十年前、二月

 小さな包みを胸に抱えたまま、私は息を吸い込んだ。おそるおそる教室を覗き込むと、彼はいつものように多くの友人たちに囲まれている。涼しげな横顔には大人びた笑みが浮かんでいて、私の胸はきゅんと高鳴ってしまう。そんなときめきを押し隠して、私はぐっと表情を引き締めた。

 ――うん、今は無理。絶対無理無理。

 私は包みを鞄にしまいこむと、そろそろと教室の中へと足を踏み入れる。私に挨拶をする人は誰もいない。おそらく意図的に無視をしているわけではない、ただ「そういうもの」だと認識されているだけ。私はこのクラスにおいて、背景みたいなものなのだ。


「おはよう、片桐さん」


 自席に向かおうとした私に、唯一声をかけてくれたのは佐伯くんだった。いつものように(本人曰く「へらへら」した)笑顔を浮かべて、小さく手を振ってくる。私は動揺を押し隠しながら「おはよう」と答えると、そそくさと立ち去る。近くにいた酒井さんには、軽く睨まれてしまった。

 席につくと鞄から教科書とノートを取り出して、予習をするふりをして佐伯くんの横顔を盗み見る。鞄の底に眠っている包みの存在を思い出して、私の心はそわそわとざわめいた。

 三年生になって初めて同じクラスになった佐伯くんは、ちょっと変わった男の子だった。飄々としていてどこか掴みどころがなくて、いつも笑っているけれど、たまにちょっと遠い目をしている。抜群に顔立ちが整っているわけではないのに、他の同級生に比べて落ち着いた雰囲気のある彼は、結構女の子から人気があった。

 そんな彼がひょんなことから旧音楽室にやって来てから、彼は飽きもせず毎週のように顔を出すようになった。別に何をするわけでもない。勉強したり昼寝をしたり、私が編み物をするのを眺めたりしている。口下手な私は自分から話題を振ることなんて到底できなくて、彼の質問に答えることしかできなかった。他の女の子みたいにもっとにこやかに話したいのに、この十五年間でかちこちに強張った私の表情筋は全然動いてくれない。正直、何が楽しくて彼が旧音楽室に来ているのか、全然わからなかった。

 ……私は佐伯くんと一緒にいられて、とっても楽しかったけど。

 とろくて地味で目立たない私を、佐伯くんだけが見つけてくれた。愛想がなくて冴えない私を、佐伯くんだけがかわいいって言ってくれた。そんなの、好きになってしまうに決まっている。私はただでさえ、男の子に免疫がないのだ。

 私だって自分の立場くらいわきまえている。人気者の佐伯くんと、はみ出しものの私が釣り合うわけもない。これ以上の関係を望むつもりなんてなかった、それなのに――私はどんどん、欲深くなっていく。

 マフラーが完成して私が旧音楽室に行かなくなってから、私と佐伯くんの接点はほとんどなくなってしまった。教室では挨拶くらいはしてくれるけれど、それだけだ。おそらくこのまま卒業してしまったら、私と佐伯くんの関係はぷつりと途絶えてしまうだろう。それは嫌だ。私は卒業しても、佐伯くんに会いたい。

 卒業までは残り一ヶ月。今日は二月十四日――いわゆる、バレンタインデーだ。今までの私にとっては、まったく縁のないイベントだった。このチャンスを逃してしまったら、私はきっと佐伯くんに想いを伝えられない。

 私はゆうべ遅くまで机に向かって、せっせと彼への手紙をしたためた。何度も書いては消して、書いては消して。好き、だなんてとても書けなくて。結局完成したのは、ちょっと遠回しな気持ち悪い文面になってしまった。

 佐伯くんに渡すのは、赤い手編みのマフラーだ。本当は最初から、彼に渡すために作っていた。結局冬になっても完成しなくて、もはや春の足音さえ聞こえているけれど、彼は受け取ってくれるだろうか。


