現在、三月
瞼の裏に眩しい光を感じて、私はゆっくりと目を開けた。見ると、カーテンの隙間から夕陽が差し込んでいる。ソファから起き上がると、欠伸混じりに軽く目を擦った。
シンガポールの日の入りは日本よりも遅い。時計を見ると、もう十九時になっていた。ついついうたた寝をしてしまったらしい。休みの日は一日ダラダラしてしまっていけない。
シンガポールに来てから、はや二ヶ月が経とうとしている。最初は新しい環境に適応するのに必死で、余計なことを考えずに済んだ。最近は少し慣れてきたせいか、彼のことを考えることが増えた気がする。彼の顔を思い浮かべると、ぎゅうっと心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。
……なんだか、やけに懐かしい夢を見ていた。中学時代の夢だ。好きな男の子の机の中にマフラーを無理やり突っ込んだ、甘くもなんともない酸っぱいだけの思い出。
結局彼は、私の書いた手紙の返事をくれなかった。悲しくなかったといえば嘘になるけれど、それが彼の答えなのだろうと私は一人で納得していた。予想通り、中学を卒業してから私と彼の関係はぱたりと途絶え、それから会うことはなかった。
中学の同窓会に参加したのも、彼が来るかもしれないと思ったからだ。あの頃にはもうシンガポールへの異動が決まっていたし、日本を発つ前にもう一度だけ彼の顔が見たかった。
十年ぶりに会った彼は、やっぱり素敵だった。当時は大人っぽかった風貌は年相応になって、どこか飄々とした立ち振る舞いは変わっていなかった。彼の方から話しかけてくれたときは、天にも昇る心地だった。彼が酔ってしまったのは予想外だったけれど、酔っ払った彼もかわいかったし、彼の部屋に行けたのも嬉しかった。
最後に彼に一目会って、私は満足したはずだった。初恋にすっきりとサヨナラを告げて、心置きなく日本を発てると、そう思っていたのに。
――彼は、また私のことを見つけてくれた。
彼と再会してからの日々は、まるで夢のようだった。人付き合いが苦手で冴えない自分が、普通の女の子のようにデートできる日が来るなんて思いもしなかった。好きな人と手を繋ぐだけでこんなに胸がドキドキするなんて、知らなかった。全部、彼が教えてくれたのだ。
胸の奥で燻っていた恋心はいともたやすく燃え上がって、もう止まらなくなっていた。佐伯くんのことが好き。これからもずっと一緒に居たい。叶わぬ願いと知りながら、私はそう思わずにはいられなかった。
もし私が日本を発つと知ったら、彼はどう思うだろうか。いつ帰って来れるかもわからないのに、待ってて欲しい、だなんて言えるはずもない。五年も経てば私も彼も三十歳だ。きっと彼の前には、これからもたくさん素敵な人が現れるはず。
そして、ついに口に出せないまま、あの夜を迎えてしまった。本当は、何も言わずに別れてしまおうかとも思ったのだ。素敵な思い出だけを抱えて、彼の前から消えてしまおうかとも。でも、できなかった。
私の言葉を聞いた彼は、あっさりと私の前からいなくなってしまった。彼を突き離したのは私の方なのだから、傷つくのはお門違いだ。それでも私の胸は張り裂けそうだった。もしかしたら心のどこかで――シンガポールなんて近いよ、と言ってくれるとでも自惚れていたのかもしれない。
「やっぱり、諦められない……」
両手で顔を覆った私は、そうひとりごちた。
どうしたって彼のことは、忘れられそうにない。頰に触れた手の温度も感触も、私をじっと見つめる熱のこもった瞳の色も。全部、覚えてる。
待ってて欲しい、だなんて言えない。何年後になってもいいから、いつかまた私のことを見つけて欲しい。他には何も望まないから、片桐さん、と笑いかけてくれたらそれでいい。
……でもやっぱり、キスくらいはしてもらえばよかったかな。
人差し指で唇を撫でて、私は溜息をついた。ファーストキスを大事にとっておいたわけではないけれど、私の唇はまだ誰にも触れられたことがない。
ぼんやりしていると、来客を知らせるベルが鳴った。私にあてがわれた住居は、小綺麗なコンドミニアムだ。家賃はなかなか高いのだろうけど、会社からの補助が出ているから私の腹は痛まない。
「はい」
何か荷物でも頼んでたかな――そう思って玄関に向かうと、チェーンを外して扉を開けた。そこに立っている人の顔を見て、私ははっと息を飲む。まさか。幻じゃ、ないよね。私は目を擦って、目の前にいる人の顔をまじまじと見つめる。彼はいつものように、へらっとした笑みを浮かべた。
「片桐さん、見つけた」
何度目を擦ってみても、佐伯くんの姿は消えずにそこにある。ほとんど衝動的に、私は彼の胸に飛び込んでいた。がっしりとした逞しい腕が、ゆっくり背中に回される。なんでここにいるの。どうしてここがわかったの。聞きたいことは山ほどあったけれど、喉が詰まって言葉も出てこない。やっとのことで絞り出したのは、蚊の鳴くような小さな声だった。
「……会いたかった……」
「俺も会いたかった」
背中に回された腕に力がこもる。離れていたのはたかだか二カ月と少しなのに、彼の声も、匂いも、そのすべてが懐かしく感じられる。私はまるで母親に縋りつく子どものように、彼の胸に必死でしがみついていた。
どのくらいの時間そうしていたのだろう。はっと我に返った私は、慌てて彼の胸を押しのけて、腕の中から逃れる。なんだか、勢いでとんでもなく大胆なことをしてしまった気がする。モゴモゴと「ごめんなさい」と言うと、彼はちょっと残念そうな顔をした。
