現在、七月

 片桐千花は、毎週水曜日は仕事終わりにカフェで勉強をしているらしい。それを聞いた俺は、水曜日になると、彼女に会うためにカフェに向かうようになった。旧音楽室へと足繁く通っていた十年前から、俺はまったく成長していない。

 毎週のように現れる元クラスメイトに対して、彼女は嫌な顔ひとつしなかった。彼女は感情が表情に出ないタイプだから、実際のところはよくわからないけれど。おそらく邪魔だとは思われていない、はずだ。

 俺たちは向かい合って座りながら、ぽつぽつと近況を報告し合った。もしかしたら同窓会で再会したときにも似たような話をしたのかもしれないが、なにせ泥酔した俺はあの夜の記憶がないのだ。

 私立の女子校を卒業した彼女は、そのままエスカレーター式に付属の大学に進学した。大学卒業後は、今の会社に就職した。俺の家から三駅ほど離れたところで、一人暮らしをしている。そんな情報を入手すると同時に、俺はさりげなく彼女に男の影がないか探りを入れていた。


「自炊とかしてんの? 俺、毎日牛丼とかコンビニ弁当食ってる」

「私も全然。適当に、スーパーのお惣菜とかで済ませちゃう」

「一人分だけ作るのって、逆に金かかるよな」

「確かに、そうかも。作り置きとかできればいいんだろうけど」


「休みの日って何してる? 俺、こないだの連休はサブスクで海外ドラマ観まくったよ」

「私も三連休誰とも会話しなかったら、休み明けに声が出なくてびっくりした」


 そんなやりとりからして、おそらく彼女にも恋人はいないと察することができた。彼女が嘘をついていなければ、だが。……遠回しに「俺も恋人いませんよ」アピールをしているつもりなのだが、伝わっているのかどうかよくわからない。

 そうこうしているうちに、一ヶ月が経った。俺と彼女の関係は十年前と少しも変わらず、週に一回顔を合わせて、他愛もない会話をするだけである。


 七月末の水曜日。無事に定時ダッシュをキメた俺は、足早にいつものカフェへと向かっていた。すれ違うビジネスマンは、週の半ばということもありやや疲れた顔をしていたが、俺の足取りは軽かった。

 真昼よりも少し傾いた太陽の光が、ビルの隙間から降り注ぐ。眩しさに目を細めながら、俺はガラス張りのカフェの中を凝視した。窓際の席に、紺色のブラウスを着た片桐さんの姿を見つける。いつものように勉強しているのかと思いきや――彼女の向かいの席には、見知らぬ男が座っていた。

 俺たちと同世代が少し年嵩だろうか、スーツを着た会社員らしき男だった。何やら片桐さんに話しかけているようだったが、彼女は一瞥もせずに本を読んでいる。普通ならとっくに心が折れているだろうに、ずいぶんと物好きな男だ。

 俺は店内に入ると、店員に「連れがいます」と告げてから、まっすぐに彼女の元へと向かった。


「片桐さん、おまたせ」


 言ってから、約束もしていないのに「おまたせ」と言うのも妙な話だ、と考える。もしかすると、彼女は俺のことなんて待っていないかもしれないのに。

 ようやく本から顔を上げた片桐さんは、「佐伯くん、こんばんは」と言った。俺がチラリと視線を向けると、彼女の目の前に座っている男はややたじろぐ。さっさとどけよ、そこは俺の定位置だぞ。


「知り合い?」

「ううん、全然知らない人。しつこくて困ってた」


 片桐さんはそうバッサリと斬り捨てると、絶対零度の視線を男に向けた。男は気まずそうに立ち上がると、「……失礼しました」と言ってそそくさと逃げていく。二階席へと上がっていく背中が見えなくなってから、俺は男が座っていた場所に腰を下ろした。くそ、椅子がなまぬるくて不快だ。


「ありがとう、助かった」


 片桐さんはそう言って、丁寧な手つきで本にしおりを挟んで閉じた。勉強している、と言っていたが、一体何を読んでいるのだろうか。このあいだチラリと見えた本の中身は、俺の読めない言語で書かれていた。雰囲気的に、マレー語あたりだと思う。

 俺は店員を呼び止めると、アイスコーヒーとナシゴレンを注文した。ここの飯は普通に美味いが、量が今ひとつ物足りないのが難点である。おそらく今日も帰りにコンビニに寄って、缶ビールとつまみを買うことになるのだろう。

 既にアイスコーヒーを飲んでいた片桐さんだったが、俺に合わせてロコモコライスを頼んでいた。勘違いでなければ、俺が来るまで飯を食わずに待っていてくれるように思える。そんな些細なことが、今の俺にとってはたまらなく嬉しかった。


「さっきみたいなこと、よくあんの?」

「さっきみたいなこと?」

「知らない男にナンパされたりとか」


 片桐さんは眉を寄せると、「さっきの、ナンパなの?」と首を傾げた。俺が見る限りでは、まごうことなくナンパに見えたが。先ほどまでの光景を思い出して、胃がムカムカしてきた。


「女一人でごはん食べてると、ナメられて声かけられることはたまにあるよ。でも、しょっちゅうじゃない」

「……ふーん」

「もしかすると、寂しい女に見えてるのかな」


 片桐さんは自嘲するように言った。俺は運ばれてきたアイスコーヒーをくるくるとかき混ぜながら、正面に座る彼女の顔をまじまじと見つめる。

 十年前から思っていたけれど、片桐さんは決して不器量ではない。中学生ぐらいの頃は「明るくて愛想の良い子」が俄然モテるのだが、この年になるとこういう真面目でクールなタイプも需要があるものだ。もちろん万人が認める美人ではないけれど、十人いたら一人くらいはツボのど真ん中にハマりそうな顔だ。……要するに、俺はその「十分の一」の男なのだ。

 片桐さんに惹かれる男は、もはや一部の物好きだけではない。ぼんやりしているうちに、他の男に掻っ攫われる可能性だって低くないのだ。

 ――もういい加減、遠回しな駆け引きはやめよう。片桐千花相手には、何の意味もない。俺は小さく息を吸い込んでから、なにげない風を装って尋ねた。


「片桐さん、彼氏いるの」

「いない。いたことない」

「マジか!」


 俺は思わず、歓喜に満ちた声をあげてしまった。十年ものあいだ、彼女を見つけられなかった馬鹿な男どもに、俺は全身全霊で感謝する。


「へえ。そうなんだ。ふーん」


 不満げに「失礼な反応……」と唇を尖らせている彼女は、テーブルの下のガッツポーズに気付くべくもない。俺はにやにや笑いを浮かべながら、未だ誰のものでもない彼女を見つめている。

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