 結局いつまでたっても彼にマフラーを渡すチャンスは訪れず、放課後になっても、私はなかなかその場から動けずにいた。いつもは終業のチャイムが鳴ると一目散に教室を出るのだけど、今日ばかりはそういうわけにもいかない。

 佐伯くんの席は私からかなり離れた、廊下側の一番前だ。早くしないと、彼が帰ってしまう。わかっているのに、私は椅子にお尻がくっついてしまったみたいに、立ち上がることができない。


「あれ、片桐さん。まだ残ってるの?」


 突然声をかけられて、私はびくりと肩を揺らす。見ると、酒井さんがこちらを見下ろしていた。思えば、彼女の方から話しかけられたのは初めてだ。私が口籠っていると、酒井さんは小さく首を傾げる。


「いつもすぐ帰るのに珍しいよねー。誰かに用事でもあるの?」


 酒井さんはそう言って、チラリと佐伯くんの方に視線をやった。口元はニッコリと笑みの形を作っているけれど、瞳の奥には冷たい光が宿っている。

 彼女の手には、可愛らしくラッピングされた小さな紙袋があった。おそらくバレンタインのチョコレートだろう。私は黙ったまま、膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。


「黙ってないで何とか言えば?」


 怒っているというより、半ば呆れているような声だった。何が言わなきゃと思うのに、うまく言葉が出てこない。結局私の口からは「別に……」という愛想ゼロパーセントの言葉しか出てこなかった。我ながら酷いコミュ症だと思う。

 酒井さんは小さく肩を竦めると、短いスカートをひらりと翻して、佐伯くんの元へと走って行った。私は座ったままそれを見送る。


「佐伯くん、ハッピーバレンタイン!」

「あ、くれんの? ありがとう」

「ガトーショコラ、手作りしたんだよー。美味しくできたと思うから、よかったら食べて!」


 酒井さんが差し出した紙袋を、佐伯くんは笑顔で受け取った。私は今更のように、季節外れの手編みのマフラーを持ってきた自分が恥ずかしくなってきた。編み目がガタガタの、ダサい赤色のマフラーを渡したところで、彼を困らせるだけだろう。

 しばらく会話をした後、佐伯くんは酒井さんと連れ立って教室を出て行った。背が高くて大人っぽい佐伯くんと、美少女そのものの酒井さんはすごくお似合いに見える。私が彼の隣に並んだらそうはいかないな――と想像して、そんな図々しいことを考えた自分を恥じた。

 ……結局、渡せなかったな。

 ぼんやりしているうちに、教室には誰もいなくなっていた。しんと静まり返った空っぽの教室の方が、私にとってはほっとする空間だ。どちらにしてもひとりぼっちなのに、みんなが居るときの方が寂しく感じるのは何故だろう。私が孤独じゃなかったのは、旧音楽室で佐伯くんと二人きりでいるあの時間だけだった。


 ――片桐さんは、俺がここに来ないと寂しい?


 寂しいよ、寂しいに決まってる。

 私は立ち上がると、ふらふらと佐伯くんの席へと向かった。鞄からマフラーの入った包みを取り出して、机の中にぎゅうぎゅうと押し込む。そのまま、振り返らずに走って教室を出た。

 走って、走って――途中の廊下で、酒井さんとすれ違って怪訝な顔をされた――校舎の外に出たところで、ようやく足を止めた。ゼイゼイと息が切れて苦しい。吐き出した息は白く、放課後の校庭の空気の中に溶けていく。

 あの手紙を読んだ彼は、どう思うだろうか。もしかすると、もう挨拶すらしてくれなくなるかもしれない。そう考えると胸の奥がぎゅっと痛んだけれど、不思議と後悔はしていなかった。この一年間必死で紡いだ赤い糸が、ようやく彼の元へと届くのだ。それだけで、充分だ。

 ――いつかまた彼は、赤い糸をたどって私を見つけてくれるだろうか。俺片桐さんのこと見つけるの得意だよ、と笑った彼を思い出して、私はなんだか泣きたくなってしまった。

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