雲行きが怪しいなとは思っていたが、ついに降り出してしまったか。

 俺の言葉に、片桐さんも窓の外に視線をやる。彼女は「ほんとだね」と呟いて、てきぱきと編み針を片付け始めた。


「そろそろ帰ろうか」

「俺、傘持ってないんだけど」

「私、折り畳み傘持ってきてるよ。天気予報で雨降るって言ってたでしょ」

「見てなかった……」

「佐伯くん、家どこ?」


 突然の質問に驚きつつも、俺は自宅の場所を告げる。片桐さんは「結構近くだね」と頷いた。なに? どういう意味? 近いんだから濡れて帰れってこと?

 どうしたものかと考えている俺をよそに、片桐さんは鞄を持って立ち上がった。薄情者め、とばかりに睨みつけると、彼女は右手の折り畳み傘を軽く持ち上げる。


「入っていく?」

「え」

「佐伯くんの家、私の帰り道だから」

「……いいの?」

「いいよ」


 片桐さんがさっさと出て行ったので、俺は慌てて問題集を鞄に突っ込んで追いかける。旧音楽室の鍵を閉めた彼女は、ギシギシと床を踏み鳴らしながら廊下を歩いていく。

 下駄箱で靴を履き替えて外に出ると、先ほどよりも雨足が強くなっていた。片桐さんがモタモタと折り畳み傘を開く。彼女にしてはかわいらしい、青いギンガムチェック模様だった。


「どうぞ」

「……傘、ちょっと小さくない?」

「贅沢言わないで」

「……はい、おじゃまします」


 促されるがままに、ギンガムチェックの傘の下へとお邪魔する。片桐さんは俺より十センチほど背が低いので、ビシビシと傘が頭に当たった。


「いたっ。片桐さん、もーちょい傘持ち上げてよ」

「これ以上は無理」

「じゃあ、俺が持つ」


 俺はそう言って、半ば強引に彼女の手から傘を奪い取った。彼女がちゃんと傘の下に入っているのを確認してから、ゆっくりと歩き出す。そういえば、片桐さんと隣に並んで歩くのは初めてだ。

 たかが十センチの差といえど、隣にいる片桐さんはなんだかやけに小さく思えた。当然歩幅も狭いので、俺はいつもよりかなりゆっくり歩かなければならない。彼女の右肩が濡れて、白いセーラー服が肌の色を透かしている。俺はぎょっとして、彼女の方に傘を傾けた。


「佐伯くん、濡れるよ」


 狭い傘の下で聞く彼女の声は、いつもと違う響きがある。「大丈夫」と答える俺の声は、彼女の耳にどんな風に聞こえているんだろうか。

 青いギンガムチェックの傘が、雨を弾いてパラパラと音を立てている。片桐さんの肩が触れるたびに心臓の鼓動が早くなって、すぐそばにいる彼女に聞こえてやしないかとひやひやする。彼女の短い髪から、シャンプーの匂いがふわりと漂ってきた。やっぱりこの傘は、二人で入るには小さすぎるのだ。

 誤魔化すために何か話そうかとも思ったけれど、気の利いた話題がちっとも出てこない。俺の家、こんなに遠かったっけ。水溜りを踏んだ拍子に、ばしゃりと泥がズボンの裾に跳ねた。

 そうこうしているうちに、ようやく俺の家に着いた。足を止めて「俺んち、ここ」と言うと、片桐さんは無言で頷いた。俺が軒下に入るのを確認してから、差し出した傘を受け取る。


「ありがと。助かった」

「それじゃあ、また来週」


 さっさと歩いていく彼女の小さな背中を見送りながら、俺は溜息をつく。また来週、ねえ。そりゃあ二人でゆっくり話せるのは水曜だけだけど、明日も教室で会うっての。

 ふと見ると、俺の左肩はぐっしょりと雨で濡れていた。背負っていた黒のリュックもびしょびしょだ。よく考えたらわざわざ小さな傘に二人で入らなくても、職員室に行けば置き傘のひとつでも借りられたかもしれない。……あのときそれに思い至ったとしても、たぶん俺は言い出さなかっただろうけど。

 そういえば、彼女の家がどこにあるのか聞きそびれてしまった。本当に帰り道だったのか、それすらもわからない。もしかすると帰り道というのは彼女の優しさで、本当は遠回りをしてくれたのかもしれない。なんて考えるのは、自惚れが過ぎるだろうか。

 次第に小さくなっていく青いギンガムチェックがすっかり見えなくなるまでのあいだ、俺は玄関の軒下にじっと立ち尽くしていた。

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