「いろいろ訊きたいことはあるけど、とりあえず入って」
部屋に招き入れると、彼は迷わずソファの上に腰かけた。コーヒーでも淹れようかと思ったけれど、彼は焦れたように私の腕を掴んで引く。
「そんなんいらないから、いいからここに居て」
促されるままに、私は彼の隣に腰を下ろした。もともと部屋に備えつけられていたソファは、二人で座るにはちょっと狭い。ぴたりと身体が密着して、心臓の鼓動が聞こえてしまわないかと不安になる。
「……佐伯くんは、なんでここに」
「飛行機に決まってるじゃん。シンガポール初めて来たけど、七時間もかかるなんて思わなかった。ケツ痛くなっちゃったよ」
「手段じゃなくて理由を訊いてる」
どうしてもつっけんどんになってしまう私の言葉に、何故だか佐伯くんは嬉しそうに破顔した。手にしていた黒いボストンバッグのファスナーを開けて、中から小さな包みを取り出す。それを見た瞬間、私の心臓は止まりそうになった。
「な……なんでそんなの今更持ってくるの……!」
ガサゴソと音を立てて彼が取り出したのは、手編みの赤いマフラーだった。編み目が飛んでいてガタガタだし、記憶よりも下手くそだ。彼の手からマフラーを奪い取って、今すぐビリビリに引き裂いてやりたい気持ちになる。
「俺にとっては全然今更じゃねーんだよ。十年かけて、やっと俺んとこに戻ってきたんだから」
「どういうこと……?」
「あー、説明する時間が惜しいな。とりあえず、それは置いといて」
彼はもうひとつ、真っ白い封筒を取り出した。耐え切れず、私の唇からはヒッという声が漏れる。これ以上、十五歳の幼気な少女の黒歴史を披露するのはやめてほしい。両手で顔を覆った私を見て、佐伯くんはにやりと唇の端を吊り上げる。
「お望み通り。片桐さんのこと、探しにきた」
――離れ離れになっても、また私のことを見つけてくれたら嬉しいです。
私の胸の奥から、じわじわと熱いものがこみ上げてくる。ここから逃げ出したいくらいに恥ずかしいのに、今すぐ抱きつきたいくらいに嬉しい。十年前の私のワガママを、彼は律儀に叶えにきてくれたのだ。
「……なんで、ここがわかったの?」
「結構大変だったよ。普通に住所訊いても、個人情報だからって教えてくれねーし」
「当たり前でしょう」
「とりあえず、営業がてら片桐さんの勤務先に出入りしてみて、片桐さんの元上司を懐柔した。ほんで二人で飲みに行くくらい仲良くなったところで、ポロッと吐かせた」
「はあ……」
私は溜息をつきながら、元上司の顔を思い浮かべた。のんびりした気の良い人ではあるけれど、たしかにそういう脇の甘いところがあった。ありえないことだけど、彼が私のストーカーだったりしたら、どうするつもりだったのかな。
勤務先の情報管理体制に一抹の不安を覚えているうちに、彼の顔が私の間近にあった。吐息が重なるくらいの距離に、私は慌てて身を引こうとする。と、彼の腕が私の背中をしっかりと捕らえた。
「俺、片桐さんのこと見つけるの得意って言っただろ」
逃げるつもりなんて微塵もないけれど、どこにも逃げ場がなくなってしまった。今の私は普段の仏頂面はどこへやら、きっとみっともなくうろたえた顔をしているんだろう。そうしているあいだにも、彼はじりじりと私に近づいてくる。
「ち、近い……」
「うるせーな、もう絶対逃がさないって決めたんだよ」
「わ、私、次いつ日本に帰れるかわからないよ。それでもいいの」
「仕方ないだろ。俺だって遠距離恋愛なんてしたことないし、正直面倒臭いなとは思うけど」
「だったら……」
「でも、その面倒臭さを補って余りあるくらい、片桐さんがいいんだから仕方ねーだろ。もういい加減、お互い観念しようぜ」
私だって、同じ気持ちだ。卒業してから十年間ずっと、佐伯くん以上の男の人なんて現れなかった。私はずっと十五歳のあの日のまま、旧音楽室で赤い糸を編みながら、佐伯くんが来るのを待っていたのだ。
「……私も、佐伯くんがいい。佐伯くんじゃないと、嫌だ」
絞り出すように言うと、佐伯くんは満足げに目を細めた。ぐいと身体を引き寄せられて、背骨が軋むんじゃないかってくらいに強く抱きしめられる。ゆっくりと顔が近づいてきたところで、私はとっさに彼の唇を塞いでしまった。
「っ……、二回目!」
私の手を引き剥がした佐伯くんが、不服そうに眉間に皺を寄せる。急展開についていけない私は、ひたすらに慌てふためくことしかできない。
「ご、ごめん。私、こういうの初めてだから。作法とかわからないし……」
「作法とか、別にねーから。片桐さんは目瞑ってされるがままになってたらいいよ」
「ちょ、ちょっと待って……」
私の制止も聞かず、佐伯くんは私の両手首を拘束した。瞳の奥にギラリとした野性的な光を見つけて、私の背筋はぞくりと震える。恐怖のせいか、それとも期待のためか。たぶん、後者だろう。
「嫌だ。俺、もう十年も待ったんだぞ」
待ってたのは私の方だよ、という言葉は、彼の唇に飲み込まれてしまった。昂った想いをぶつけるみたいな乱暴なキスの後、もう一度優しく重ね合わせられる。初めての感触に酔いしれていると、彼が耳元で嬉しそうに囁いてきた。
「……赤い糸。まだ、繋がってた」
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